鍛冶屋のつれづれ書き

岩 壺 神 社

 

                                        鎮座地  三木市岩宮町391

祭神

大日霊貴神 誉田別神 上筒男神 手力雄神 國狹槌神 天兒屋根神の六柱大神(むはしらおおかみ)が祀られています

中座 上筒男神はウワツツオノミコトと呼ばれ住吉三神の一神で海の神・航海の神といわれる。

手力雄神はタジカラオノミコトと呼ばれ天岩屋戸に隠れた天照大神が外の様子を見ようと岩戸を少し開けた時、その岩戸を引き開けた神。

左座 大日霊貴神はオオヒルメノムチノカミと呼ばれ天照大神の別名です。

誉田別神はホンダワケノミコトと呼ばれ応神天皇の別名です。

右座 國狭槌神はクニサツチノミコトと呼ばれ天地開闢の頃の神で草茂る丘や低い山を守る神。

天児屋根神はアマノコヤネノミコトと呼ばれ岩戸隠れの時、前で祝詞を読み上げたり、天孫降臨では中心的な役割を果たした神。

由緒

天武天皇の時代白鳳二年(674年)に創建されたという古いいい伝えのある神社です。そして平安時代の延長七年(929年)に社殿が
 再建されたといわれています。
岩壺のいわれは裏を流れる志染川に靱(うつぼ)に似た大岩があり、それで岩靱神社といわれた。また裏の川に
 大淵がありその淵が壺と呼ばれたので
岩壺神社といわれる様になった。
  岩壺神社は氏子の長屋村に向きながら本殿の奥には、播磨風土記に神が天下った三坂の峰といわれる丹生連山の西の端の
シビレ山があり
 参拝者はシビレ山を拝む様な形に建っています。シビレというのは志牟礼(しむれ)という言葉から来ています。
牟礼というのは神の天下った
 岩座の事で志染から見える神の山という意味で志牟礼になり、長い歳月によりシビレになりシビレ山名なったといわれます。「牟礼考」下田勉。

岩壺神社はこの神の山であるシビレレ山を祀る形に建っています。これは一番古い神社の形でそれだけ古い神社だと思われます。

 

写真集明治大正昭和三木 大正の頃の拝殿       筒井氏資料の「大塚」より昭和八年の正遷宮

 

享保年間に社殿を焼失し今の本殿が再建された。明治六年十月に社務所を全焼したため古文書類が無くなり、古いことはあまり分かっていません。

岩壺神社は元々長屋村の産土神社だったが江戸時代に大塚町・芝町・平山町・東条町・滑原町の五ケ町が加わった産土神社なったらしい。

その時期は今南参道入り口にある鳥居が天和二年(1682年)七月に表参道入り口に作られ、貞亨元年(1684年)三月に芝町が手水鉢を

寄進しているのでこの頃だろう。大正十五年に発行された美嚢郡志には240数年前に五ケ町が加わったと載っているのでちょうど時期が合います。

明治四十年には正遷宮があり芝町青年が手水鉢を寄進していますが、美嚢郡誌にはその事は載っていません。

その後大塚町が発行した「大塚」の文中、筒井氏資料の岩壺神社の項目によれば、昭和八年に大改修され拝殿が今の形に建て替えられていて

その時正遷宮が行われている。正遷宮は五月六日午前零時から御神霊遷宮祭典が行われ、夜が明けると午前八時から神官八名稚児六十八人の

行列が行われた。町内では祝賀の屋台が担がれ大いに賑わい午後二時半から長屋小学校で祝宴が行われた。

二日目の七日には午前九時から神前祭式続いて午後四時まで宮相撲、その後町内を練り回った六台の屋台が宮入をして境内は空前の人出だった。

三日目の八日も午後二時から神前祭そして餅まき、その後余興は漫才と喜劇で境内は大いに湧いた。三日に渡る盛大な正遷宮祭だったという。

 

