鍛冶屋のつれづれ書き            
           三木の鑿

                                                      山本芳博

三木別所氏の城下町時代は大工も多く居て、いろんな道具を作る鍛冶屋も多く居たと思います。
秀吉による別所氏滅亡の後三木の復興時は、避難していた大工や鍛冶屋も帰って来て居たと思い
ます。その後三木が復興すると大工は出稼ぎに出て行っている、しかし鍛冶屋の事は分からない。
明石藩の領地になった時一時三木に明石藩士が住んだが、明石に城下町が出来ると三木を出て
行った。その時かなりの鍛冶屋も出て行った可能性が高く、それ以降一時三木で道具は作られ
なかったと思われます。
 寛保二年の三木の諸式明細帳によると鍛冶屋は十二軒、隣の明石と比べても鍛冶屋の割合が低く
他所へ売るための道具鍛冶屋が居たとは思われないが、この頃以降三木に鍛冶屋が増えてくる。
宝暦・明和の頃道具屋太兵衛と作屋清右衛門が金物問屋を創業し、同じ頃に前挽鋸鍛冶三軒が
創業している。その後鋸鍛冶や庖丁鍛冶が出来て三木の道具産業は発達して行きますがまだ鑿鍛冶は
居ません。三木の鑿に関する事で初めて出て来るのは、金物問屋作屋清右衛門の古文書を本にした
三木金物問屋資料です。

 三木金物問屋資料には作屋に関する古文書の他に諸鍛冶連名や棚卸帳がありそこに棚卸量や
鍛冶屋名が載っている。その棚卸帳に鑿は鉋・釿・が一緒に書いてある事が多い。「寛政五年
(1793年)の棚卸勘定帳」には「鑿るいいろいろ〆三百七十二匁四分」と載っています。この頃
三木にはすでに道具鍛冶はいましたが、まだ鑿鍛冶は居なくてこの鑿は三木で作られた鑿ではなく
大坂から仕入れた鑿だと思います。
 
 文化七年(1810年)の棚卸帳には「のミ」に関する在庫量は載っています。しかし
地出来鉋はあるが地出来鑿の言葉はないのでこの年には三木にまだ鑿鍛冶は居なかったのだろう。
文化十二年(1815年)の諸鍛冶連名の後の方には棚卸量が載っていて鈩(やすり)鍛冶の
棚卸の後には剃刀鍛冶と鑿鍛冶と鉋鍛冶らしき名前がある。鉋鍛冶は中庄(中屋庄兵衛)と藤佐
(藤屋佐兵衛)の二軒あり、後三軒のかもや宇右衛門と笹与と石佐の中で笹与は鑿鍛冶だろうと
思いますが、他にもいるかもしれません。この頃に三木で鑿が作られ始めたと思います。

 「文化十五年諸鍛冶軒数一覧」という古文書にはそれぞれ道具鍛冶の軒数が載っていますが
鑿鍛冶はありません。これは鑿鍛冶株を持っている人の事ですから、まだ鑿鍛冶株を持って
居る人は居なかったのだろう。しかし濃()鍛冶五軒・金物の道具鍛冶が四軒あるので、
この鍛冶屋が鑿を作っていたかもしれない。
 
 文政十一年(1828年)の「曲尺地目切鑿鉋鍛冶扣」に初めて鑿鍛冶の名前が出てきます。
「来住や伊兵衛 中屋国松 紅粉や善吉 一文字や五郎兵衛 綿屋国松 かりこ町兵蔵」
の六軒の鑿鍛冶の名前が出てくる。来住や伊兵衛は文政十二年より休み。一文字や五郎兵衛
は文政十一年に死去と載っています。中屋国松は大坂から来ていて、子供は鉋鍛冶中屋九兵衛に
なっていると思います。文化十二年から十三年後に笹与が出てこないのがおかしい。

 天保六年棚卸帳扣」(1835年)の曲尺・曲尺地鍛冶の後に鑿鍛冶と鉋鍛冶の名前だろう
と思っている所に次の鍛冶屋の名前がある。「笹宇 笹宗 笹与 高弥 藤冶 村安 這吉 
桶小 中九 綿国 大つか 北条のミ」とあり笹宇・笹宗・笹与の内笹与は文化十二年の
諸鍛冶連名に出てくるので鑿鍛冶だろう、残りの二軒も親戚一統の鑿鍛冶か笹与の弟子だろう。
 次の藤冶・村安・這吉・桶小・中九は鉋鍛冶で残りは鑿鍛冶だと思う。綿国の綿屋国松は
文政十一年の鑿鍛冶名簿に載っているので間違いない。大つかとあるのは大塚町で天保年間開業
といわれる磯野松兵衛か宮脇喜八のどちらかだろう。北条のミとは北条にも鑿鍛冶が居たらしい。

