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播州三木鉋鍛冶三代目
鍛冶銘 鉄心斎芳楽


三木の鉋鍛冶の歴史
歴史に埋もれた鍛冶屋
鍛鍛冶(きたえかじ)






鍛鍛冶とは江戸時代の末期から明治の初めに三木に居た鍛冶屋で、玉鋼を鍛えて刃物の原材料の鋼を作る鍛冶屋の事です。
昭和の初め頃に三木上ノ丸にある稲荷神社の神主で郷土史家でもある広瀬義一という人が、定期的に発行していたガリ版刷りの『郷土断片』に載っていた「鍛え屋さんの話」の記事を紹介します。



鍛鍛冶の作業工程は炭素量のそろった良い玉鋼約6.8kgを刀鍛冶の様に積み沸しをせずに、荒焼きといってそのまま長方形にまとめて打ち伸ばす。その後二番焼き・三番焼き・四番焼き・五番焼きと四回折り返し鍛錬を繰り返し、最後は幅3cm厚み6mm長さ90cm位の大きさに鍛造する。

横座一人先手の鎚打ち四人と鞴吹き一人の六人が1チームで作業をした。

作業する姿は裸で褌一本になり鎚打ち四人は大鎚を円の様に振り回し鍛錬をする。四人のうち二人ずつ二組に分かれ、右足を前に構えて鎚を振るう組と左足を前に構えて鎚を振るう組が向かい合わせになり順次鎚を振るっていく作業です。

 
 これは大鍛冶の四人打ち作業


上の図は江戸時代安芸地方で和鉄を作っていた大鍛冶の鍛造作業の風景ですが、鍛鍛冶の作業もこれと同じでした。鍛造作業は体力の要る仕事で米は一日一升を食べ酒は二升飲む人もいた。午前2時頃から午後3時まで作業して普通4本を作り、1本鍛えるのに木炭が六俵半必要だった。

 

鍛鍛冶という言葉が出てくるのは『三木金物問屋資料』の天保六年の棚卸帳が最初です。「吉平」「生野屋」という二軒の鍛鍛冶です。鍛鍛冶というのは鍛鍛冶の鍛冶株を持った人です。実際作業する横座・先手・ふいご吹きも雇われた職人の様です。鍛鍛冶は作った玉鋼の板を鍛冶屋に売るのではなく、原材料を支給された問屋へ納めていた様です。

鍛鍛冶は専門職だけでなく鉋鍛冶をしながら鍛鍛冶株を買ってこの仕事をする中屋九兵衛の様な人もいました。九兵衛の息子が明石藩御用刀剣鍛治になった黒川太市郎で、鍛鍛冶もしていたと考えられます。玉鋼を折り返し鍛錬する仕事は刀鍛冶の技術習得に役立ったと思われます。
もともとは鉋鍛冶なり鑿鍛冶なりの道具鍛冶がそれぞれこの仕事をし、そしてそれぞれの刃物を作っていましたが、天保年間に入ると問屋の道具の販売量が増えてきたので、生産量を上げる為鋼作りの工程を分業化したものだと思います。

粗製乱造ではなくこの作業に習熟した職人が、いい玉鋼を使って専門に作っていたのでいい鋼が出来たと思います。

弘化四年の鍛鍛冶として作屋利左衛門・井筒屋源七・生野屋友吉・材木屋安兵衛の四軒いました。
安政四年の正金銀取扱諸商人名前調帳に池田屋善右衛門・井筒屋久七・中屋九兵衛が載っています。
この商人帳に載っている人達は地方と直接取引きしていた人達で、この3人は直接大阪の鉄問屋から玉鋼や和鉄を購入していたと思います。

明治の初めには増井佐吉・原・中本・井筒屋・加賀源の五軒の鍛鍛冶がいて、加賀源は北陸の加賀から来た鉄砲鍛冶だそうです。井筒屋が井筒新吉さんで鍛鍛冶をしながら鋸鍛冶もしていて、明治十三年に洋鋼で鋸を作り三木金物に洋鋼使用の魁をなした人です。

この後も鋸鍛冶をはじめまだ玉鋼を使う鍛冶屋はいましたが、鍛鍛冶の時代は江戸末期から明治初期の約半世紀の短い期間で終わりました。

 

参考資料 『郷土断片』 広瀬義一著

『三木金物問屋資料』 長島福太郎編

『芸州家計隅屋鉄山絵巻』

バナースペース

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