鍛冶屋のつれづれ書き
三木の鞴祭り
山本芳博
鞴祭りとは旧暦の十一月八日に鍛冶屋や鋳物師など鞴を使う職人が、日頃使っている鞴と鍛冶屋の神様の稲荷
の神に感謝する祭りです。江戸時代の江戸では鞴にはミカンを供え、集まってきた子供達に投げ与える風習があった。
三木でも上の丸稲荷神社で大工道具の生産が盛んになってきた江戸時代から明治にかけてから、鍛冶屋の祭りとして
盛大に行われていた様です。今は鞴祭りは金物神社で行っていますが、昭和十年以前は隣の上の丸稲荷神社へ
お参りに行っていました。
山本鉋の鞴祭り
私が仕事に入った昭和四十年代初め頃の山本鉋の鞴祭りは、十二月七日に職場の大掃除をします。埃を被らない
様に機械などに古布を被せる。裏の藪から竹を切って来て上の方だけササを残し他は切り払う、長い竹のササで
職場の天井から周りの壁の埃を落とします。職場の中は埃で霧がかかった様になり、時間がたって落ちた埃を掃き
取る。顔まで埃で黒くなります。八日の朝早くから母が赤飯を炊き、三角に切った油揚げとみかんを前日までに
買って用意する。
朝6時頃父と一緒に職場の神棚に赤飯と油揚げを奉った後、同じ様に赤飯と油揚げとみかんを持って上の丸の
稲荷神社へ行く。もう大勢の鍛冶屋さんがお詣りに来ていてにぎやかです。本殿でお参りした後、横や後ろの周り
に幾つもある小さい祠へお詣りに行きます。各鍛冶屋に関係のある祠へ行きますが、私の家は三本松稲荷に祖父
の親方の黒川家が祀った黒川大明{福}神など三・四ケ所周ります。その後氏神である岩壺神社と大塚町の戎神社
へお参りしてから帰ります。
八時頃になると職人さんが来て母の料理で父とお酒を飲み始めました。私は主な得意先の金物問屋さんへ重箱に
入った赤飯と油揚げとみかんを持って回ります。問屋さんの所には鍛冶屋さんが来るのは分かっているので赤飯など
置く所は準備してありました。家へ帰ってしばらくすると職人さん達は土産を持って帰って行きました。
大正の終わり頃から昭和の初め頃の三木の鞴祭りです
鞴祭りの早暁詣り
別所町東這田 澤田茂
トンビ(インパネスコート)
十二月八日は鞴祭りとして全国的に鍛冶屋の祭りである。吾が三木市でも昔から大変盛んで三木市の町は
勿論、近在の者にとっても懐かしい思い出が多い。十二月七日・八日の両日にわたって、職人や弟子達が
親方の家へ招かれて御馳走になったものである。当日はみかんや赤飯を鞴にまつりそれを近所へ配って、
お供えしたみかんを食べると風邪をひかないなどと言われて、鞴祭りとみかんは切っても切れない関係だった。
八日の早暁四時に親方の家に集まり身を清めて、親方の名前入りの提灯を先頭に職人・兄弟子・弟弟子が
一団となり稲荷神社へお参りに向かうのである。親方はインパネス「俗名トンビ」を羽織り職人や弟子たちは
マントに防寒帽に身を固め着物に下駄履き姿である。鞴祭りは風が吹いて寒い方が良いと言われ、鞴の風が
景気を呼ぶといって喜んだ。
と噂をしながらお詣りしたものであった。
御詣りの順路は地元のお稲荷様は後廻しで、先ず、高木とんど大亀稲荷さん、次は下町の丸一稲荷社であった。
各稲荷社ではこの日のため薪を用意して、大きなどんど火を焚いて下さっているので、焚き火で暖をとって次の
稲荷神社へ向かったものである。
この暁は稲荷神社の峰々、この大焚火と御神灯の大提灯の明かりで、あかあかと燃えたものだった。
神社に着く頃には丁度参拝者のピーク刻で長い石段は人で一杯で、押し合う様にして石段を登り社頭に佇めば、
お供物の赤飯と揚げの三角の山で凄まじいお賽銭の雨に打たれながら、親方や職人達は鍛冶の景気を祈り、弟子たちは早く
一人前の職人になれますようにと神様にお願いするのである。
上の丸神社には他に百体くらいのけん族さんの稲荷さんが祀られているので、ぐるっと一回りしてお参りを終わり、
いよいよ帰路になる雲龍寺伝いに月輪寺に出て、境内に祀られている知恵の文殊さんにお詣りして、次に羽場の一本杉
稲荷神社に立ち寄り、三本松稲荷社にお詣りする頃には白々と明け始めて来て、一面真っ白な霜に覆われて、まことに
清浄な夜明けである。
しかしその頃には夜明けの寒気と空腹と、そして歩き疲れも加わって弟子達はぼつぼつ顎を出し始める頃、在所の村の
稲荷神社をまわり、最後は氏神社で早暁詣りの打ち止めとなるわけである。
尚、上の丸に金物神社が建立されて祭神には天目一箇尊、金山毘古命、伊斯許理度売命の三神が祀られて鞴祭りの火入れ式の
神事が行われることになり、又、三木小唄や三木音頭の歌が出来たのはそれから大分後のことで、昭和七.八年頃と記憶している。
兄弟子の長き羽織や鞴祭 軒毎に槌音しずめ吹子祭
