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播州三木鉋鍛冶三代目
鍛冶銘 鉄心斎芳楽


三木の鉋鍛冶の歴史

黒川鉋鍛冶の系譜

 

「山本鉋製作所初代山本喜市が師事した師匠黒川卯太郎氏の鉋鍛冶の系譜です」

              

 三木鉋鍛冶の歴史の中で、黒川卯太郎氏が最も発展に貢献されているのではないか。明治の頃三木を代表する鉋鍛冶として知られている。

その上卯太郎氏は多数の弟子を育てられ、またその弟子達から多くの鉋鍛冶が出て,以後鉋業界の中でも多数の割合を占めている。 

三木の大宮神社には「黒川君の碑」と云う石碑があります。                   

この「黒川君の碑」は明治四十四年に多数の弟子達と友人達によって建てられた石碑で、当時鉋鍛冶として高名な人であったと思われます。
この碑文に、
「黒川氏三世の主、卯太郎は安政元年二月、三木に生まる。性温厚篤実にして夙に父祖の業をつぎ・・・・」とあります。「父祖の業」とは三代以上続いた仕事という意味だろうと思います。

 卯太郎氏の父は太市郎といい「三木町先覚事蹟考」によると、「太市郎は父を九兵衛と言う、文政十一年9月2日三木町新町に生まる。九兵衛は鍛冶を業とし、鉋鑿等の製作に従いしが、また刀匠としての誉れあり、太市郎成年に及び専ら刀匠をもって家名を起こさんとし、研鑚これ努め技大いに進む・・・・刀剣名は東播住人源利行と称す」と記されている。 

後に明石藩御用刀剣鍛冶となったが、明治維新による廃藩置県により藩主の東京移住に際し、藩士の上京組と共に東京へ行き刀を打っていましたが、時の流れにより刀鍛冶を諦めて後鉋鍛冶として名声を上げた。明治三十九年十一月1日に東京で逝去する。

 卯太郎氏の子孫で孫にあたられます黒川隆子氏の話によりますと、太市郎は殿様に可愛がられ毎月御城に参上しました。毎年一回藩の家老が太市郎の職場を巡視に来ました。またある年殿様自身が三木の職場を見学に来たこともあったそうです。そして太市郎が殿様に従って東京に行く時、長男の卯太郎は祖父の九兵衛と共に三木に残り、母と弟らを連れて行って家族が離れ離れになりました。

この時卯太郎は十八歳でした。そして、太市郎の父が中屋九兵衛だと言うこと、新町に住んでいたこと、鉋鍛冶だったこと、中屋から黒川に姓が変わった理由は分からない、また遠くから卯太郎に弟子入りして鉋の修業中に病気で亡くなった弟子は、黒川の家で葬式を出し墓も黒川家の墓地にあるそうです。太市郎が明石藩の御用刀剣鍛冶になるほどの技量を持つには、どこか刀鍛冶の親方に修業にのではないかと思ったのですが、それは分かりませんと。・・・等話を聞かせて頂きました。

問屋資料の明治三十年の東国帳に金物屋として、東京神田千代田町黒川太一郎(当時は福島幸太郎)と載っています。黒田商店と取引があったということは、この頃金物屋をしながら鉋を作っていたのだろうと思います。

太市郎の親の中屋九兵衛という人は三木金物問屋資料の中に時々出てきます。「三木町先覚事蹟考」の記事や黒川隆子様の話で鉋鍛冶だったといわれています。それは問屋資料の天保六年の棚卸帳に、鉋らしい項目に載っていることで分かります。

 また九兵衛は問屋資料の嘉永二年の差し入れ証文の中では、仲買問屋と交渉して新たに肥やし切り庖丁鍛冶を初める為の元手金として金十両を受け取っています。そして安政四年の正金銀取扱諸商人名前調帳にきたい鍛冶(鍛鍛冶)として載っています。
明治元年には三木鍛冶職取締の役についています。このように九兵衛は普通の鉋鍛冶ではなく、肥切り庖丁やきたい鍛冶(鍛え鍛冶)の鍛冶株も持っていて、いろんな仕事をしていたようです。そして三木町の中でも相当な有力者であったと思います。

三木宝蔵文庫に中屋九兵衛の史料がありました。大宮氏子遍照院後見願書には慶応二年に新町丁宿老という役に就いている事が載っています。

鉋や包丁を作る鍛冶屋の方だけでなく三木町を治める行政の方でも新町を代表する重い役に就いています。そして天保十五年や嘉永七年の明石藩の冥加銀の要求にも応じています。  
九兵衛の親の事は何も分かりませんが、九兵衛がこれだけの事が出来たのは本人に能力が有ったのはもちろんですが、親の代から鍛冶屋の基礎があったからだと思います。九兵衛の親の世代の人に中屋庄兵衛と中屋国松という人が問屋資料に出てきます。中屋庄兵衛は住所も同じ新町で包丁鍛冶帳に載っていながら鉋も作っています。しかし天保六年の棚卸帳に中九と中庄と二人とも載っているので、親子ではないと思いますが鍛冶屋として何かつながりが有ったかも知れません。   

