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播州三木鉋鍛冶三代目
鍛冶銘 鉄心斎芳楽



鍛冶屋が集めた鉄の古道具


大工道具 壱

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 22 岡谷銘の鉋
   地鉄 和鉄
   鋼  玉鋼
   
 この鉋は刃巾が一寸九分の寸四の鉋で和鉄に玉鋼を鍛接した古い鉋です。裏は?の透き均し甲は火造りの鎚で仕上げています。介在物も肉眼では分かり難いほどで研いでみるといい返りが出ますが、やはり玉鋼だけに刃が小さくボロつく所が有ります。 銘は岡谷ではなく岡の字の山のところが止になっています。こんな漢字は漢和辞典にも載っていませんが、たぶん岡谷と読むのだろうと思います。  岡谷といえば現在の岡谷鋼機の前身、金物商笹屋の創業者が岡谷總助宗治だ。1669年(寛文9年)に名古屋の鉄砲町で店を開いている。その後大阪や江戸にも店を開き金物商としては日本有数の店になった。

 三木金物問屋資料によると文化十二年には黒田商店と取引をしていて、以後文政・天保・弘化・嘉永と笹屋宗助として文書に出てきます。天保九年には岡谷宗助北店・岡谷宗七南店と姓は岡谷で出てきて名古屋に二つ店が在ったようです。嘉永七年の東国卸帳には笹屋宗助は、江戸一の金物問屋炭屋七左衛門と同じほどの取引があり大きな商売をしていたと思います。この鉋は笹屋さんが鍛冶屋に作らせた鉋だと思います。岡谷銘に鉋の換先(かいさき)にの刻印があります。この印は三木金物尾問屋資料に、笹屋の紋所として出てきますので笹屋さんの鉋にまちがいないと思います。作った鍛冶屋に関しては、岡屋銘の上に博の刻印がありこの字が鍛冶屋の印かもしれません。明治の初めか江戸の終わり頃作られた鉋だと思いますが、三木で作られた物かどうかは分かりません。

参考資料 三木金物問屋資料
 
       岡谷鋼機ホームページ

 21 二見屋福次郎の鋸
   鋼 玉鋼
   
 この鋸は武州黒岩住二見屋福次郎作と銘切りされています。二見屋の元祖は江戸時代伊勢の国二見に住んでいた矢ケ崎甚八で、紀伊徳川家の御用鍛冶だったが藩主吉宗が八代将軍として江戸入府した時、同行し現在調布市の矢ケ崎村に住んだ。そして故郷を忘れない様に二見屋を名乗ったという。

甚八家から岩作が分家し岩作家から沖五郎が分家した。それぞれが弟子を育て関東に二見屋系鋸鍛冶が増えていった。中でも沖五郎が有名で、この人は自分の跡取に玉鋼の鍛えの上手な弟子に継がせ長男を養子に出したという。 甚八家の子孫の家に「二見屋甚八の碑」がありますが、この中に二見屋福次郎の名はありません。しかしこの鋸の作者も二見屋系の鋸鍛冶屋だと思われます。この鋸は全長一尺二寸二分・先巾一寸四分・元巾一寸二分で刃部の長さ7寸。薄い刃で元は背金の付いた胴付き鋸だと思います。玉鋼で出来ています。薄い鋸ですが玉疵はほとんどありません。しかし硬度は低そうです。 手に入れた時は刃はほとんど無く歪んでスルメのような鋸でしたが、歪みは近所にある鋸の歪み取り屋さんにとってもらい、目立ては玉鋼の鋸をよく知っている京都の目立て屋さんに頼みました。 いい鋸になりました。

 参考資料  ホームページ 武蔵野・多摩MTB散歩 矢ケ崎村
        多摩のあゆみ 鋸鍛冶二見屋沖五郎  星野欣也

 20 つば鑿
地鉄 現代鉄
鋼 現代鋼     
   
 これはつば鑿といって大きな和釘を打つ時あらかじめガイドとなる穴をあける鑿です。 主に和船を作る船大工が使っていた鑿です。

昔は大きな港には船大工がいただろうし、そこには船大工の使う道具や和船用の和釘や金具を作る鍛冶屋がいたと思う。もちろん三木にもつば鑿を作る特殊鑿鍛冶がいました。大きい方の鑿には東と銘がありますが鍛冶屋は分かりません。大きい方のつば鑿は全長一尺五寸・刃部の長さ一尺七分の大きな鑿です。現代鋼製なのでそんなに古い物ではないだろう。打ち込んだつば鑿を引き抜くために、叩かれたつばの辺りを見ると普通の大工道具には無い、荒々しい雰囲気を持った道具です。左は船釘です。すごく錆びて古そうな釘ですが材料は現在鋼です。断面は正方形もありますが薄い長方形が多いです。木に打ち込んだ時木が割れない様な形をしています。

