鍛冶屋のつれづれ書き
日原大工
山本芳博
「三木大工と日原大工」(長井規男)によると日原家譜の前段には先祖の事が書いてある。「抑当家先祖藤原
兵衛尉正清大臣、人王四十九代光仁天王御宇、唐秦ノ国ヨリ来朝ス。 居所ハ大和国添上郡春日里ニ有、則大裏
之木工頭ト被成忝奉仕成、其後人王五十代桓武大王御宇ニ丹生山田ニ去居、則正清嫡子 三郎兵衛尉宗次ニ唐
成陽宮ヨリ大八天塔之巻物并図伝教大師御請来ニテ、摂州丹生山大工日原宗次ニ御伝授、従此時冠将束并菊御紋
大裏ヨリ給之、子々孫々迠救置ル者也。 干時天長三年三月日
藤原兵衛尉正清大臣-日原三郎兵衛尉宗次―同苗新兵衛尉宗久―同苗次左衛門尉宗忠―
同苗與次兵衛尉盛吉 作ス」
初代正清大臣が日本へ来た四十九代光仁天皇の頃には、奈良の都の大寺院は政治的にも力があり、寺院建設
の為優秀な大工を必要としていたのだろう。そのため正清大臣が唐の国より招かれたのだろう。しかし五十代
桓武天皇の時代になると天皇は奈良の旧勢力の干渉を嫌い、都は長岡京から京都の平安京へと移った。そのため
奈良の大寺院は力を失い大工の仕事も少なくなったのだろう。
その為ではないか日原と初めて名乗った二代目日原三郎兵衛尉宗次は丹生山の麓山田に来ている。丹生山山頂
の明要寺の建設の為だろう。その頃丹生山は美嚢郡の山で美嚢郡の長官は美嚢郡大領韓鍛冶首広富という人です。
広富が延暦七年(789年)に加古の船瀬の修復に稲六万束を寄進している。かなり財力がある様なのでこの人
が明要寺の建設に大きな力があったのではないかと思います。
神戸市北区山田町の千年家の箱木家所蔵文書に「大同三年四月吉日上棟也、丹生大工日原」とありますが、
延暦七年から二十年たっていて日原大工とは三代目宗久の事だろうと思います。その後何代にも渡って明要寺で
仕事をしています。この事は日原大工は明要寺と繋がりが深かった事を感じます。
日原家譜前段の文章は「三木大工と日原大工」には荒唐無稽とは書いてありますが、文章を考えると前文は
この様になると思います。
豊臣の時代の豊臣家の大工頭は中井正吉の様ですが、日原大工の当主日原盛吉は大和国奈良に住み大坂四天王
寺薬師堂同寺西の門を片桐且元服部土佐守奉行で建てた時建築に参加しています。後に江戸三椽山増上寺仏殿を
建てた時も江戸へ行って仕事をしている。
日原大工は何時の時代か分かりませんが従四位下の官位を貰っている様です。京都の御所や法隆寺など格式
あるの寺院の屋根に上がる大工は、殿上人でなければならないそうです。日原盛吉はその様な中井正吉と並ぶ
ような立場の大工だったかもしれない。
しかし徳川の時代になると幕府の初代京都大工頭は中井正吉の子中井正清がなった。そして慶長7年から
二条城の建設を手始めに、その後江戸幕府の命により江戸城・知恩院・名古屋城などの大仕事を次々にしてい
ます。江戸幕府の大工頭が中井正清になった時、盛吉は正清の下に就く事を潔しとせず、大坂や京都の仕事を
諦め吉川谷大沢に來住して来たのだろう。
日原家の歴史を綴った日原家譜は盛吉が作り慶長十九年(1614年)三月と誌している。盛吉は大沢に来た後
石峰寺三重塔(重文)浄土寺鐘楼堂・蓮花寺宮殿などを建てている。その後二代佐兵衛尉宗家は口吉川蓮花寺本堂・
多可郡法憧寺の庫裏・方丈・鐘楼堂・開山堂、稲田若宮八幡の門丸等を建てている。
三代佐右衛門尉満正は福吉東光寺多宝塔を修理・同寺鐘楼堂・同寺北蔵坊・上の坊・中の坊の宿坊・吉祥寺
本堂・法輪寺本堂・休戦を建てている。
四代武兵衛尉正勝は蓮華寺多宝塔・法光寺本堂と宮殿・淡河下村八幡社殿・押部谷近江寺護摩堂・東光寺阿
弥陀堂・多紀郡和田寺本堂を建てている。享保八年(1728年)蓮華寺鎮守堂再建西大沢村日原武兵衛政勝
五代佐右衛門尉正照は法光寺行者堂・宝喜院方丈・永天寺方丈・竜恩寺庫裏等を建てている。
六代三郎兵衛尉正考の頃になると幕末の倹約令や経済事情で寺社の大建築もすたれ著名な遺作がない。
二代満政の建てた堂宮に棟札が残っています。
東光寺宮殿棟札「宝永七庚寅年七月吉日奉寄進宮殿再興法主地蔵院恵啓、奈良大工兵衛尉正清大臣藤臣日原
佐衛門尉満正」 東光寺鐘楼棟札「奉再建享保三年戌三月三日南都大工兵衛尉政清大臣藤原三代朝臣日原
佐右衛門尉満政」
淡河大沢に住んでいた代々の日原大工は今子孫が宝塚に住んで居ます。日原家譜などの古文書が昭和九年に
子孫の家から発見されて、新聞にも報道されたそうですがその古文書はあまり調べられていない様です。
播磨の加東郡や美嚢郡には日原と名のる大工が多く記録に残っています。この大工は日原大工の弟子か、
日原の名がこの地方の人に与える権威性を利用する為に詐称した人だろう。そのため江戸時代は美嚢郡から
近隣の社寺堂宮の多くは日原大工の造営になりより日原大工が有名になって行った。
日原大工と同じ様に播磨・摂津・丹波で、仕事をしていた藤原を性とする大工がいます。永正十年
(1513年)三田大川瀬の住吉神社を丹生山田に住む藤原光治・宗次が建てています。同じ年に藤原光治・
宗次が三田市酒井の高布売神社を建てています。彼等は播州日原大工と言われていたそうです。
明暦三年(1657年)市川町鶴居の猿田彦神社を三木大工藤原姓木村清右衛門家次が建て、正徳五年
(1517年)有馬郡西末村天満神社を三木町柴町(芝町)の藤原峰治が建てています。
「三木金物誌」では藤原姓大工は日原大工とは別系統の大工だと書いてありますが、二代満正の棟札には
藤原という言葉が入っています。また日原大工の住んでいる大沢の東流寺観音堂を宝永元年の再建したが、
その棟札には大工藤原小岸久太夫尉とあります。地元のお寺は日原系統の大工が建てただろう。
こんな事を考えると藤原大工は日原大工の弟子達かもしれない
参考 三木大工と日原大工 吉川町史