鍛冶屋のつれづれ書き
          岩壺神社古文書


 私が生まれ育った芝町の氏神様である岩壺神社は、古い言い伝えのある神社ですが明治時代に、社務所が火事になり古文書

などが焼けて無くなり古い物は残っていません。私が平成二十九年当時芝町の役員として芝町が岩壺神社宮年番だった時、神輿蔵

で古いものを探しました。古い天狗の面や獅子口瓦などがありましたが、最後に大きな箱二つに入った古い文書を見つけました。

 江戸時代終わり頃から、明治大正昭和の古文書がかなりありました。それを今新しい三木市史を編纂している編纂室へ持って行き

写真に撮ってデータ化してくれる様に頼みました。それが令和二年六月に出来ました。文書の量は多く三百から四百くらいありました。

大部分の文書は毎年の宮年番が神社で行った神事や角力(相撲)の収支報告書です。私が知りたかった各町が行った、屋台の

運行に関する文書はない様です。

 しかし御田祭りに関する文書や、奉納相撲に関する文書がありました。他に明治初年頃の住民名簿があり読めましたが、

草書で書かれた文書が多くて、これは読めず古文書が読める人に読んでほしいと思います。

 
  
 
  

 1.古社調査事項標準ニ基キ書上簿

  


古社調査事項標準ニ基キ書上簿

 兵庫縣播磨美嚢郡久留美ノ内長屋村

 村社岩壺社兼務社掌 子谷串人

一、當社祭神 天照大神 左座 國狭槌神  右座 表筒男神

       品田分神    天児屋根神       手力雄神 

  末社祭神素戔嗚尊

一、伹勧請日 白鳳六年丁丑春二月十八日

   附リ例年例祭典九月十二日

   氏子 長屋村 府内町名旧名 滑原町 東条町

      大塚町        平山町 芝町

一.社傳ニ曰當社ハ人皇四十代天武天皇ノ御宇伊勢大神宮御分祀

勅勧アリト云傳フ其祭旧式則左ニ曰

一、毎年春四月二日御田祭ト云旧祭式往古ヨリアリト雖トモ神職   

社坊等無之農民ヲ以テ當番ト階其祭式仕来候祭文

ノ謂オ聞クニ當番曰青葉ノ榊ヲ手ニ持テ雲霧カ

ケテ棒奉ルト申ス次ニ拝殿ニ列座スル農民曰(キイタノ

御門カ斎ヒコメタルクワイト申テ榊ヲ奉ル)其榊

ヲ苗代田ノ水戸口ニサス則五百串ト云カ世俗是ヲ長屋

ノ柴振ト申ス吾輩此詞ヲ考ルニ當社ノ位置ハ美嚢

川ト云大流ノ流ト吉川ノ流トノ落合ニ深キ大曲ノ渕アリ

其溜リニ大鯰住居シテ怪シキナシ人民ヲ害スヲ天皇御上

聞ニ達シ則岩壺大明神ト斎ヒコメ玉ウ(違御帝御上聞

川落合斎納)玉フヲ誤リ云カ現今萬民當社ヘ祈願スルニ

鯰ノ絵馬ヲ奉リアリ氏子者ハ鯰ヲ食スルヲ忌ムトアリ

全ク口老ノ旧傳人民の知ル謂ナリ

一、境内地本社外建物等見取圚面ヲ相添候

 

右ハ今般御取調ニ付書上候処相違無御座候

尤第一條及二条事項標準漏ハ該社ニ於テ

無之候也

                  岩壺社社掌 子谷串人

   明治二十八年六月

兵庫縣知事 周布公平殿

 

  明治二十八年の文書です。「古社調査事項標準ニ基キ書上簿」という兵庫縣へ出した文書です。

 この時の御田祭りの祭文は階上の祭りを司る當番が、「雲霧カケテ棒奉ル」と言うと階下の人達は

 「キイタノ御門カ斎(イワ)ヒコメタルクワイ」と応えると書いてあります。

大正十五年発行された美嚢郡誌には頭人の言葉は「おんさかしばを、おんてにもちもち おがもにくぁい。」

 すると階下の人達は「なにがよいやら、きいたのみかどの いわいこめたる、おがもにくぁい。」と言うそうです。

 この言葉は現在の御田祭りの言葉と同じです。九十四年間祭文は変わっていませんが、明治二十八年から

 大正十五年の間にかなり変わっています。今ではもう分かりませんが何かあったのだろう。

ところが昭和四十六年神戸新聞社発行の「兵庫探検民俗編」に載っている御田祭りの祭文は氏子総代が

「おん手に、おん栄柴を、おん持ちまして、くもきりかけて、ささげたてまつる」と唱えると全員が

「ないがよいやら、きいたのみかどの、お祝いこめたるおがもにくワァーイ」と和す。と書いてある。

 この中の「くもきり」と明治二十八年の文書の「雲霧」は同じ言葉だと思います。この御田祭りをする人は岩宮町

 農家、約三十軒の当主が一生に一度行って来たといわれる。頭人になった人は今まで聞いて来た言葉や、親から

 聞いた言葉で、自分が御田祭りの頭人になった時、口伝で伝わって来た言葉が違った時もあったのだろう。

 