 19 鏝鑿
地鉄 現代鉄

鋼 現代鋼
   
 この鏝鑿は刃幅五分・刃の丈は二寸二分で柄を含めた全長は九寸七分で柄は黒檀です。

いろんな道具と一緒に箱で買ったものです。残念ながら鉄も鋼も現代のものです。しかし仕上げは丁寧ですね。全てやすり仕上げ軸の筒状の所は細い目の鑢で削っています。黒檀の柄はあまり使われた感じはなく、後から打ち直したものだろう。 研摩砥石の無い頃作られた物だろうと思う。

 18 玉鋼の鑿
地鉄 和鉄

鋼 玉鋼

   
 この鑿は刃幅八分・穂の丈が一寸四分・軸が二寸二分・全長が一尺二分の変わった形の鑿です。

介在物の多い和鉄に極小さな介在物の玉鋼、よく使われてもう鋼の部分がかなり少なくなっている。銘はカタカナのトの様な刻印が打ってある。口金が朽ち果てている部分があるほど古い鑿の感じがする。突き鑿なので押して使ったものだが、何の作業に使ったのだろう。 裏の真ん中の黒い穴は硬度計で測った跡です。データは忘れましたがやはりと言うか、今の鑿に比べてかなり硬度が低かった。

 17 堺重の鉋
地鉄 和鉄
鋼 玉鋼
   
 この鉋は先幅二寸一分で今の64mmの鉋で、銘は堺重と刻印があります。裏はすきならしで甲は錆びてはっきり分かりませんが、火造りしたままの地肌の様です。

 和鉄に玉鋼を沸かし付けした古い作りの鉋で、おそらく江戸時代の作だろう。地鉄は介在物が偏在する和鉄の特徴がよく出ている。 よく切れた鉋なのかよく使われ、もう裏出しをすると鋼が無くなりそうだ。  銘の堺重から鍛冶屋は堺の人か、当時堺には庖丁鍛冶が大勢いたそうだから庖丁鍛冶が作ったものか、大阪で鍛冶を修行をした人が堺で作ったのか空想が膨らみます。

 16 中や甚五郎二代作の縦引き鋸
鋼 玉鋼
   
 この鋸は全長二尺一寸七分だが刃部の長さが七寸六分あり鋸刃も大きくなにかアンバランスだ。作られた時はもっと長い縦挽きのガガリだったのだろう。使っている時に折れて今の形になったのだろう。

 作者の中や甚五郎二代に関しては信州鋸の元祖藤井甚九郎が、文化2年(1805年)に江戸から来て信州で鋸鍛冶を始め多くの弟子を育てました。修行が終わり鋸鍛冶を開業する人には「甚」か「九」の字を与えて指導支援をしたらしい。この作者は信州の鋸鍛冶だと思います。

 15 花刻印の鑿
地金 和鉄

鋼  玉鋼
   
 この鑿は全長七寸七分で幅六分。穂の長さ一寸七分の内六分位しか鋼が入ってない。今の鑿の作りとは違い最初から裏全面に鋼をつけていなかったようだ。和鉄に玉鋼を沸かし付けしたかなり古い鑿だ。裏透きの部分をサンダ−で削ってしまっているのがもったいない。

鋼は刃の方は介在物が見えないぐらいだが、裏はごく小さい介在物がすじ状の模様を浮き出ている。銘の所に五弁の花びらの様な刻印、下がり輪は分かりませんが口金は鍛接して作っています。柄も使っていた人の自作だろう平鉋で削って作っている。 作られたのは明治かそれ以前かもしれない全体が黒褐色のいい古色の出たすばらしい鑿だ。