  三木釜山城鬼門鎮守社

鬼門鎮守という言葉があります。城を建てた時鬼門である北東から邪気が入るのを防ぎ城を守る為の鬼門鎮守社の神社やお寺の事です。

江戸城の神田明神・金沢城には宇多須神社・松本城には岡宮神社と城の鬼門の方角には鬼門鎮守として神社やお寺が祀られています。

秀吉の建てた大坂城は三社の鬼門鎮守社があったそうです。

別所則冶が三木上の丸に釜山城を建築したのは明応元年(1492年)頃だといわれています。この城が完成した時北東の鬼門に当たる平井山に

観世音菩薩を祀る陣中守護のお寺を建てたといわれる。このお寺は秀吉の三木城攻めの時焼かれたが江戸時代に再建され、これが

現在の長福寺毘沙門堂だといわれる(福本錦嶺)。同じ鬼門の位置には岩壺神社があります。郷土史家の下田さんは別所則治が岩壺神社を鬼門の

守護神にしたと書いています。鬼門鎮守・武運長久・災難消除のため別所則冶は岩壺神社を奉り保護したと思われます。

 

奉社傳記

播磨國美嚢郡小林新田

八幡宮神主 小谷近江

 
  同国同長屋村奉鎮座岩壺大明神祭神

應神天皇 他五神 人皇四十代天武天皇

 御宇白鳳六年丁丑春二月十八日社ヲ造立シ奉勧請社之後

 川中大石有其邊深淵往古此石ヨリ光耀発則御神体

 也故岩壺大明神ト奉称号然ニ人皇四十四代元正天皇御宇養老六年

 壬戌夏旱魃ニ依而雨ヲ祈御神験有冬十二月十八日小社ヲ造立而素戔鳴命奉鎮座

 人皇六十代醍醐天皇御宇延長七年田畑成就而人家増

 益奉再建御産神ト称ス人皇百五代後柏原帝御宇

 永正十四年丁丑秋霖大水出岩壺之淵ニ大鯰浮是ヨリ世俗鰻ヲ明神使給ト云

 故有願者淵ニ鯰オ放ツ其後追々郷町共繁昌ニ至而奉再

 立其ヨリ又三木上五ケ町奉崇敬御産神ト尊称シ祭祀仕来ト云々

               兼帯神主 子谷

 

播磨国美嚢郡長屋村に鎮座奉る岩壺大明神の祭神は

 応神天皇 他五神 人皇四十代天武天皇の

 御世白鳳六年丑年春二月十八日社を造立し勧請奉る 社の後

 川の中に大石有り其辺りは深い淵なり 遥か昔此の石より光を発するすなわち御神体

 なり故に岩壺大明神と称号奉る 然に人皇四十四代元正天皇の御代養老六年

 戌年夏旱魃になりて雨を祈ると御神験有り 冬十二月小社を造立し素戔鳴命を鎮座奉る

 人天皇六十代醍醐天皇の御代延長七年長屋村の田畑出来上がり人や家が増え

 豊になり社を再建奉るそして御産神と称す 人天皇百五代柏原帝の御代

 永正十四年丑年秋の長雨の後大水が出て岩壺の淵に大鯰が浮く是により世の人鰻を明神の使いと崇める

 有る願いを持つ者淵に鯰を放つ其の後追々村町共に繁昌に至り()再立(再建)奉る

 其れより三木上五ケ町崇敬奉り御産神と尊称し祭祀を続けている

             兼帯神主 子谷

横山隆司さんが「奉社傳記」という古い文書のコピーを持って来てくれました。

 別所町小林の八幡神社の神主子谷近江が明治二年に三木の神社の由来を書いた文書です。

その中に岩壺神社の文章がありました。

長屋村の産土神社である岩壺神社の氏子に三木の上五ケ町がなったのは永正十四年(1517年)だと

書いてあります。美嚢郡誌の記事は天和か貞享の時代ですから160年以上古い時代になります。

どちらが正しいのか分かりませんが。

この文書に御産神という言葉が出てきます。産土神(うぶすなのかみ)をより敬った言葉の事だろうか。
   私が読みやすい文章にしましたが合っているかどうか。

秋祭り

 