 

  岩壺神社の御田祭りで頭人の言う「おんさかしばを、おんてにもちもち おがもにくぁい。」と、階下の人達の言う

 なにがよいやら、きいたのみかどの いわいこめたる、おがもにくぁい。」の言葉は今までいくつか解説文が

 出ていますが決定的な事は分かっていません。昭和20年代三木市の教育委員だった山田宗作さんが、日本民俗学

 の権威である柳田国男氏に聞いたが「不可」という返事が帰って来たそうです。

 
  子谷社掌の説です。御田祭りの祭文は壺神社発祥の伝説から、美嚢川と吉川の流れの合流地辺りの深い淵の鯰が、

 人に害なすので天武天皇の勅勧により岩壺大明神を祀った。それにより鯰の害はなくなり人達は、違御帝御上聞川落合

 斎納(キイタノミカドカイハヒコメタルカハアイニ)と神社に称える様になった。

 それが今では「なにがよいやら、きいたのみかどの いわいこめたる、おがもにくぁい。」となったのでまないかと。

 

  私は思ったのですが。キイタとは方角の北だと岩壺神社の御田祭りに関するほとんどの解説文に出ていますが、

 「キイタノミカド」とは「貴偉ナル帝」キイナルミカド、貴く偉大な帝という意味だったではないかと。「キイナルミカド」

 が「キイタノミカド」になったのではないかと思います。そして「斎(いわい)こめ拝み(おがみ)たる川合(かわい)に」

 が、「いわいこめたる、おがもにくぁい」になったと思います。

 
  

 上は最後の方にある文章ですが、私が漢字辞書や五體字類を見ながら文章にしましたが
  意味が通じ難く三木市の市誌編纂室へ行って教えてもらいました。

右ハ今般御取調ニ付書上候処相違無御座候

尤第一條及二条事項標準漏ハ該社ニ於テ

無之候也

                岩壺社社掌 子谷串人

   明治二十八年六月

兵庫縣知事 周布公平殿
 

 2.岩壺社例祭典觝力入費簿


   

緒言

一.氏神岩壺社例余興之節觝力奉納之義ハ

  往昔六ケ町村若中限リ之ヲ関係シ百事

  周旋定規ノ処中古若衆ノ名義廃稱依テ

  子供中十五才以下ノ名義ヲ立テ年行司ヲ定メ之力

  職務トナス然ルニ維新ノ始メ子供中ノ名唱ヲモ

  被廃止周旋人無之ニ就キ伍長代デ之ヲ兼務

  成来之處当明治八年各町村ニ戸長ノ

  被為配置候ニ附示談之上今戸長ノ

  職務ト改正盟約成置者也

   明治八年十月十日   長屋村 三等戸長

                  岡本仙蔵

              大塚町 二等戸長

                  和田利平

              芝町 平山町一等戸長

                  山田理一郎

              東条町 三等戸長

                  宮崎新蔵

              滑原町 一等戸長

                  岡野傳右衛門   

 

 明治八年の文書です。明治の終わり頃から大正昭和とかけて美嚢郡の神社の宮相撲は地域の大きな行事だった。広い地域から

セミプロも集まる相撲大会でこれを仕事とする人も居た様だ。私の曾祖父石松は大坂相撲の木村玉之助に弟子入りして行司になり、

木村仙司と云う行司銘で美嚢郡の神社へ奉納相撲の行司に行っていた。

 しかしこの文書によると江戸時代には氏子六ケ町村の若衆だけで奉納相撲を行っていた。しかしある頃から若衆相撲は廃れて

無くなってしまった。その後子供中十五才以下の名義で行っていたが、明治維新後子供中の相撲も世話する人が居なくなって

しまった。その後伍長代が世話していたが、明治八年に各町村の戸長・区長が任命され、氏子六ケ町村の区長が行う事になった

という文書です。文中伍長代と云うのは江戸時代五人組という組織があったが、その各五人組の長を伍長といいその代表の事を

伍長代と云ったたらしい。

 今回見つかった古文書の中に、江戸時代の終わり頃しこ名を持った相撲取りが祭りにに相撲を行っている事が載っている。

六ケ町村の若衆がしこ名を持って相撲をしていたらしい。安政四年には四十人・嘉永二年には二十六人・嘉永七年には三十人が

勝負帳に載っている。もっと大勢出ている年の神相撲もあります。世話する人も多い感じで地域の大きな行事だった様です。