播州三木鉋鍛冶三代目
鍛冶銘 鉄心斎芳楽
三木金物問屋資料 明和二年(1765)に、三木町の上町(三木市本町)で、作屋清右衛門と称して金物道具問屋を創業して、今日まで230年以上事業を続けてきた現在の黒田清右衛門商店。 黒田商店に残る証文類・問屋仲間文書・鍛冶屋名簿・棚卸帳などの古文書を活字にしてまとめた本。江戸時代の三木金物関係を調べるにはこれしかないと思われるほど重要な資料です。 |
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〇 寛保二年(1742)諸色明細帳
この年の三木町諸色明細帳に、鍛冶屋として?鍛冶一軒と野道具鍛冶八軒と業種不明の鍛冶屋が三軒載っている。この野道具鍛冶八軒と
○ 寛政四年(1792) 鉋の買値
この年の定法扣にヤマサン印の鉋の買値が載っている。“セバ”一寸四分・“中セバ”一寸六分・“広”一寸八分・1寸二分の4種類の鉋が
○ 寛政五年(1793)棚卸帳鉋の在庫
問屋資料の中で一番古い寛政五年の棚卸帳に鉋類の在庫量が載っています。もうこの頃には三木で鉋が作られていたと思いますが断定は出来ません。
〇 寛政八年(1796)鍛冶仲間への差入証文
作屋と道具屋の2軒の金物問屋から、鍛冶仲間にあてた差し入れ証文には大阪から来た 鍛冶屋から鉋を買わないと書いてあるので、この頃には三木で鉋が作られていたことは確実です。この頃は鍛冶屋仲間の力が強く問屋へクレームを入れたため問屋から出た証文だろう。
しかし三木では鉋の生産量は少なく、他所から来た鍛冶屋や大阪から鉋を仕入れていたのではないかと思います。
この年の棚卸帳に地出来鉋という事が載っています。これは地元で出来た鉋の事だと思います。この頃まだ他産地から鉋を仕入れていたのだろう。しかし三木の鉋鍛冶の生産量が上がり、この歳の棚卸量も地出来鉋の方がはるかに多く、この年以降問屋の他産地からの鉋の仕入れは無くなっていったのではないか。
〇 文化十二年(1815)鉋鍛冶名
この年の諸鍛冶連名に、中庄鉋と藤左鉋の二人の名前が出てきます。三木の鉋鍛冶として出て来た最初の名前です。
中庄とは包丁鍛冶の中屋庄兵衛で藤左とは藤や左兵衛という名前だろう。中屋庄兵衛が鉋を作ったのはこの頃短い時期だけだったようです。
三木市有宝蔵文書にこの年の諸職軒数一覧に鉋鍛治壱軒と出ています。表向きの鉋鍛治株を持っているのは一軒だけだったのだろう。しかし鉋の需要は増えて来ているので、野鍛冶五軒や釘鍛冶拾軒の鍛冶屋のうち数軒が鉋を作っていたのだろう。
〇 文政十一年(1828)の曲尺目切鑿鉋鍛冶扣に鉋鍛冶として5人の名前が出てきます。
藤や金蔵 藤や治兵衛 東這田吉衛門 前田弥三吉 来住や亦兵衛
この中の藤や治兵衛という人は、文化十二年の諸鍛冶連名に出た藤や佐兵衛の子供だろう。これ以降鉋鍛治の第一人者として問屋資料の
〇 天保五年(1834)仲買問屋衆詫証文扣
仲買問屋三軒が連名で鉋鍛冶仲間に詫び証文を入れている。三木や東這田村の鍛冶屋が他の鉋鍛治の偽刻印を作り、それを打った鉋を問屋が仕入れて売ったことの詫び証文。問屋の支配が厳しい時でも鉋鍛治は自分の刻印を持っていた。現代の鋼と違って熱処理の難しい玉鋼を使っていた当時、鍛治屋の腕により品質に差が有り腕のいい鍛冶屋の刻印は価値があったのだろう。
〇 天保六年(1835)棚卸扣
この年の棚卸帳には鍛冶屋の名前がたくさん出てきます。前挽き・鋸・引き回しまで品名が書いてあるので何鍛治か分かりますが、他の鍛冶屋ははっきりとわかりません。しかし鉋鍛治は、『藤治』こと藤屋治兵衛そして『這吉』こと東這田吉右衛門は、文政十一年の鍛治控扣に載っているので分かります。他に『中九』こと中屋九兵衛や『材安』こと材木屋安兵衛や『桶小』の
またこの年の棚卸帳に初めてきたい鍛治として『吉平』『生野屋』の名前が出てきます。この頃からきたい鍛冶という鍛冶屋が