 14 玉鋼の鉋
地金 和鉄
鋼  玉鋼
   
この玉鋼の鉋は幅50mm丈69mmで側の刃先の厚みは4,5mm頭は5,5mmの薄い鉋です。刻印は打ってありますが読めません。  鉄は錬鉄か和鉄か判断がつき難いですが和鉄だと思います。この鉋の刃を見ると鉄と鋼の境がはっきりとしているので、沸し付けではなく接合剤を使った鍛接だと思われる。これが鎚のひびきの玉鋼の鉋の話にでた、鋼がまだ残っていて使える様なので研ごうと軽く裏出しをしたら割れてしまった玉鋼の鉋です。  見た通り鋼の介在物はほとんど無く一見いい玉鋼だと思ったが、鍛冶屋が鋼造り・鍛接・鍛造・焼入れのいずれかの工程で温度を上げ過ぎた鉋の様だ。そのまま砥いでもポロポロ欠けて刃がつかない。
 13 鉋 銘 「源利行」
地金 錬鉄
鋼 現代鋼
   
 2番目の利行の鉋とは作った鍛冶屋が違うみたいです。 少し前に手に入れました。側刻印に旧明石松平公御用刀剣鍛冶と打ってあり、上に三代の刻印がある70mmの鉋です。

この鉋は御用刀剣鍛冶の黒川太市郎から卯太郎そして、三代目の黒川武四郎の作った鉋ではないかと思いますが断定できません。この武四郎さんは祖父喜市と同じ年くらいでどういう付き合いがあったのか分りませんが、年若くして病死しました。 チェンの様な錬鉄地に現代鋼で大正の終わり頃の鉋だと思います。 

 12 縦挽き鋸銘「谷口清右衛門」
鋼  玉鋼
   
 谷口の鋸といえば江戸時代京都の伏見にいた鋸鍛冶として有名です。

聞くところによると時代は少し下がりますが鋸鍛冶として、谷口清兵衛・清次郎・清三郎の三兄弟の谷口系統と森口系統の鍛冶屋が多かったそうです。しかし大正・昭和にかけて300軒ほどの鋸鍛冶がいましたが、ほとんどの人が亡くなってしまって伏見の鋸鍛冶の事はほとんど分からないみたいです。伏見の鋸鍛冶の事知っている人がいたらご教示をお願い致します。  この鋸は全長53cm最大幅7.5cmの縦挽鋸です。銘ははっきりとは分りませんが「谷口清右衛門」と読めます。錆がひどく先の方が二段にちぎれています。玉鋼製のかなリ古い物だと思います。谷口系統の鋸鍛冶だったのだろう。 

 11 片刃の釿
地金 和鉄
鋼  玉鋼
   
 この釿は四番の両刃の釿とセットで手に入れた物です。両刃の荒仕上げ用ではなく片刃の仕上げ用の釿だと思います。和鉄に玉鋼を沸付したかなり古い物だろう、この鋼は合せ砥で砥いでやっと極小さな介在物が分かるほどいい玉鋼だ。 釿の裏の中程までに鋼がある。これはそこまで使ったら鍛冶屋で鉄と鋼をまた鍛接して修理するのだろうか。斧も鋼が無くなれば鉄と鋼を鍛接して修理していた様だから。
 10 片刃鋸銘「幸兵衛」
鋼  玉鋼
   
 よく使い込まれた玉鋼製の片刃鋸で幸兵衛と銘が切ってある。全長64cm刃部の長さ26cm。 

この鋸の中子の作りが変わっている鋸の首を挟み込んで鍛接している。使っていて中子が折れて鍛冶屋に修理してもらったものだろう。作られたのはかなり前だと思う、角が取れて丸くなっている。  この鋸を見ると鍛冶屋として使った大工と鋸に対して、よくここまで使ったと頭の下がる思いがする。

 9 鉋 銘「國定」
地金 錬鉄

鋼  現代鋼
   
 「國定」鉋は何処で手に入れたのか忘れました。作られたのは研磨砥石の無い時代で、裏はセンの透きならし、側と頭はヤスリ仕上げ。甲もセン仕上げ、たぶんこれも戦争前の物だろう。

現代鋼にいいチェン地だ。刃の鋼の出かたが悪いが昔の作り。全体的にいい仕事をしている。 たぶん三木の鉋鍛冶が作った鉋だろう、しかし作った鍛冶屋はわからない。

 8 丸透き鑿
   
 この道具は直径7mmの円弧状の刃を持つ丸透き鑿です。 この鑿は下駄の歯の根元を丸く削る道具で、刻印はあるが読めません。 完全に砥いでないのではっきり分りませんが鉄も鋼も今の物だろう。