 そして同じ天保六年の棚卸帳に中庄古道具と載っていますが、これは鍛冶株と鍛冶道具を黒田商店へ売ってこの年に鍛冶屋を廃業したのではないかと思います。

 中屋国松は文政十一年の鑿鍛冶控に名前があります。そこには横に小さく大坂と書かれています。中屋国松は大坂から来た鑿鍛冶だったと思われます。九兵衛は先覚事蹟考によると鉋と鑿を作っていたので親が鑿鍛冶の可能性が有ります。いろんな事を考えると中屋国松が九兵衛の親だと思います。中屋庄兵衛は文化十二年に鉋を作っていますがその年以降鉋は作らず庖丁鍛冶として載っています。

  中屋から黒川に姓が変わったのは、太市郎が明石藩御用刀剣鍛冶師になった時藩主より姓を賜ったものと思われます。 

 整理しますと黒川鉋鍛冶の系譜としては卯太郎の息子も鉋鍛冶になっているので

          とこのようになると思います。

 

黒川太市郎(刀鍛冶銘源利行)作の刀

 

 

 東播住源利行作之

 文久二年壬戌八月吉日

 

黒川太市郎作の刀が出てきました。三木市の刀収集家のOさんが「東播住源利行作之」の鍛冶銘を見て地元東播住の刀鍛冶は珍しいと買ったそうです。

源利行という刀鍛冶銘は刀工名鑑に載っているそうです。しかし源利行という人がどこのどういう人が調べても分からず、山本鉋のホームページを見て分かりましたと電話をくれました。 
それからしばらくしてOさんがその刀を私の家へ見て下さいと持って来てくれました。刃長二尺4寸八分五厘で柾目肌に直刃で裏には「文久二年壬戌八月吉日」と銘切りがしてあります。この刀は普通の戦闘に使う打刀ではなく太刀という大きな刀です。もって見ましたが重いですね、私には振り回す事はできません。

 太刀というのは藩の家老以上の地位を持った人がステイタスシンボルとして持つ刀だそうです。Oさんの話ではこれだけ大きな刀を傷も無くきれいに作り、真っ直ぐな直刃に丁寧な銘切りをしている.刀工としてすごい技量を持った真面目な人だと思いますと。

太市郎さんは源利行の刀鍛冶銘で刀をかなり作ったと思います。槍が1本あると新聞に出たことはありますが、刀が残っていると聞いた事はありませんでした。私の鉋鍛冶の系譜の先に繋がる黒川太市郎さんの事績が一つ分かり良かったと思っています。綺麗に研いだ後また見せてくれるそうです。

 また一人関東在住の人が源利行作の刀を持っていて、山本鉋のホームページで作者の事が分かりましたとメールをくれました。

この刀は長さ 81,6cm 反り 1、0cm 穴1個 元幅3,37cm 元重ね0,77cmのおおきな刀です。そして銘は 「元治二年二月吉日 裏 播磨國住源利行造之」と切ってあります。

下文は買った時の説明文をEメールで送ってくれたものです。 

維新の嵐真っ只中、正に勤皇刀の典型と言える実戦刀を造っている。俗名「黒川太市」播州三木に住した侍鍛冶と思われる。身幅広く、重ねがっちりとして、反り浅く、七寸に近い長寸ながら、手持ち頃合の重量感で、使えると感じる。古研・小錆あるも、地刃良く見え、疵欠点殆ど無し。僅かに指裏小鎬下の鎬地に、小さな鍛え疵一箇所を見るのみで、これほどの長寸を出来口良く、まとめ上げた利行の非凡さを感じる。地肌/板目、流れ心に良く練れて詰み、地沸を撒いて、金色明るく粘りあり。刃紋/直刃、すっきりと絞まりながらも、匂い深く、小沸を見せて、小足入り、細かいほつれを交えて、明るく冴える。鋩子/直に突上げ、先小丸、返り程よく素直。手掻の風情あり。一時代の特色を良く現した優作で、正に「用」の一刀也。

 

太市郎の生まれた年は文政十一年(1829)ですから元治二年(1865)は36歳の時作った刀です。

この刀も長さ80cmを越える豪刀ですが疵なく仕上げるのはすごい技術だと思います。

 

 

黒川鉋鍛冶の弟子

魚住鉋鍛冶

魚住鉋鍛冶は魚住福三郎さんが明治二十三年に十三歳で黒川卯太郎さんの一番弟子として弟子入りしました。その後明治四十五年卯太郎さんの息子の武四郎さんが一人前になった後魚住福三郎鉋製作所を創業し独立しました。
横山由松さんら多くの弟子を育てられましたが、
鉋の名人として有名な坂田春雄さんも福三郎さんの弟子です。宮前町から久留美に工場を建て鉋の他バールやハンマーの製造も始めました。