          本宮祭での屋台六台練り                       裏安の舞

今は十月の第三土曜日と日曜日に秋祭りが行われますが、以前は十月十六日・十七日に行われていました。これは明治四十三年からこの日になった
 様ですが
十月十七日は神嘗祭の日です。神嘗祭とは天皇陛下がその年に取れた新米を伊勢神宮に奉納する祭りで、岩壺神社では五穀豊穣を祈願する行事
 として屋台を出し
境内を舁き練り回ります。当日には氏子である岩宮町・大塚町・芝町・大手町・東条町・滑原町の屋台が、大勢の氏子に担がれ順々に
 宮入して
勇壮な屋台の練りを繰りひろげます。この行事ははるか以前江戸時代から奉納されていました。

三木市有寳蔵文書の中に岩壺神社の屋台に関する文書があります。文政十三年(1820年)には岩壺神社の祭礼に長屋村・滑原町・東条町の三台の

荷ひ太鼓が出ていました。基本的には横棒のある今の祭りに出る屋台とそんなに変らないと思いますがもっと小さかったと思われます。

しかしこの時期以降大正時代まで屋台の奉納状況はあまり分かっていません。

以前は岩壺神社の祭りには御神輿が出てお旅所である上の丸の稲荷神社へ行っていたが、世話する人が少なくなったのか御神輿は出なくなってしまった。

今屋台が連なり宮入する前に各町を巡行しますが、その時屋台の先頭には天狗の面を被った猿田彦が先導します。

これは天照大神の命により邇邇芸命(ににぎのみこと)が葦原中国へ天孫降臨をしている事を現していると思われます。

その外に宮年番町の小学5・6年生の女の子による浦安の舞と各町の男子小学生の相撲大会が行われます。

 

 鳥居

 

             表参道入り口の鳥居                  南参道入り口の鳥居  

 

正面の鳥居は昭和十四年十月に東洋電波株式会社と三木精工株式会社と北村昌一さんと八木元冶郎さんらのが寄付により作られた。

南参道入り口の鳥居は天和二年(1682年)七月に作られている。これは元々正面の参道入り口にあったものだろう。

 

狛犬

 

 

拝殿正面にある狛犬は文政十年正月に作られています。発願願主の名がはっきりとは読めませんが、作屋清右衛門ではないか。

世話人も当邑弥 次しか分かりません。

願主は十一人です。

山田屋弥兵衛    滑原町          小浜屋庄兵衛     平山町

福田屋八郎兵衛   平山町          岩谷伝兵衛     ?長屋村

山田屋弥次衛門   滑原町          岡本三良左衛門    長屋村

福田屋太兵衛    平山町          小浜屋吉左衛門    平山町 

北屋藤右衛門    芝町           油屋吉右衛門    ?大塚町

油屋作兵衛     東条町

 発願願主作屋清右衛門と願主山田屋弥兵衛と福田屋八郎兵衛は、文政七年から三木領主館林藩によって作られた切手会所へ資金の拠出と
運営を
依頼された三木の富豪です。狛犬が献上された文政十年正月は切手会所の運営が難しくなってきている頃で、この年の十月には三人は
役を免ぜられています。
狛犬献上は切手会所の運営安定祈願の意味もあったと思われます。

願主には氏子である三木上五ケ町から出ていますが裕福な家の多かった平山町からは四人が出ています。

 

   御田祭

岩壺神社には昔から御田祭りという行事が伝わっています。岩壺神社には御田祭専用の神田があり、旧長屋村の農家の一人が神社で神事を
 しながら
神田で一年にわたり稲を育てる行事です。この人は頭人と呼ばれています。頭人になる家は旧長屋村で約三十軒ありその中で一年忌み事
 の無かった人がなり、
一生涯で一度だけ務める事が出来ます。

