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播州三木鉋鍛冶三代目
鍛冶銘 鉄心斎芳楽


三木の鉋鍛冶の歴史
三木の鉋鍛冶聞き書き

三木の鉋鍛冶の系図を調べるため平成4・5年頃、本人や子孫の人また近所の人に聞いた事、また郷土史の本から調べたことを書き綴ったものです。調査の途中から書き始め、聞いた事全て書き残していない事が悔やまれます。分かった事は順次載せてゆきます。

【 】は話しを聞いた人です。

 

平田の鉋鍛冶の中西卯之助さんは江戸時代の終わりの生まれ、家は三木中学校の近くで、北西方向の今は牛乳店のある位置にありました。

卯之助さんは息子の喜太郎・勘之介のほかに、荒田亀三郎・竹次郎の兄弟や木下為次郎さんなどの職人を使って当時としては大きく仕事をしていました。

卯之助さんは子供が生まれると子供一人一人に大村の方から子守りを雇って育てていたそうです。また明治の終わり頃の話ですが、

卯之助さんは直接東京の方へ鉋を売りに行っていました。そこで当時三木では話しにも聞いた事もない自転車に乗ったそうです。

三木に帰って近所の人に自転車のことを話すと「ウーやんも呆けたもんや、二つゴマになんか乗れるわけがなかろうが。」 などといって噂したそうです。【広田昌和さんのお母さん】

 

 弟子の荒田さんが独立してから、当時国鉄三木駅裏にあった工業試験所に機械ハンマーが設備してあったのを見て、三木の鍛冶屋で始めて機械ハンマーを設備したそうです。昭和の初め頃だと思います。【発明三木】

  初代広田重吉さんの資料が三木市立金物資料館にありました。「吉平」という銘の鉋を作っていました。鍛冶屋銘が材木屋吉兵衛というから江戸時代終わり頃の鉋鍛冶材木屋安兵衛の弟子か子供かもしれない。材木屋吉兵衛として一人前になった後広田の家に養子に入り鉋を作ったらしい。

その後二代広田重吉さんは鋸の鍛冶屋になり昭和三年に鋸研磨機というグラインダーで鋸を削る機械を考案して特許を取りました。

大宮神社に彰徳碑が建っています。その後工具の会社になり現在は三木ネツレンという会社になっています。

 

志染町中の鉋鍛冶の岡崎伊之助さんは初代広田重吉さんの弟子です。伊之助さんの弟子としては同じ志染町中の久保田久吉さん、甥にあたる草谷の鷲野喜代治さん・淡河町の尾上満冶さん、他にも職人を使って仕事をして自分一代で田畑や山を殖やして財産を作ったそうです。

息子の岡崎定市さんも鉋鍛冶をしていましたが、終戦後まもなく転業しました。【久保田利雄】

 

弟子の尾上満冶さんは小学校を出てすぐに岡崎伊之助さんに弟子入りして十年位修行して独立しました。
 淡河村の自宅の前に職場を立てて弟と2人で
鉋鍛冶を始めました。職場の中に鞴や金床などの鍛冶屋の道具を据える時親方の伊之助さんは弟子を連れて手伝いに来てくれたそうです。
 
ところが鉋鍛冶を始めて2年もたたない時に召集令状がきて陸軍に入り、そのまま2度と鉋を作ることなく戦死してしまいました。

家族の人は職場の中は出征したときのまま、長い間置いていたそうです。私が話しを聞きに行った時、家の一段下のガレージを指差して「そこで仕事をしてたんや」とおばあさんが話してくれました。【尾上さんの家の人】

 

東條町には大正から昭和にかけて平井さん二軒、藤原千太郎さん中野大吉さんの四軒の鉋鍛冶が居ました。
 平井鉄之助さんは大宮神社の境内にある
「黒川君の碑」の玉垣に名前が載っているように、明治の終わり頃には鉋鍛冶の親方として名前の通った人だったようです。
 鉄之助さんの生まれたのは
明治のはじめの頃だと思います。平井家の系図は平井鉄之助―平井宗冶―平井一男―平井金治となります。
 みんな鉋鍛冶でしたが一男さんが若くして死んだので、
昭和十数年頃廃業しています。
 鉄之助さんが育てた人は、明治二十九年頃弟子入りした清水町の森本音市さんや、
開業した後も一男さんが死んだので平井家へ仕事に行っていた新町の小林喜市さんがいます。

  藤原千太郎さんも平井鉄之助さんと同じ様に、「黒川君の碑」の花生けに名前が見えるので三木の有力な鉋鍛冶の親方だったようですが、昭和の始め頃加古川の方へ引越しをして行った様です。

    中野大吉さんは井上鶴松さんの弟子です。中野さんは平成三年九月に92歳で亡くなりましたが、亡くなる直前まで呆けもせず昔の事をよく知っていたそうです。

地元の東条町の古い昔の事は中野さんに聞きに行ったそうです。もう少し早くこの調査をしていれば古い鉋鍛冶の事が良く分かったと思います。             【生田・森本喜市・小林】

 

  清水町の鉋鍛冶藤木光蔵さんの親方は重松熊三郎さんです。重松さんの子孫は現在神戸市に在住。光蔵さんの弟子は長男・次男・三男と多鹿善治さんとその兄。

光蔵さんの長男次男は次々に出征してそして戦死してしまいました。三男が鉋鍛冶を継いだが後に転業しました。 多鹿善治さんは後に加佐で鉋鍛冶を開業しました。  【藤木さんの家の人】