替刃式鉋も初めて作りましたが時期が早かったのかあまり売れなかった様です。

職人も多くいて鉋では大きな事業所で福三郎 ― 丑之助 ― 憲三郎と三代続きましたが現在は廃業しています。

常三郎鉋鍛冶

常三郎鉋は魚住福三郎さんの次男常三さんが新町で開業したのが始めです。二代目昭男さんの時に鶯谷に新工場を建てて移りました。

鉋部会の地鉄鍛造場はこの工場の中を借りてあります。現在は三代目の徹さんが継いでいます。

  坂田鉋鍛冶

魚住福三郎さんから独立した坂田春雄さんは作った鉋に自分の銘を切って売りました。これは三木で初めての事で、価格はとびきり高かった。

この後三木の鉋鍛冶は自分の作る鉋の印を持つ様になったと思います。春雄さんは玉鋼の研究も重ね玉鋼で鉋を多く作っていて、三木の鉋鍛冶のシンボル的存在です。息子の憲治さんが二代目を次ぎましたが現在は亡くなり坂田鉋は絶えました。

山本鉋鍛冶

私の家の山本鉋は祖父喜市が明治三十六年に黒川卯太郎さんに弟子入りして鉋の修行を初めました。黒川さんへは横山藤太郎さんをはじめ同年代の人がかなり弟子に入りました。祖父喜市は卯太郎さんの下で一通り鉋を覚えた後他の鉋鍛冶に職人として数年通い、そして大正八年に弟久一さんを先手に山本鉋製作所を創業しました。

そして大正十一年に田中正一郎さんが十一歳で弟子入りしました。十一歳ですから仕事を覚えるよりも当時三歳だった父勝三の子守りの時間が長かった様です。
 大正の終わり頃黒川卯太郎さんの奥さんが明石で列車の事故で亡くなった時、親方の家が大変だということで家中が大騒ぎで
パニックになったと正一郎さんが言っていました。それから長男博一さんが仕事につき、正一郎さんに鉋の仕事を教えてもらい一人前の鉋鍛冶になりましたが出征して戦死しました。その後も仕事に入っていた三男の順三さんも戦死してしまいました。
終戦後私の父勝三が家の仕事に入り、
正一郎さんに鉋の仕事を教えてもらい一人前になった後昭和二十五年に正一郎さんは独立し田中鉋製作所を開業しました。

 

    田中鉋鍛冶

昭和25年に栄町で開業した田中正一郎さんは堂本勘吉さんと横山邦男さんらを育てています。後年共に独立しています。正一郎さんは高木に新工場を

建てた頃長男邦彦さんと次男満太郎さんも仕事に入り大きな事業所になりました。昭和44年頃長男邦彦さんはヨーロッパの刃物研究のため

岸本浩工学博士に随行し、1ケ月余に亘ってスェーデン・イギリス・ドイツ等各地の熱処理技術を勉強しました。その時スェーデンで木炭還元で作られた

鉋用の特殊鋼を注文その鋼で主に鉋を作ってきました。その後蒼龍刃物製作所に事業所名を新め、他の事業にも進出し今は3代目の康嗣さんが社長です。

正一郎さんの書いた終始一貫という本には、昔の鉋鍛冶の弟子の生活が書かれていて修行生活がよく分かり貴重な鍛冶屋の資料です。

     

    片嶋鉋鍛冶

片島久市さんは私の祖父喜市の弟です。黒川さんへ鉋の修行に行っていましたが喜市が仕事を初めた時先手として一緒に仕事を初めました。

その後黒川武四郎さんが病気になった後、黒川の職場で上山さんら弟子を育てた後昭和元年に開業しました。久市さんが養子に行った片島家は、

鍛冶屋の火窪に使う羽口を作っていて裕福だったそうです。父と同級生のいとこに片嶋一夫さんがいて、片島家へ夕食を食べに行くと洋食(カレー)を

ご馳走になり、山本の家で呼んで食べると私の家のご飯は麦を混ぜていたので、この家のご飯は筋があるなと言われたそうです。

  久市さんは仕事を始めると鍛冶屋銘として久市の登録商標を取り鉋を作っていました。当時鍛冶屋が登録商標をとる人はほとんどいませんでした。

その後次男の圭三さんが仕事を継ぎました。【片嶋圭三】

 

横山鉋鍛冶

芝町の鉋鍛冶横山藤太郎さんは黒川卯太郎さんの弟子です。藤太郎さんは十人兄弟の長男で父弥太郎さんがもう高齢のため、

弟子修行が終わった後すぐに大正五年二十五歳の時に独立しました。長男の林蔵さんも戦後鉋鍛冶を継いでいましたが、

好きなカメラの仕事の写真屋を始め弟の福蔵さんが後を継いで鉋鍛冶になりました。【横山隆史】








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