 嘉永七年の棚卸帳扣」(1854年)には各道具の在庫量が書いてあり、次に東国卸帳と
西国卸帳がある。その時の売掛金の金額だろうか。その後に「是よりかぢ通貨壱番買帳」「弐番
買帳」がありその後の「道具買帳」に鑿鍛冶と鉋鍛冶の名前がある。
 「笹屋与兵衛 綿屋四郎兵衛 横谷屋市左衛門 藤屋冶兵衛 角屋小兵衛 材木屋安兵衛 
高木村政右衛門 東這田村杢兵衛 中屋九兵衛 同嘉兵衛 同熊吉 かじや吉蔵」まだ名前が
続きます。笹屋与兵衛・綿屋四郎兵衛・横谷屋市左衛門は鑿鍛冶だと思います。次の藤屋治兵衛
から中屋九兵衛までは鉋鍛冶にまちがいないと思います。 
 
 この頃には金物問屋も増えてきて鑿の販売量も増え、鑿鍛冶も十軒くらい居たのではないかと
思います。かじや吉蔵の後にも名前が続きます、その中に鑿鍛冶が居ると思いますが分かりません。

 三木市大塚町の鑿鍛冶は宮脇喜八と礒野松兵衛から出ています。宮脇喜八は文政年間の生まれ
出稼ぎの宮大工だったが、つらい出稼ぎから居職の鑿鍛冶に転業したと云われている。同じく
礒野松兵衛も文政年間の生まれで天保年間鑿鍛冶を開業したといわれる。明治になるとこの二人
から弟子が大勢出来て大塚町は三木で鑿鍛冶が一番多い町になる。
 これは大塚町は湯の山街道沿いの半農半工や半農半商の家が多く、農業をしながら鑿鍛冶を
している人に近くの子供が弟子になる形が多かったためです。大塚町の鑿鍛冶で伝統工芸士の
宮脇正孝さんは宮脇喜八から五代続く鑿鍛冶で、大塚町には鑿鍛冶の古い伝統があります。
明治十九年には鑿鍛冶は十八軒でその約半数が大塚町に居た。(大塚)

 

 「明治三十六年鍛冶名簿」
黒田清右衛門商店に残っていた明治三十六年の鑿鍛冶名簿です
 鑿  四十五軒 
 高芝又市 五百蔵古太郎 高橋浅吉 大内光太郎 藤原増蔵 梶本藤太郎 中本祐太郎 小山友太郎 井筒合名
 中谷福三郎 宮脇浅七 近井菊蔵 岩谷亀三郎 西森亀三郎 和田七平 北村定吉 北村秋三郎 鳴尾弥一郎
 東中吉太郎 山田猪蔵 宮脇 太郎 宮脇市太郎 宮脇   田中安太郎 磯野平吉 三宅 蔵 宮脇  郎
 三宅徳三郎 宮脇鉄蔵 宮脇石松 礒野又吉 西田太吉 礒野松次郎 向山勝三郎 佐藤儀一郎 岩崎種市井上
 山本広市 岩崎重三郎 八木光蔵 沢井徳三郎 谷口 三郎 高崎宗三郎 守沢彦三郎 正井亀三郎 高田彦三郎

 

「明治四十三年二月改正のみ原價録 黒田清右衛門」とは黒田清右衛門商店に残っている
 鑿の原簿録です。播州三木打刃物が通産省の伝統的工芸品の指定を、受ける時の申請資料にありま
 した。当時黒田商店と取引をしていた鑿鍛冶の名前と作っていた鑿の種類が分かります。
  西田多吉   東京形 厚 中薄 追又    第二西田 磨七寸丈 磨八寸丈
  岩崎権蔵   東京形 厚 追入 中薄
  礒野松次郎  東京形 厚 中薄 磨七寸丈
  岡本康太郎  東京形 厚 中薄 追入
  岩崎種市   裏丸
  藤原増蔵   平スキ 裏のみ 筋違 丸スキ 奴鉋  第二藤増 坪ノミ 内鋼
  磯野平吉   丸スキ 坪ノミ
  高橋浅吉   丸スキ 坪ノミ
  山田猪蔵   東京形 厚 同薄 突 追入 裏丸  第二山田 鏝ノミ 作里 筋違 坪ノミ
                          第三山田 火布倉 小脇 中脇 大脇(脇鉋)
  西森亀太郎  東京形 厚 同中薄 奴ノミ 追入  第二西森 作里 筋違 鏝ノミ 内鋼
                           第三西森 向待 同薄 厚 
 この頃の鑿鍛冶は奴鉋・作里・脇鉋や筋違といわれていたキワ鉋などの小鉋鍛冶が作る鉋も
作っていた様です。 明治の終わり頃から三木の金物問屋が西日本を中心に、広く出張販売に行く様になり
販売力が強く なって行った。黒田清右衛門商店も三木一の老舗金物問屋として発展しています。それに
連れて三木の 鑿の生産量も増えて鑿鍛冶も増えて行き、大阪など他所からも三木へ鑿鍛冶が来ています。
高橋浅吉は 大坂から来た鑿鍛冶です。 
大正十三年に大鑿組合と小鑿組合に分かれている。小鑿組合は七十六軒その内三十五軒が大塚町の
人が占めている。(大塚)


