上の丸稲荷神社
祭神
保食神(うけもちのかみ) 五穀や養蚕の起源神であるが豆腐の神・寿司の神ともいわれる。
稲荷神社に稲蒼魂神と共に祀られる事が多い。
蒼魂神(うかのみたまのみこと) 稲荷神社の主祭神で食物の神。
稚産霊神(わくむすびのかみ) 穀物の生育を司る神で稲産霊神と祀られる事が多い。
祭日
二月初午 7月十八日夏大祭
十月十八日・十二月八日の例祭
由緒
戦国時代三木釜山城城主別所長治が京都の伏見より勧請して城域に創建したと伝えられる。天正八年別所氏
滅亡の時烏有に帰したが、後に豊臣秀吉によって再建された。昔の社名は府内中将稲荷大明神といい地元滑原町が
管理していた。江戸時代中頃から起った三木金物産業の鍛冶屋の崇敬を集めていった。これは京都伏見稲荷神社
には御剣大神という鍛冶屋の神様が祀れていて、そのため鍛冶屋の崇敬を受ける様になったのだろう。
明治三十五年に荒廃していた社殿を滑原町の発起により、近在各地の寄付を募り社殿と玉垣の再建が行われた。
例大祭
宝蔵文書の稲荷祭礼太鼓相論済状には、「文化十四年(1817年)九月十八日の祭礼に付滑原町より
荷ひ太鼓奉納仕」とあるので、現在三木の祭りに出ている太鼓屋台の原型らしきものを滑原町が所有し、
例大祭には荷ひ太鼓が奉納されていた事が分かります。
同じ年に初午には高室子供芝居と狂言を奉納し、そして文政四年(1821年)の初午には人形芝居を奉納している。
嘉永時代から安政六年(1859年)まで毎年初午祭が祭行されている。
明治二十五年担当崇敬者滑原町が御輿を調製して例大祭には渡御式を行った。御旅所は別所村高木庄の八幡宮御旅所の
隣に霊地を以って是に充てた。
「礼祭式ハ十月十八日午後二時ヨリ子供相撲ヲ行ヒ、午後五時本殿ニテ祭式ヲ挙ゲ直チニ御輿出御ノ準備ヲナス。
御輿ハ滑原町内十二・三歳ノ少年数十名コレニアタリ、午後六時行列正シク出発ス。御旅所高木ニオイテハ更ニ
祭式ヲ行ヒ供奉者一同神酒ヲ戴キ小憩シテ直チニ帰路ニ就ク、帰路ハ少シ道筋ヲ異ニシ府内全部ヲ巡行ス。
大塚町戎神社ニ着セルトキハ同町ヨリ神饌ヲ供ス。愈本社ニ還御ハ午後十一時頃ナリ。」美嚢郡誌より
石段参道下の鳥居
この鳥居は滑原商店街から上の丸稲荷神社へ上がる入り口にあり、明治十三年に洋鋼で鋸を作り
三木金物で洋鋼使用の魁をなした、井筒新吉により明治二十七年に建てられています。
手前の右の常夜灯は元治二年に左の常夜灯は天保十一年に久留美村により建てられています。
玉垣は大正十四年に三木町内の鍛冶屋により建てられています。
石段参道
この石段参道は大正十四年に改修されその時玉垣も作られた様です。
作られてから八十年経ち参道の上半分が崩落したため、上の鳥居と社務所と共に
平成十七年に新築されています。
石段参道上の常夜灯と手水鉢
石段参道上の常夜灯は文政五年に建てられて、手水鉢は天保十一年に奉納されています。後ろは社務所です。
この石段参道のすぐ横に別所氏釜山城時代からの坂道があり、そこが昔の参道だと思われていた。しかしこの石段参道の上に
文政五年の常夜灯と天保十一年の手水鉢がある事は昔からこの石段は在ったのだろう。
周りの祠や石碑
本殿の右や裏の林には鍛冶屋の崇敬者が奉納した祠や、三木町内の稲荷神社が分詞した祠が数十体あり
それぞれ関係のある人がお詣りに来ています。
本殿裏にある裏稲荷といわれる府内中将稲荷大明神様です。
美嚢郡誌には「本社ノ直後ニ腐香朽シテ洞窟ヲ生ゼル老木アリ、
洞前ニ小詞ヲ建テテ之ヲ祀ル、御神體ハ洞中ニ納メ奉ルト、人之レヲ朝日明神ト稱ヘテ崇敬ス」とあるので、
昭和になってから祭神が変わったのか。
この石碑は祖父喜市の親方黒川卯太郎が奉納しています。神様の名ははっきりとは読めません。昭和41年私が仕事に入った時、
親と一緒に鞴祭りに来た時ここへお参りに来た事を覚えています。
この石碑は京都伏見稲荷神社の御剣大神様が祀られています。叔父の田中正一郎さんが友人知人に協力を呼び掛けて奉納しています。
令和元年に本殿の瓦の葺き替えが行われました。屋根の端に据えられていた瓦は獅子口瓦です。瓦には文化三年に大塚町瓦屋長右衛門
と書かれています。
鞴祭り
鞴祭りの早暁詣り
別所町東這田 澤田茂