五月二日に行われる下種祭(げしゅさい)という祭りの時に栄柴(さかしば)神事という神事があります。「おんさかしばを、おん手にもちもち
 、おがもにくぁい」。
「なにがよいやら、きいたのみかどのいわいこめたるおがもにくぁい」。という不思議な祭歌を上段の人と下段の人が3回づつ
 掛け合いするという神事です。
「おがもにくぁい」という意味の分からない言葉を使う祭歌を、昔から連綿と受け継いで御田祭りが続いてきました。

 それだけ岩壺神社の始まりが古く、古い形の行事が長く続いてきた神社であると思います。 「御田祭り」石田安夫

 
  

   岩壺神社神輿蔵

 岩壺神社は明治の中頃社務所が火事になり古い文書など古い資料が残っていません。岩壺神社に関す

る何か古い資料がないのかと探していました。現在の社務所には古い文書はありません。拝殿横に昔

屋台を先導した神輿を納めた神輿蔵があります。平成二十八年十月から芝町が岩壺神社の宮年番になり、

私は芝町の役員として神事の準備のため神輿蔵に入ります、そこで時間の空いた時岩壺神社の古い資料

を探しました。

 鬼の面

      

 ある例祭の準備をした後、時間が空いたので神輿蔵で何かないかと探しました。入り口を入ったすぐ

右の上の棚に大きな二つの鬼の面がありました。共に軽く薄い乾漆造りの面です。

 一つは面の縦が38cm・横が33cmで鼻の長さが21cmで,もう一つは面の縦が45cm・横が

27cmで鼻の長さが33cmです。縦が45㎝・横が27cmの面は顔に付けても目の位置が合って

いて、前が見えるので祭りの時、屋台巡行時に神輿を先導した猿田彦が付けていた面だろう。

 しかし縦が38㎝・横が33cmの面は目の間が大きく顔に付けても前が見えません。岩壺神社で鬼の

舞が行われていたと聞いた事はありせんが、この面は平坦な能舞台などで舞を舞う時に付けた面だろうと

思います。昔岩壺神社では鬼の舞の神事があったのかもしれない、今は共に拝殿に掛けてあります。

 

 古い文書
       

 紙の箱に入った古い文書を見つけました。二つに折って重ねて入れてあり、昭和・大正・明治から

江戸時代の文書もあります。かなりの枚数です。少し見ましたが祭りを世話した宮年番の町が、その年の

祭りにかかった経費を書いた文書が多かった。その中に私の曾祖父山本石松が行司木村仙司として、岩壺

神社の祭りの宮相撲の行司として費用を支払った文書もありました。

 今三木市は新しい三木市史編纂のため古い文書を探していますので、この文書も三木図書館で一枚づつ

写真に撮って、デイスクに記録してもらっています。岩壺神社に関する屋台や神輿や宮相撲など、いろん

な事が分かればいいのですが。

 

 古い瓦

 

