鍛冶屋のつれづれ書き
            岩壺神社屋台舁行

   岩壺神社古文書の中の明治時代の屋台舁行に関する文書です。 舁行とは屋台を舁いて氏子の町内を行く事だろう。

  
 
明治二十八年 産土岩壺神社例祭費其他諸費扣 太鼓舁行願



 明治二十八年のこの文書は屋台の事を太鼓と書いていて、今年は流行り病のため舁行は昼宮だけで余宮は禁止と書かれている。

太鼓が何台でどこの地区の太鼓か書かれていません。

      明治二十九年度宮入費明細簿


 

 明治二十九年は芝町屋臺壱臺だけで舁行したとなっている。だいたい意味は分かりましたが、分からない字が多かったので、古文の分かる人に活字にしてもらいました。                

  明治三十二年例祭ニ付屋臺舁行之義願




   明治二十二年の文書には屋台四箇の屋台が出ているが、屋台は氏子の各町村共有となっている。

 

 明治三十三年 例祭ニ付屋臺舁行之義願



 

明治三十三年の文書も屋台四箇の屋台が出ているが、屋台は氏子の各町村共有となっている。

 岩壺神社に奉納する屋臺は大正時代から以前の事はほとんど分かっていません。今回見つかった古文書の中に屋臺の舁行に関する事がありました。

 現在でも祭りの時屋臺の巡行する時、時間と通る道路を警察に申請しています。明治時代は祭りの時の祭事や相撲の事なども警察へ申請していた。

今回見つかった文書の中で残っているのは、明治二十八年・二十九年・三十二年と三十三年の四年分だけです。

各年も「例祭之義届」「例祭ニテ灯籠走之義願」「觗力之義」「例祭ニテ屋臺舁行之義願」の四通の願を出しています。


 江戸時代の終わりの頃には岩壺神社には滑原町と東条町と長屋村の屋臺が出ていた事は分かっています。明治二十八年にも何台かの屋臺が舁行

していたと思われますが、この年の文書には太鼓が何臺でどこの地区の太鼓か書かれていません。そしてこの文書は屋臺の事を太鼓と書いていて、

今年は流行り病のため舁行は昼宮だけで余宮は禁止と書かれている。文章はすべて読めませんが意味は間違いないと思います。


 明治二十九年の文書には「芝町村ノ壱臺宛之屋臺ヲ三木町中及久留美村内長屋村ニ鎮在ス岩壺社境内近舁好任度」と書かれていて、

芝町には屋臺があり、この年は芝町の屋台だけが舁行したと書かれている。以前から岩壺神社の氏子地区には屋臺が何臺あったはずだが、

何かの理由で芝町一臺だけで舁行する事になったのだろう。古文の解る人に人に活字にしてもらいました。

 芝町の屋臺に関してはある言い伝えがあります。明治の終わり頃芝町には屋臺があり祭りには舁行していたが、ある時民家とぶつかり屋臺が

壊れてしまった。その時芝町区長の稲見嘉吉さんが、屋臺を直すより公民館を作ろうと呼びかけて大正の始めに芝町公民館が完成したと。

 しかし明治三十二年の文書には屋臺が四涸出ているが、氏子各町村共有となっている。そして次の年の明治三十三年の文書も、

同じ様に氏子各町村共有となっている。神社の持っている屋臺を氏子各町村が年度毎に交代で舁行する事は聞いた事はありますが、

氏子町村共有屋臺とは聞き始めです。