十二月八日は鞴祭りとして全国的に鍛冶屋の祭りである。吾が三木市でも昔から大変盛んで三木市の町は勿論、近在の者にとっても
懐かしい思い出が多い。十二月七日・八日の両日にわたって、職人や弟子達が親方の家へ招かれて御馳走になったものである。当日は
みかんや赤飯を鞴にまつりそれを近所へ配って、お供えしたみかんを食べると風邪をひかないなどと言われて、鞴祭りとみかんは
切っても切れない関係だった。
八日の早暁四時に親方の家に集まり身を清めて、親方の名前入りの提灯を先頭に職人・兄弟子・弟弟子が一団となり稲荷神社へ
お参りに向かうのである。親方はインパネス「俗名トンビ」を羽織り職人や弟子たちはマントに防寒帽に身を固め着物に下駄履き
姿である。鞴祭りは風が吹いて寒い方が良いと言われ、鞴の風が景気を呼ぶといって喜んだ。
お参りの途中出会う提灯に続く人数の多寡などを見てあれはどこそこの親方衆やと噂をしながらお詣りしたものであった。
御詣りの順路は地元のお稲荷様は後廻しで、先ず、高木とんど大亀稲荷さん、次は下町の丸一稲荷社であった。各稲荷社では
この日のため薪を用意して、大きなどんど火を焚いて下さっているので、焚き火で暖をとって次の稲荷神社へ向かったものである。
この暁は稲荷神社の峰々、この大焚火と御神灯の大提灯の明かりで、あかあかと燃えたものだった。
上の丸稲荷神社に着く頃には丁度参拝者のピーク刻で長い石段は人で一杯で、押し合う様にして石段を登り社頭に佇めば、お供物の
赤飯と揚げの三角の山で凄まじいお賽銭の雨に打たれながら、親方や職人達は鍛冶の景気を祈り、弟子たちは早く一人前の職人に
なれますようにと神様にお願いするのである。
上の丸神社には他に百体くらいのけん族さんの稲荷さんが祀られているので、ぐるっと一回りしてお参りを終わり、いよいよ岐路
になる雲龍寺伝いに月輪寺に出て、境内に祀られている知恵の文殊さんにお詣りして、次に羽場の一本杉稲荷神社に立ち寄り、
三本松稲荷社にお詣りする頃には白々と明け始めて来て、一面真っ白な霜に覆われて、まことに清浄な夜明けである。
しかしその頃には夜明けの寒気と空腹と、そして歩き疲れも加わって弟子達はぼつぼつ顎を出し始める頃、在所の村の稲荷神社
をまわり、最後は氏神社で早暁詣りの打ち止めとなるわけである。
尚、上の丸に金物神社が建立されて祭神には天目一箇尊、金山毘古命、伊斯許理度売命の三神が祀られて鞴祭りの火入れ式の神事が
行われることになり、又、三木小唄や三木音頭の歌が出来たのはそれから大分後のことで、昭和七.八年頃と記憶している。
兄弟子の長き羽織や鞴祭
軒毎に槌音しずめ吹子
インパネス(トンビ)
明治20年頃イギリスから日本に伝わり大正から昭和にかけて流行した二重になったマント。インバネスコートとかトンビ
と呼ばれた。金持ちのお大尽が着る事が出来るといわれていた。三木でも鍛冶屋の親方が着る事が出来たのだろう。
田中正一郎「終始一貫」の中のふいごまつりより
鍛冶屋を営むものにとって、ふいごまつりは大事なお祭りでした。毎年十二月八日です。前の日に大がかりな煤払いをして、一年間の
埃を取り除きます。夕方には神棚にお酒とみかんと、尾頭つきにめばるをお供えします。
当日は早朝三時ごろから奥様が赤飯を蒸されます。それを重箱に詰め、三角切りの油揚げとみかんをお供えとして、暗い内に上の丸に
ある稲荷神社へお参りするのです。現在では上の丸稲荷神社のすぐそばに金物神社がありますが、これは昭和十年にできたもので、
当時は稲荷さんだけでした。
私は師匠のうしろから、かしこまってついて行きました。当時の職人は、普段は着物を着ていましたので、親方はその上からトンビを
はおって弟子を連れてぞろぞろと神社へやってきます。その下駄の音がカラコロとまだ夜の明けない暗い町にひびいておりました。
ふいごまつりの日に風が吹いたり、冷えがきついと、それから一年景気がよく、暖かいと不景気が続くと昔からいわれていましたので、
風が吹き身を切るような寒い朝だと親方連中は嬉しそうでした。
現在のようにオーバーもいらない暖冬のふいごまつりでは不景気ということになるのですが・・。子供乍らこの頃から、お参りして
拝む事は「どうぞ日本一の鉋鍛冶にして下さい」ということだけでした。私はこの気持ちがいっぱいあったので、辛抱してこれたのだと