しかし口金は鍛接して作ってあり、丁寧な仕事をしている。おなご竹の鞘のあるこの鑿の新品の穂の長さは、5寸から5寸5分あったがもう3分の2を使っている。 いい鑿鍛冶からいい下駄職人に渡った道具だと思います。 

 7 和鋼の金鎚
地金 和鉄

鋼  玉鋼
   
 この金鎚もいつ何処で手に入れた物か覚えが無い。 長さ115mm直径28mmの金鎚。

和鉄の先に和鋼を鍛接した作りで、尖った方には鋼は無いが平らな方は5mm程の和鋼が鍛接してある。 何に使っていた物か分らないが、少し前まで使っていたような感じがする程古さが見えない。 古い物だと思うが案外新しいのかな。 

 6 桶屋のセン
   
 このセンは桶屋の道具だろう。大きい方のセンは刃渡り23cmでこの?の錆は今の鉄のようで、砥いでみるとやはり鉄も鋼も現代鋼製だ。

 カーブした小さい方のセンは刃渡り15cmで、これは和鋼和鉄で出来ているかなと思ったが鋼は今の物。鉄は和鉄かパドル鉄かはっきりしない。  どちらもそんなに古い物ではないだろう。 

 5 大同の鉋
   
 この鉋は職場の物入れの引き出し昔からあった鉋です。48mmの鉋が2枚51mmの鉋が1枚、銘は文工と大同の2種類の小鉋です。

 この鉋は太平洋戦争の時代に作られた鉋です。当時三木の鉋鍛治に材料が入ってこなくなり、鉋鍛治が集まって大同工業と云う会社を作り、大きな職場数ヶ所で仕事をしていました。その時の鉋で、右の鉋は第二工場の刻印がある。  鉋の仕上がりは各自責任がないのかいい出来とはいえません。こんな時代もあったのだ。 

 4 両刃の釿
地金 和鉄
鋼  玉鋼
   
 この釿は刃渡り82mmの和鋼和鉄製で両刃古い時代の物だと思う。表面は赤っぽい鉄錆色だが錆は中へ入っていなくていい鉄の色をしている。まだまだ使えそうな感じだ。  この柄は何の木か知らないが、普通は槐(えんじゅ)を使うらしい。 槐の柄の作り方は、生木の槐の枝を切って来て人の居ない野原で、大鍋に湯を沸かし枝を煮て柔らかくする。これは槐の木を煮ると凄く臭い匂いがするから。柔らかくした物を釿の柄の形に針金で固定し後は自然乾燥させる。形のよい物にするのは難しいらしい。 
 3 又吉の縦引き鋸
鋼  玉鋼
   
 この縦引き鋸は目が大きいので製材用のガガリかもしれない。友人の大原君に何かの時に貰った物。

刃渡り44cmの玉鋼製の古い物よく使われて幅が短くなっている。銘は渡盛又吉。 表面を研磨しているのが惜しいなあ。 

 2 鉋 銘「利行」
地金 錬鉄

鋼  現代鋼
   
 この鉋は職場の引き出しに昔からあった70mmの古い鉋です。誰が作ったのか親から何も聞いていないので何も分かりません。脇に御用刀剣鍛冶師の刻印が打ってあり銘に利行の刻印。

山本鉋の初代喜市の親方は黒川卯太郎、その親は明石藩御用刀剣鍛冶師の黒川太市郎で刀剣銘は「東播住人源利行」。推測するとこの鉋は黒川卯太郎さんの作で親の刀剣銘の利行を鉋に打った物か。それを初代喜市が手に入れた物かもしれない。  この鉋は現代鋼に錬鉄製で甲は火造の鎚で仕上げて綺麗な地肌だ。丁寧な仕事をしているのがよく分かる。

 1 台屋の鑿
地金 錬鉄

鋼  現代鋼
  
 この鑿はもう亡くなられましたが、鉋の取引があった京都の鉋台堀職人谷口伍三郎さんが、仕事を辞める時貰った鑿です。この鑿は谷口さんが大正の終わり頃鉋台堀の親方に弟子入りした時に親方に貰ったものです。長い間大事に使ってきた鑿だと思います。 ある時谷口さんの作業中にこの鑿を見つけ、新品と交換してくれと言ったら「あかんよう切れる鑿や。わしが仕事を辞める時あんたにやるわ」と言ってくれました、そして後日私の所へ来ました。 この鑿の銘は砥ぎ込まれてありません。地鉄は錬鉄製で腕のいい鍛冶屋さんが作った物だと思います。





















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