 神社の社務所の裏や神輿蔵には古い鬼瓦がかなりありますがみんな作者が分かりません。ある時神輿蔵

で古い変わった瓦を見つけました。ネットで調べると獅子口瓦によく似ています。獅子口瓦は鬼瓦の代わ

りに大きな建物棟の端にのせる瓦です。普通の獅子口瓦は上に三本の円筒状の「経の巻」がありますが、

この瓦は真ん中の山形の綾筋は二本ありますが、普通は一番上にある獅子口と云われる円筒状の

「経の巻」がありません。

 お寺には「経の巻」のある獅子口のある形にするが、神社なので「経の巻」のない獅子口瓦の形に作っ

たのか。一番大きな獅子口瓦の様な瓦には作者のヘラ書きが残っていました。

 「元治元年子六月長屋村瓦屋伊三郎工」と彫ってあり地元長屋村の伊三郎という瓦屋が作っています。

三木には昔から瓦師が居ましたが、長屋村と芝町の堺の西芝と云う字で瓦を焼いていました。この辺りに

瓦に適した土があったのかもしれない。この伊三郎という人の事は元堀光美術館館長石田安夫さんが調べ

て三木史談に載っています。

 「長屋村細工瓦屋伊三郎は三木ではわずか十五年簡で五ケ所で瓦を残している。その瓦は細工瓦が主で

鬼瓦は台に鬼面を針金で取り付け式に作っていて、如何にも細工人らしい仕事ぶりが感じられる。伊三郎

は活動期間が短い上に、細工物瓦が多いという特徴から渡り職人的な瓦師で、天保時代(1840年頃)

に活動を止めていた、長屋の長右衛門の仕事場で瓦を作っていたと考えられる。

 伊三郎は出石藩家老の山名氏系の出身瓦師で、三木で活動を終えた後大阪方面へ出て行っている。その

後を受けて長屋村の岩谷氏が瓦師継がれて現在まで続いている。」  (石田安夫)

 そしてこの文章にはここ岩壺神社には伊三郎作の鬼瓦があると載っています。岩壺神社の鬼瓦はみんな

調べたけれど、銘のある鬼瓦は見つからなかったが。この鬼瓦は掘光美術館が管理しているようです。

 平成二十九月二十三日岩壺神社の秋分祭の時能舞台の瓦を見ると獅子口瓦がのっている。秋分祭が終わっ

た後久留美の八雲神社へ行き能舞台の瓦を見ると獅子口瓦がのっている。他の神社の能舞台の瓦をも見た

わけではありませんが、能舞台は獅子口瓦を使うのもしれない。

 

 神輿蔵と神輿

   

 この神輿蔵の屋根裏にあたる所に棟札がありました。見ると六町の氏子惣代として、山田正六郎・廣田

豊太郎・山田理之助・福田長六郎・北村久兵衛・岩谷久治郎の名があり、他に世話人石崎卯之助と大工

森本甚吉の名があります。大正参年十月十六日に境内の風倒神木を使いこの神輿蔵が作られ、その時旧拝

殿も修繕したと書かれています。納められている神輿の下から見ると、勾欄の内側にも大正三年六月吉日

と書かれていて、同じ大正参年に作られていた事が分かります。これは大正天皇の御大典を記念して

作られたのだろう。

 

 絵馬

     

 ここには三木市内で年代の分かる絵馬の中で、一番古い絵馬が残っています。寛政六年に菅道斎という

絵描きによって描かれた「神功皇后平産の場図」です。干鰯(ほしか)屋仲間によって奉納されています。

干鰯とは鰯などの雑魚を干して粉にした肥料のことです。この絵馬は長い間暗い所で掛けられていたのか

保存状態がよく奇麗に絵が残っています。

 

 楽太鼓

    

 現在岩壺神社では以前岩宮町屋台が、祭りの時に使っていた大太鼓が神事の時使われています。神輿蔵

にはあまり厚みのない雅楽で使われる楽太鼓が残っています。漆塗りの作りでいいものだと思いますが、

長く使われたのだろう、角の漆がすり減っています。以前はこの太鼓が神事に使われていたのだろうか。

それとも能舞台で舞を舞う時の雅楽の演奏に使われたのだろうか。作られた時期や作者が分かれば

いいのですが。

    手水鉢

  

左が明治四十年芝町青年が寄付をした手水鉢、右が貞享元年に芝町が寄付をした手水鉢

明治四十年正遷宮の時手水鉢を寄付した芝町青年

 

堀尾石松       

大山一治郎     明治四十年

大橋千代太郎    正遷宮之際献焉

大原茂三郎

横山藤太郎

今井信太郎        

高橋仁平

竹内生一         

髙津貞蔵         

藤本政治         芝町 

藤原喜代一         青年

藤本光治

荒瀬寅治郎

木下市太郎

城戸長治

北村米太郎

澁谷馬吉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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