鍛冶屋のつれづれ書き
近世三木金物の始まり
寛保二年(1742年)の三木町諸色明細帳には、鍛冶屋十二軒が載っているが野鍛冶と鏟鍛冶で大工道具鍛冶は
無く、大工道具を作る鍛冶屋は居なかったのだろう。「道具屋善七父祖行状記」によると元文三年(1738年)
山田屋伊右衛門は後年道具屋善七として三木で初めて金物問屋を作った道具屋屋太兵衛と二人で前挽き道具屋を
開業した。しかし三年後二人は分かれて太兵衛は金物問屋を、伊右衛門は前挽き鍛冶を目指した。
伊右衛門は京都や大坂で前挽きの作り方を修業していたのだと思いますが記録はありません。宝暦十年江戸の
大火の後、三木の役所へ前挽鍛冶の開業願いを宝暦十一年(1761年)に出していますがなかなか許可が下り
ませんでした。この時伊右衛門はもう職場も職人も準備していた様です。三木から一軒では京都前挽鍛冶仲間へ
入るのが難しかったのかもしれない。二年後の宝暦十三年頃に前挽屋五郎右衛門と大坂屋権右衛門と共に、三木で
三軒の前挽鍛冶が京都前挽鍛冶仲間へ入った後前挽鍛冶を開業したのだろう。同じ頃に道具屋太兵衛は前挽きの
他にも大工道具・鉄物を商う金物仲買問屋になったらしい。
山田屋伊右衛門は三木の道具鍛冶で名前の出た最初の人だろう。前挽鍛冶になろうとして約二十年かかってい
ます。伝説では野鍛冶だった吉田屋利兵衛が、元文二年頃に鋸の製造を始めたと云われている(三木金物誌)。
延享元年(1748年)に野道具鍛冶八人が職法を破り習い覚えた職をせず、新しい道具鍛冶をしようとした
人を訴えた訴状があります。この中に「近年釘鍛冶やすり鍛冶多く出来」という文言があります。これはこの頃
三木に釘ややすりを作る鍛冶屋が多く出来た。そして釘ややすりを作っていた鍛冶屋が、より技術的に高度な
そして価格の高い鋸を作る様になったのかもしれない。
その後明和二年(1765年)作屋清右衛門商店も金物問屋を創業して、三木にも他の鍛冶屋が出来て行った
だろうと思われますが記録はありません。天明三年(1783年)には三木で作られた大量の鋸が大坂へ売られて、
そのため大坂文珠四郎鍛冶仲間より大坂奉行所へ販売差し止めの訴訟があり三木の鋸は大坂へ売れなくなった。
翌年天明四年に話がまとまり三木の鋸鍛冶七軒が大坂文珠四郎鍛冶仲間に入り、他の鋸鍛冶はその七軒の下株と
なったので三木の鋸が大坂へ売る事が出来る様になった。この時三木の鋸鍛冶七軒は道具屋善七に大坂への販売
を頼んでいます。これは道具屋善七が大坂文珠四郎鍛冶仲間へ、三木の鋸鍛冶が入れる様に交渉したのではない
かと思います。
天明四年から八年後の寛政四年(1792年)三十九軒の鋸鍛冶が居た事が分かっていますが、天明四年には
何軒の鋸鍛冶が居たのか分かりません。「伝統産業の成立と発展」には三十軒、「近世在郷帳の構造と展開」には
九軒、三木歴史資料館には十四軒と」分かれています。八年後に三十九軒だと二十五軒から三十軒くらいだった
のだろうと思います。
また天明五年には堺包丁鍛冶仲間から大坂への搬入包丁差し止めにより大坂へ売れなくなったが、包丁の寸法
の変更により和解が成立している。この事は鋸鍛冶が出来た同じ頃に包丁鍛冶も出来ていたのだろうと思います。
前挽き鍛冶が出来てから約二十年で鋸鍛冶が約二・三十軒と包丁鍛冶が十数件も出来ている。三木金物誌には
この頃に鍛冶の大勃興と載っている様に、三木に鍛冶屋が多くで来ています。しかしその理由は分からない
そうです。私はこの頃に鍛冶屋が出来るいい条件があったのではないかと思います。
享保年間(172・30年)に出雲の大工清三郎が、製鉄設備であるたたらの送風装置を今までより大風量の、
天秤鞴を考案してそれが出雲のたたら場に設置する事により、たららの温度が上がり大きな鉧が作れるように
なった。その鉧を小割する為の大きな鉄塊を落として、鉧を小割する大銅も作られて銑や鋼や鉄の生産量が