「鑿職人の記録」

 三木・鑿組合のみ歴史特別委員会が高齢の鑿鍛冶に古い事を聞いてそれを録音しています。それを
 関西国際大学の人が活字にして厚い本になっていて、平成二十一年三月三十一日に発行されています。
 三木の職人の言葉が大学の人に聞き取れず活字になっていない所が多くあるのでかなり読み難い。
 しかし鑿鍛冶の昔の事がよく分かります。 
○」仕事で使うヤスリが切れなくなったら目を落としタガネで目を切って焼き入れして使っていた。
  上手な人の切ったヤスリはよく切れる。親父は鞴祭りの時は岩壺神社へ詣り、金物神社(上の丸
 稲荷神社)へ詣りその後三本松稲荷へ行った後帰って来た。
 普通の晴れの料理は家で飼っている鶏の鍋だった。
○ 鑿の裏は火造りで作り後はベトを取る感じで裏を作った。うちの親父が言いよった横座の上手な所
 へ覚えに行ったら、どないしても弟子も横座はじょうずになるもんや。
 戦争前電気の無い頃ペーパーを張った丸い筒を足で踏んで回し裏を磨る器具があった。
 足踏み研磨と呼んでいた。  
○弟子に入るとまずヤスリの目を立てる事を覚える、3・4年かかったな。大鑿組合と小鑿組合で作って
 いる鑿は大鑿いうのはたたきもん(叩鑿)・さしもん(差鑿)。小鑿はおいり(追入鑿)系統が主やったと
 考えてよろしい。戦前は多くの鑿鍛冶は裏押しも自分でしていた
○大正9年頃には大鑿と小鑿の組合は分かれていて大鑿は38軒小鑿は42軒あった。
  他の資料では昭和元年大鑿は百三軒、小鑿は百二軒となっています。
○鑿鍛冶は昭和に入っても古い鍛冶屋の形を残しているようです。削り作業に使うヤスリは毎日の
 様に目立てをし焼入れをしていた。刃研ぎもその頃は完全に刃を付けない状態で出荷していたので
 自分で刃研ぎをする鑿鍛冶も多かった様です。小鑿鍛冶は奥さんが先手の鎚打ちをしている所が多かった。
 鉋鍛冶ではヤスリの事も刃研ぎの事も奥さんが先手をする事も、大正・昭和の頃から無かったようです。
○昭和22年に大鑿組合と小鑿組合が合併し新鑿組合が95軒で発足している。接合材はホウ酸とホウ砂
 とヤスリで鍛冶屋が各自で作っていた。薬局へホウ酸を買いに行くと一袋しか売ってくれない所もあった。  
○昔は問屋へ納品すると検品といって番頭さんが製品を1本1本を検査していた。鑿の幅や仕上げの状態
 を検査して悪い製品は値下げの口実にした様だ。
○与呂木には多い頃には30軒くらいの鑿鍛冶がいた。戦後鍛冶屋にベルトハンマーが入るまでは、
 小鑿鍛冶は奥さんが向こう鎚を打っている所が多かった。
○仕事にヤスリを使う事が多く毎日の様に目立てし焼入れをしていた。 
○鍛冶屋とは厳しい仕事で「こんな寒いな、鼻水たらして研磨の前でな、手が青紫なるようなやめや言うて。
 そやからこんな寒い仕事なんかできへん」と言って鑿鍛冶職人をやめた人もいました。
○鋼は行商に来る人がいて「きしゃばね」という鋼を使っている鍛冶屋が多かった。列車のスプリングの
 廃物利用だろうか。材質は白鋼の様な炭素鋼だった、しかしよく切れたそうです。ヤスキ鋼は大正の頃
 からあったが、多くの鑿鍛冶が使い始めたのは戦後二十五・六年からの様です。
     大正五・六年頃明石出身のやまぐちという人が鑿の地鉄用に鉄道の枕木の釘のを売っていた。他にも
 鍛冶屋の材料を売っていて関東大震災の後大儲けをしたそうです。ある頃三木での所得は藤本病院と
 やまぐちさんがいちばん多かった。戦時中の物資統制令の後廃業しています。
○鑿の柄屋さんには足で踏んで回すろくろがあった。
○水に入れる防錆材として藁灰やいしばいを使っていた。いしばいは私が仕事に入った昭和四十一年でも
 使っていました。
○関東大震災の後どんな道具でも売れる時で見様見真似で作る人も出て来た。その影響だろうかこの頃から
 鑿鍛冶の徒弟制度が崩れていったようです。
○明治の頃黒田清右衛門商店の原価簿に載っている東京形鑿とは「棒が短こうて、ジクが長いおおなりでも
 きなりみたいにうすいねん。」柄が短くて軸が長く全体が薄い形の鑿です。

 大正の中頃鑿鍛冶がよく使っていた、木車にペーパーを貼って回す足踏みペーパーは末広町の)阿部さんが
考案した。鑿鍛冶は阿部さんに製作・取り付けをして貰っていた。鑿の裏を研磨するのに使っていた。
木製で輪になった枷車(かせくるま)にペーパーを貼り手回しで研磨している鑿鍛冶もいた。(発明三木)


参考資料「三木金物問屋資料」「大塚」[黒田商店原簿録」「鑿職人の記録」「発明三木」

 

 

 

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