そして中庄古道具が載っています。これは三木で初めて鉋を作った鍛冶屋として名前の出た中屋庄兵衛が廃業して
○ 弘化四年(1845)諸商売取締り
きたい鍛冶作屋利左衛門・井筒屋源七・生野屋結友吉・材木屋安兵衛の四名は当時領主だった明石藩の「諸商売取締り」と称する冥加金の要求に一人が銀六十匁を五年間上納している。
〇 嘉永二年(1849)中屋九兵衛差入証文
鉋鍛冶中屋九兵衛は三木金物仲買問屋衆から、新たに肥切包丁職を始める元手金として金十両を受け取っています。つまりこれは、
〇 嘉永六.七年(1854)棚卸扣の道具買帳
棚卸帳を見ると鉋の在庫量が大幅に多くなっています。嘉永以前と比べると二.三倍位になっています。問屋の販売量も多くなっていると思われます。
○ 安政四年(1857) 正金銀取扱諸商人名前調帳
名前調帳に鍛鍛冶として池田屋善右衛門と井筒屋久七と共に中屋九兵衛が載っている。そして同じ年の町諸役人諸仲間歴名にも庖丁仲中屋九兵衛が載っている、これは肥し切庖丁仲間の事だと思います。このように九兵衛は鉋鍛冶と鍛鍛冶と庖丁鍛冶の株を持っていて、人を雇って大きく仕事をしていた様です。
○ 明治元年 中屋九兵衛鍛冶職株取締役訴状扣
中屋九兵衛は鍛冶職株取締役という役についていて三人の同役と共に奉行所に訴状を出しています。三木の鍛冶仲間では大きな力を持っていたようです。
〇 明治初年頃の状況
鉋鍛治の有名な親方として黒川・小山・藤原・がいました。江戸期に比べ人が代わっているようです。小山系統の小山清次郎が明治元年に創業しているが親方が分からない。
この頃はきたい鍛冶は増井佐吉・原・中本・井筒屋・加賀源の五軒ありました。井筒屋は井筒新吉さんで加賀源は加賀から来た鉄砲鍛冶だった。
この頃から鍛冶屋が作業していた刃付けを専門の業者に外注し始める。
○ 明治三年 広田重吉創業
材木屋安兵衛の弟子であろうと思われる材木屋吉兵衛が広田家に養子に入り広田重吉として鉋鍛冶を創業する。
○ 明治七年 府県物産表
この年の「府県物産表」によると鋸・鑿・鉋・曲尺などの本職用道具のの生産量は三木の所属する飾磨県が一番多かった。もうこの頃から三木は
飾磨県の鉋の生産量は97743挺・新潟県は8263挺・大阪府は39176挺・東京都は7995挺です。この頃はまだ新潟県の生産は少なかった
井筒新吉氏が伏見稲荷神社参拝の帰途、神戸市兵庫区島上町を通っていると輸入陸揚げされた板鋼が目に付いた。鋸鍛冶だった氏は
三木金物は明治以降この年に最高の生産と販売をして好景気になったが、この年以降洋鋼使用の金物の売れ行きが落ちてしまう。
○ 明治十八年(1885) 極端な販売不振になる
明治十三年以降洋鋼への対応を誤ったのだろう販売不振になって行き、明治十七・十八年頃には明治十三年に比べ20%くらいに激減している。
三木の鍛冶屋や職人が半分くらいになってしまった。その原因は不景気になった事もあるが洋鋼使用により声価を失墜したためである。一度失った信頼を取り戻すのは
○ 明治三十年(1887) 黒川太市郎道具屋をしていた
三木金物問屋資料の明治三十年の東国帳に取引先として東京都千代田区神田町で黒川太市郎は福島幸太郎として載っています。 道具屋をしていたようです、殿様に貰った姓で商売をするのを控えたのだろう。もうこの頃は鉋を作っていなかったと思います
○ 明治三十一年 会津から洋鋼も研修に来ている
東日本の刃物産地である会津から洋鋼で刃物を作るため鍛冶屋の藤井重正氏が三木へ研修に数ヶ月居たそうです。
〇 明治三十五年(1902)頃、鉋台打業の始め
それまで鉋は鉋刃だけ地方へ出荷し大工がそれを台打ちしていた。徳永順太郎氏が三木で初めて鉋台打ち業を始める。
。○ 明治三十八年(1905))頃 二枚鉋が使われ始める