思っています。これも私を可愛がってくれ、立派な職人になってほしいと願ってくれる祖母を早く喜ばしてあげたい一心でした。
上の丸から帰ると赤飯とみかんの包みをさげて、今度は金物屋さんへ配って歩きます。大体午前中に片付いて午後からは好きなことを
して遊んで良いといわれます。しかし、遊ぶ事も知らないし、子守をしたり、近所のうどん屋や駄菓子を売っている蓬莱さんという店に
鍛冶屋の若い衆が寄っているので、そこで花札や賭けごとをしているのを眺めていました。そこの店には年頃の娘さんがいたので、
店にはいつでも客でいっぱいでした
私の鞴祭りの思い出
私が仕事に入った昭和四十一年頃の鞴祭りは、前日に職場の大掃除をします。埃を被ったらいけない機械などに古布を被せる。
裏の藪から竹を切って来て上の方だけササを残し他は切り払う、長い竹のササで職場の天井から周りの壁の埃を落とします。
職場の中は埃で霧がかかった様になり、時間がたって落ちた埃を掃き取る。顔まで埃で黒くなります。
八日の朝早くから母が赤飯を炊き、三角に切った油揚げとみかんを前日までに買って用意する。
朝6時頃父と一緒に赤飯と油揚げとみかんを持って上の丸の稲荷神社へ行く。もう大勢の鍛冶屋さんがお詣りに来ていてにぎやかです。
本殿でお参りした後、横や後ろの周りに幾つもある小さい祠へお詣りに行きます。各鍛冶屋に関係のある祠へ行きますが
私の家は三本松稲荷に祖父の親方の黒川家が祀った黒川大明{福}神など三・四ケ所周ります。
その後氏神である岩壺神社と大塚町の戎神社へお参りしてから帰ります。
八時頃になると職人さんが来て母の料理で父とお酒を飲み始めました。私は主な得意先の金物問屋さんへ重箱に入った赤飯と油揚げとみかんを
持って回ります。問屋さんの所には鍛冶屋さんが来るのは分かっているので赤飯など置く所は準備してありました。家へ帰ってしばらくすると
職人さん達は土産を持って帰って行きました。
山陰地方のふいごまつり 「山陰の爐」より
十二月八日はふいご祭りの日でもある。天明四年(1784)に下原重仲が著した「鉄山秘書」の中の巷説を要約すると、
昔ある所の鍛冶屋が、追われて逃げ込んだ者をふいごの中に隠して、必死にかくまい、追っ手が去ったあと、蓋をとってみたら
その者の姿はなく、その後富み栄えるようになったのでその日、十一月八日には、ふいごにはいろいろお供物をしてまつったのが
初めであるという。
旧暦の十一月八日は、新暦では十二月になり、特に閏年には年末の忙しい時期と重なり、あるいは翌年になることもあるので、
多くは新暦の十二月にするが、時には新の十一月の八日にする向きもある。この日ふいごの中を掃除し、ふいごの上か前にいろんな
お供物をし、一日休んで、内輪で親戚、近所の人たち、炭屋・大工などを招いて祝宴を張る。
供物としては、そのときどきの都合で異なる場合もあるが、洗米・餅または赤飯・まぜ飯・白飯・魚・畑の物・海藻類・山の物
など、あるいはこの中の二・三の物である。
天目一箇神が鍛冶の神としてさだめられているという説があるが、鉄山業の神=金屋子神はすべての鍛冶屋にまつられていて、
ふいご祭りの際には、灯明・榊(松)・神酒・洗米・塩などを供える。
金屋子神が犬に追われてみかんの木に登って難を逃れたという伝承から、この祭りの供物としてみかんを欠かせられないという
向きが多い。紀文のみかん船の説話も江戸の鍛冶屋のふいご祭りとの関連においてとらえるべきではなかろうか。
江戸の鞴祭り
江戸の町には「町内に伊勢屋、稲荷に犬の糞」と川柳に歌われるほど稲荷神社の数が多かった。そのためだろう稲荷神社の祭りである、
十一月八日の鞴祭りは晩秋の大行事だった。鍛冶屋や鋳物師だけでなく、彫り物師、風呂屋など火を使う商売の家では稲荷神に詣でてお札を受け、
仕事場に貼り、鞴を清めて注連縄を張り、お神酒や餅を供えました。
八日の夕方に子供たちが鍛冶屋の前に集まり「鍛冶屋のびんぼう」と囃し立てる。言われた鍛冶屋は戸口を開いて数百の蜜柑を子供たち
に投げ与えた。この時鍛冶屋が「気前よく投げればご利益があると信じられていて、
そしてこの蜜柑を食べると子供たちは風邪やはしかにかからないと信じられていた。