インパネス(トンビ)
明治20年頃イギリスから日本に伝わり大正から昭和にかけて流行した二重になったマント。インバネスコートとかトンビ
と呼ばれた。金持ちのお大尽が着る事が出来るといわれていた。三木でも鍛冶屋の親方が着る事が出来たのだろう。
私の祖父喜市へ弟子入りした正一郎さんの大正の終わり頃の鞴祭りです
田中正一郎「終始一貫」の中のふいごまつりより
鍛冶屋を営むものにとって、ふいごまつりは大事なお祭りでした。毎年十二月八日です。前の日に大がかりな煤払いをして、
一年間の 埃を取り除きます。夕方には神棚にお酒とみかんと、尾頭つきにめばるをお供えします。当日は早朝三時ごろから
奥様が赤飯を蒸されます。それを重箱に詰め、三角切りの油揚げとみかんをお供えとして、暗い内に上の丸にある稲荷神社
へお参りするのです。現在では上の丸稲荷神社のすぐそばに金物神社がありますが、これは昭和十年にできたもので、
当時は稲荷さんだけでした。
私は師匠のうしろから、かしこまってついて行きました。当時の職人は、普段は着物を着ていましたので、親方はその上からトンビを
はおって弟子を連れてぞろぞろと神社へやってきます。その下駄の音がカラコロとまだ夜の明けない暗い町にひびいておりました。
ふいごまつりの日に風が吹いたり、冷えがきついと、それから一年景気がよく、暖かいと不景気が続くと昔からいわれていましたので、
風が吹き身を切るような寒い朝だと親方連中は嬉しそうでした。
現在のようにオーバーもいらない暖冬のふいごまつりでは不景気ということになるのですが・・。子供乍らこの頃から、お参りして
拝む事は「どうぞ日本一の鉋鍛冶にして下さい」ということだけでした。私はこの気持ちがいっぱいあったので、辛抱してこれたのだと
思っています。これも私を可愛がってくれ、立派な職人になってほしいと願ってくれる祖母を早く喜ばしてあげたい一心でした。
上の丸から帰ると赤飯とみかんの包みをさげて、今度は金物屋さんへ配って歩きます。大体午前中に片付いて午後からは好きなことを
して遊んで良いといわれます。しかし、遊ぶ事も知らないし、子守をしたり、近所のうどん屋や駄菓子を売っている蓬莱さんという店に
鍛冶屋の若い衆が寄っているので、そこで花札や賭けごとをしているのを眺めていました。そこの店には年頃の娘さんがいたので、
店にはいつでも客でいっぱいでした。
山陰地方のふいごまつり 「山陰の爐」より
十二月八日はふいご祭りの日でもある。天明四年(1784)に下原重仲が著した「鉄山秘書」の中の巷説を要約すると、
昔ある所の鍛冶屋が、追われて逃げ込んだ者をふいごの中に隠して、必死にかくまい、追っ手が去ったあと、蓋をとってみたら
その者の姿はなく、その後富み栄えるようになったのでその日、十一月八日には、ふいごにはいろいろお供物をしてまつったのが
初めであるという。
旧暦の十一月八日は、新暦では十二月になり、特に閏年には年末の忙しい時期と重なり、あるいは翌年になることもあるので、
多くは新暦の十二月にするが、時には新の十一月の八日にする向きもある。この日ふいごの中を掃除し、ふいごの上か前にいろんな
お供物をし、一日休んで、内輪で親戚、近所の人たち、炭屋・大工などを招いて祝宴を張る。
供物としては、そのときどきの都合で異なる場合もあるが、洗米・餅または赤飯・まぜ飯・白飯・魚・畑の物・海藻類・山の物
など、あるいはこの中の二・三の物である。
天目一箇神が鍛冶の神としてさだめられているという説があるが、鉄山業の神=金屋子神はすべての鍛冶屋にまつられていて、
ふいご祭りの際には、灯明・榊(松)・神酒・洗米・塩などを供える。
金屋子神が犬に追われてみかんの木に登って難を逃れたという伝承から、この祭りの供物としてみかんを欠かせられないという
向きが多い。紀文のみかん船の説話も江戸の鍛冶屋のふいご祭りとの関連においてとらえるべきではなかろうか。
江戸の鞴祭り
江戸の町には「町内に伊勢屋、稲荷に犬の糞」と川柳に歌われるほど稲荷神社の数が多かった。そのためだろう稲荷神社の祭りである、
十一月八日の鞴祭りは晩秋の大行事だった。鍛冶屋や鋳物師だけでなく、彫り物師、風呂屋など火を使う商売の家では稲荷神に詣でてお札を受け、
仕事場に貼り、鞴を清めて注連縄を張り、お神酒や餅を供えました。
八日の夕方に子供たちが鍛冶屋の前に集まり「鍛冶屋のびんぼう」と囃し立てる。言われた鍛冶屋は戸口を開いて数百の蜜柑を子供たち
に投げ与えた。この時鍛冶屋が「気前よく投げればご利益があると信じられていて、
そしてこの蜜柑を食べると子供たちは風邪やはしかにかからないと信じられていた。