   新宿町の鉋鍛冶吉田寅雄さんは親戚の名古屋の鉋鍛冶に弟子入りをしました。一人前になってから各地の鉋鍛冶をバンクして回り その後新宿町で開業しました。 【吉田寅雄さんの子】

 

  大村町の西垣雄治さんは岩井作太郎さんの弟子です。西垣雄治さんの事は全然分かりませんでした。
 ある人が大村町の西垣石材店が昔鍛冶屋をしていたと聞いて、
西垣石材店へ電話をしました。
 家の人は分かりませんと言うので電話を切ろうとしたら「ちょっと待ってよ。おばちゃんに聞いたるわ」と近所のおばあさんと
話す声が電話に聞こえます。「おばちゃん西垣雄治さんて、知ってる」「雄さんゆうたら・・の親やがいな」と子孫の人が分かりました。 子孫の人に聞くと岩井作太郎さんと分かりました。自分で鉋鍛冶をしていたのは昭和の初め短い期間だった様です。 
      【西垣雄治さんの孫】

 

高木の鉋鍛冶長谷川利勝さんは、芝町の鉋鍛冶に弟子入りしたらしいのですが親方の名前は分かりません。横山藤太郎さんかもしれません。後に鉋鍛冶を辞めて加古川で金物屋をしていました。 
【横山邦男さんのお母さん】

 

  新宿町の小鉋鍛冶内藤系統の始めは、内藤太吉という人が神崎郡から出てきて三木で小鉋鍛冶になったのが始めです。太吉さんの旧姓は多田で養子に行って内藤の姓になりました。
 太吉さんの息子増次さんと三次さんも小鉋鍛冶になり、増次さんの方は太喜夫−博之さんと鉋鍛冶には珍しく四代続いています。

 太吉さんの弟子は他に甥の多田勇治さんと多田俊次さんがいます。 【内藤好明】

 

大開町の鉋鍛冶今井利市さんは旧姓村上です。黒川卯太郎さんの息子の黒川武四郎さんの弟子です。武四郎さんが大正の終わり頃亡くなった後、片島久市さんが黒川の弟子の指導に黒川の職場に行っていました。利市さんは兄弟子の上山武夫さんが独立する時、上山さんの職場に行きました。

戦争中徴用され呉の海軍工廠で働いていたそうです。一方鉋鍛冶の今井忠治さんの息子が戦死されて、跡を継ぐものがいなくなり利市さんが昭和十八年今井家に養子に入りました。

【今井さんの家の人】

 

 栄町の鉋鍛冶山口房一さんはは山口庄太郎一山口房太郎一山口房一と続く三代目です。庄太郎さんは明治10年代の生まれで鉋の親方の事は房一さんも聞いてないそうです。  【山口房一】

 

三木の鉋鍛冶には昔からの播州鉋鍛冶の系統の他に、他地方の鉋鍛冶に弟子入りした人や大阪の鉋鍛冶が三木に来ている場合もあります。江戸時代から明治には大阪の天王寺辺りに鍛冶屋が集まっていて鉋鍛冶も大勢いたそうです。 

宮前町の金沢伊之助さんは大阪から三木へ来た鉋鍛冶です。金沢家の系図は金沢万吉−金沢福松−金沢伊之助となります。伊之助さんは明治20年頃の生まれですから万吉さんは江戸時代の生まれになります。万吉さんは鉋鍛冶の親方として弟子も取り家族もいましたが、ある日突然江戸の方へ出奔してしまいました。

 その後一番弟子の坂田力松という人が家に入り、親方の子の金沢福松らに鉋を教えました。その後伊之助の代になってから伊之助の妻が三木の長屋村の出身だった関係で三木に引っ越して来ました。その頃大宮神社の階段の下料亭八乃家の南、金沢さんの家のある辺りは竹藪だった。

 伊之助さんはお酒が好きで人が寄り付きやすい親分肌の人なのか、昼過ぎから人が出入りして酒を飲んでいました。これは当時の仕事時間が、朝早くから仕事を始め3時頃には終わることもあります。特に大阪で修行してきた井村松治さん・藪西政一さん・瀧本熊蔵さんに大阪からバンクして来た人など。

息子の耕三郎さんは小さい頃の食事時に顔も知らない人とよく食事をしたそうです。家の斜め向かいが魚住福三郎さんの家で、ある時鉋鍛冶2軒が仕事を始める時間の早さの競争を始めて、とうとう夜中の2時から仕事を始めた事もありました。

 伊之助さんが三木で鉋鍛冶を始めて育てた弟子は井上?一さんや堂本清・辰治兄弟に戸田音市・政治兄弟がいます。

 息子の耕三郎さんは父親が鉋鍛冶として人が大勢人が家に出入りして母親が苦労するのを見て、鉋鍛冶にならず鋸鍛冶になりました。    【金沢耕三郎】

 

御坂の鉋鍛冶は藪西政一さんと瀧本熊蔵さんが兄弟弟子として大阪の鉋鍛冶に弟子入りして、鉋の修行をして後に独立してそれぞれ御坂で開業したのが始めです。

親方は大阪の鉋鍛冶で山中よし太郎という人で井村松治さんのおじさんです。その関係で二人は井村さんと仲が良かった様です。

 藪西さんの弟子としては息子の政雄さんと、同じ御坂の藤原茂さん他に数名います。瀧本熊蔵さんの弟子は藤原濱二さんと大西貢さんです。

大西さんは三津田の農家の長男で鉋の修行中に結婚してしばらくたってから、新妻に子供が出来た事を知ってから出征して間もなく戦死しました。自分の子供の顔を見る事が出来なかったそうです。

【藤原茂】

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山本鉋製作所

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