西浦家大工道具
西浦家大工道具というのは神戸市北区の西浦家から天保年代の大工道具が出て竹中大工道具館に寄贈された道具の事です。
6・7年ほど前にこの道具が竹中大工道具館に、寄贈されたという新聞記事を見て道具館へ見せて欲しいと行った事があります。
三木の近くで出た大工道具だからたぶん三木で作られたものだろう。打ってある刻印を見て三木の鍛冶屋か問屋から出た道具か
知りたかったからです。その時はよその博物館へ行っていますと言って見る事は出来ませんでした。その後忘れていましたが、
高嶋鉋台屋さんが道具館へ道具の保守にボランティアに行っていると聞いてその事を話すと担当者を紹介してくれました。
電話をすると収蔵品閲覧申請書を出して許可があれば見る事が出来るそうです。申請書を出してから後日閲覧日に高嶋さんと
息子と三人で道具館の倉庫へ行って見てきました。
鉋
鉋は槍鉋が1丁で小鉋からワキ鉋・作里鉋・内丸鉋などの特殊鉋と、平鉋で一番大きい鉋は寸八で全部で二十数丁ありました。
当然押金のない一枚台ばかりです。銘のある鉋は1枚だけ「吉(廣?)」鉋があります。他の鉋も銘はあったのだが長い年月の錆
のため見えなくなったかもしれない。多くの鉋は換先に記号の様な刻印が打ってありますが、これが鍛冶屋の刻印だと思いますが
はっきりしません。
江戸時代終わり頃の三木の鉋鍛冶名と照らし合わせるとの刻印が天保六年の桶小と嘉永七年の角屋小兵衛が該当します。
他にの刻印が文政十一年の前田弥三吉、そしての刻印が来住や(きしや)亦兵衛かもしれない。他に・・・
・・・12弁の菊花紋などの刻印がありました。
鉋身は現代の鉋に比べるとかなり薄く、3mm位のオチもヌケもない鉄板の様な鉋もあります。裏もないベタ裏の鉋ばかりです。
全部研いでありませんが研いである鉋を見ると、地鉄は当然和鉄ですが介在物が多過ぎてバサついた感じの鉄が多い。しかし玉鋼は
みんな良いものです、肉眼では介在物がほとんど分からない位です。
鑿
鑿は二分から一寸四分位のサイズで十数本ありました。刻印はと亀の絵に「清(家?)」の2本であとはありません。
印は文政十一年の鑿鍛冶に来住や(きしや)伊兵衛がいるのでこの鑿鍛冶かもしれない。柄の口金は鍛接して作られていて、
これも鑿鍛冶が作ったのだろうか。鑿そのものは現代の鑿よりも太く丈夫に作られて、地鉄はチェン錬鉄の様に介在物は小さく多く
締まったいい和鉄です。
玉鋼も鉋と同様良いものです。鉋鍛冶や鑿鍛冶には最高級の玉鋼が入って来ていたのだろう、質の悪い玉鋼ではこんないい鋼にするには難しい。
鋸
鋸は鴨居挽鋸の他は縦挽き横挽きの片刃鋸などが6本で銘があるのは1本だけで、伏見住谷口清治郎作の銘があります。他の鋸には
刻印も銘も無く三木で作られたものか分かりません。2本現代の胴付鋸の様な薄い鋸があります。玉疵がほとんど無くこれだけ薄く玉鋼で
鋸を作るのは素晴らしい技術です。たぶん三木の鋸鍛冶だろう。
結局三木で作られた道具だとはっきりと分かる刻印はありませんでしたが、可能性のある刻印はありました。鉋の事で言えば鋼は良いが
地鉄の少し悪いものがあった。そして鉋身は薄く裏もベタ裏の作りは、裏出しや刃研ぎはしやすいと思います。この頃は鉋台も大工が自分で
作ったのだろう、しかし作里鉋やワキ鉋など特殊鉋の台も作ったのか。この頃の大工は道具に関し幅広い技術を持っていた事が分かります。
収蔵道具は厳重に包装されていたものを開いて見せてくれました。また1丁1丁油を引いて包装するものと思います。我々のためにお手数
をかけました。竹中大工道具館そして対応してくれましたFさんありがとうございました。お礼を申し上げます
追記
後で分かった事があります。亀の絵の刻印の鑿の事ですが三木の鑿鍛冶の系図を見ると特殊鑿の高橋鑿鍛冶は大阪から来ているそうです。
高橋鑿鍛冶の初代高橋浅吉さんは明治の初め頃の創業ですからその親方は江戸時代の人です。その親方の屋号が「亀甲」というそうです。
するとこの亀の絵の刻印の鑿は亀甲という鑿鍛冶が作った可能性があると思います。
吉廣?のかんなに関して三木史談の「明治初年の三木町」は、昭和20年代に明治初年の事を知っているお年寄りにいろんな事を聞いた
記事ですがその中に、鉋鍛冶で「這田のベタカメと言ってこれは日本一でした。吉広といって今でも名古屋で作っている筈です」という事が
載っています。
これは「這田村の鉋鍛冶の作るベタカメ{ベタ裏の鉋}は最高級の鉋だった。銘は吉広といっていたが今は名古屋へ行って作っている筈だ」
という意味か。
だろうか東這田杢兵衛という名前になります。という事は吉廣?の鉋は東這田吉右衛門か東這田杢兵衛が作ったものなのか。