今まで使われていた押金のない一枚鉋が押金に付いた二枚鉋が使われ始める。これにより鉋の丈が長くなる。鉋で板を削る時一枚鉋では
〇 明治四十四年(1911)、『黒川君の碑』が建てられる
この石碑は三木の鉋鍛治の中で一番長い歴史を持つ、黒川家の当主黒川卯太郎氏を慕う弟子たちと、友人たちによって三木の大宮神社に建てられた石碑です。
碑文に卯太郎氏の業績が刻まれ台座には弟子達の名前が、玉垣と花生けには友人と鉋鍛冶の親方衆の名前が刻まれています。
この弟子達の名前の中に私の祖父山本喜市の名前もあります。
○ 大正四年 鉋鍛冶の軒数
21軒の鉋鍛冶がいた。これは「三木金物の変遷を語る座談会」で横山藤太郎さんの言葉で残っています。
○ 大正の中頃より 問屋との取引形態が変わってきた
金物問屋から原材料を支給されて鉋を作り、それを問屋に納める形の取引形態が変わってきて、鉋鍛冶が地金屋(じがねや)や
祖父山本喜市が山本鉋を開業した時も、原材料は地金屋や鉄鋼商から購入していた様です。
○ 大正十二年 関東大震災
関東大震災による家屋の再建需要で鉋の注文が多くなり好景気になる。鉋鍛冶に限らず鍛冶屋のの独立開業が相次ぎ、
○ 昭和四年 鉋鍛冶の軒数
この頃から景気が悪くなって来たが、昭和四年鉋鍛冶の軒数が八十七軒と一番多くなる。
厳しい不景気になり、鉋に限らず道具の注文は極端に少なくなり鍛冶屋の数も減り始める。鉋鍛冶もこの年以降少なくなってゆく。
○ 昭和十年 三木金物神社創建
三木の鍛冶屋に尊崇されていた多可郡の天目一命神社の祭神、天目一箇命《アメノマヒトツノミコト》(鍛冶の祖神)、金山毘古命《カナヤマヒコノミコト》(製鉄の祖神)、伊斯許理度売命《イシコリドメノミコト》(鑄物の祖神)の三神を分祀して上ノ丸に金物神社が創建された。
隣の上ノ丸稲荷神社と共に十二月八日のふいご祭は、三木町の一大行事として夜明けから大勢が参拝していた。
55軒の鉋鍛冶がいた。
○ 昭和十八年 大同工業設立
戦争の影響が厳しくなって鉋鍛冶に原材料が手に入り難くなり、鉋鍛冶が集まって大同工業という会社を作った。
大きな作業場数ケ所で仕事をしましたが、今まで親方として鉋を作っていた人が集まって仕事をしたのでいろいろ問題があった様です。 やがて、終戦と同時に大同工業は解散し鉋鍛冶はまた各自の職場で仕事を始めました。
この頃になると戦後の復興で鉋の需要が大きくなり、生産力を上げる為鉋鍛冶は競ってベルトハンマーや研磨砥石を設備し始めた。
設備をした鉋鍛冶の生産量は1,5倍から2倍になりました。
○ 昭和二十三年 火入れ式が始まる
この年の十二月八日のふいご祭の日に、金物神社に御番鍛治司が古式鍛錬を奉納する火入れ式が始まりました。鋸鍛治の吉永清太郎さんと
○ 昭和五十四年 鉋部会の鍛造場設置
地鉄の鍛造をする職人が少なくなって来たので、鉋鍛冶の集まりである三木利器組合の鉋部会が、地鉄の鍛造場を持つ事になり吉永鋼鐵さん倉庫でエアーハンマーを借りて作った。この年以降鉋鍛冶は自分の使う地鉄は自分で鍛造することになった。
○ 昭和五十五年 鍛造場工業指導所へ移転
吉永鋼鐵さんの倉庫での鍛造場も騒音と振動で立ち退きを迫られ、兵庫県工業指導所のエアーハンマーの横にコークス加熱炉を寄付して地鉄の鍛造場を確保する。
指導所の鍛造場もエアーハンマーの振動が精密機器に悪影響があると、ここも立ち退く事になる。部会員の常三郎かんなの鍛造棟に指導所から払い下げを受けたエアーハンマーと、加熱炉を設置して地鉄の鍛造場を作る。
○ 平成八年 伝統的工芸品の指定を受ける
三木の鉋は鋸・鑿・鏝・小刀と共に「播州三木打刃物」として通産省の伝統的工芸品の指定を受けました。鉋鍛冶も五人の伝統工芸士が誕生しました。
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