大きく伸びた。この鉄のほとんどが大坂の鉄問屋に送られ全国に販売された。大坂の鉄仲買商人は大量の
鉄材料を販売するために考えたのだろう。
鍛冶屋に材料の鉄や鋼を与えて道具を作らせ、その道具を引き取る時に手間賃を支払い、仲買商人はその
道具を大坂の道具問屋に販売する。これを鉄為替というそうです。(三木金物誌)この仲買商人が大坂周辺へ行
っていたのだろうと思います。かなり離れた三木にも来て鍛冶屋数人に鋸の作り方を教えるために大坂の鋸や
包丁の鍛冶を連れて来てたか、それとも三木の人が大坂の鍛冶屋へ修行に行ったのかもしれない。
しかしこの頃の道具の鋼は和剛和鉄で、玉鋼を使い鋼板にしてから鉄と鍛接して道具を作るにはかなり
難しく、鍛冶屋の修業はかなり時間がかかっただろうと思います。
この事から考えると山田屋伊右衛門が前挽鍛冶開業願いを出した宝暦十一年頃には、大坂鉄仲買人により三木に
鋸鍛冶がもう居たかもしれない。そして約二十年後の天明三年(1783年)に大坂への差し止め訴訟が起きる程
三木に鋸鍛冶が多くなっていたのだろう。
鋸の事でいえばこの数人の鋸鍛冶が一人前になった後、三木の人を弟子にして鋸鍛冶に育てる。この様にして
三木に鋸鍛冶が増えて二十年で二十数軒の鋸鍛冶が出来たのだろうと思います。これは私の想像です。
その後寛政四年(1792年)三十九軒・文化二・三年(1805年)五・六十軒・文化十二年(1815年)
七十三軒と鋸鍛冶は増えています。この鋸鍛冶はほとんどが三木の住人です、これは三木の役所が三木町発展の
ため、弟子を取るなら三木の人にする様に指導があったのかもしれない。
もう一つ三木だけでなく全国的にに鋸鍛冶が多く出来ている様です、これは江戸時代中頃以前は木を伐採するのに
斧などを使っていたが、宝暦の大火の後材木の需要が大きく伸び、その為木の伐採に山挽鋸や手曲鋸などの鋸も
使う方法になったらしい①。そのため山林用鋸が必要になり、三木に限らず全国的に鋸鍛冶が大勢出来たのだろう
と思います。その為初めの頃三木で作られたのは大工用ではなく山林用鋸です。三木金物問屋資料には江戸時代の
鋸の在庫量が載っていますが、山挽鋸や手曲鋸などの山で使う鋸が大工用鋸よりもかなり多かった。
江戸時代中頃まで大工・建具屋などは鋸を使っていたが、焼き入れをしていない鉄かケラを加工硬化で造られた
鋸が多かった。その為立ち木伐採用の大きな薄く硬い鋸は作れなかった。大坂辺りでは江戸時代中頃から出雲から
玉鋼が多く入って来るになり、山挽鋸や手曲鋸などの山鋸が作れる様になった。その時三木にも鋸鍛冶が多くで来た。
これが三木の鍛冶大勃興なのだろう。
天明四年(1784年)四月二日に銭屋藤助の地鉄鍛冶の開業願いがありました②。三木はまだ地鉄鍛冶がいない
ので地鉄鍛冶をしたい、認めてもらえれば役所に鉄が入用なら差し上げますと。
天明四年の頃は大坂への販売差し止めの訴訟が解決し、三木の金物問屋も二軒以上開業し、鋸鍛冶仲間や庖丁鍛冶
仲間も出来て三木金物が発展するだろうという雰囲気の時だ。藤助はこれからは鉄を専門に加工する鍛冶屋が必要
になると思ったのだろう。
そして同じ天明四年九月には宍粟郡引原村から鍛冶屋四人を、家族ごと雲竜寺境内に引越しさせたいと役所に
願いを出しています。この四人に地鉄鍛冶をさせるつもりだったのだろう。しかし地鉄鍛冶という鍛冶屋は
三木金物問屋資料にも出ていないので、地鉄鍛冶は居なかったと思いますが、三木の人はこれから道具の製作
や販売が盛んになると感じていたのだろう。
三木の鋸鍛冶の軒数
宝暦十三年(1763年)前挽鍛冶三軒
天明三年(1783年)七軒+下株 約二・三十軒
寛政四年(1792年)三十九軒
文化二・三年(1805年)五・六十軒
文化十二年(1815年)七十三軒
①鉄製農具と鍛冶の研究 ②三木有宝蔵文書