鍛冶屋のつれづれ書き

     わ が 町 今 昔 

 昭和57・8年頃神戸新聞三木版に週1回連載された三木市各町の昔の話です。絵と文はコタニマサオさんが書いています。

 

    
                      
芝 町

大塚の旧道坂下の芝町は大塚との境界が雑草におおわれていたから、芝町の町名がついたのではないかといわれる。

この旧道の坂は「不断坂」と呼ばれもっと急勾配であったが上を削り下を伸ばして今の形になった。坂下を横へ折れると心光寺の参道、

今は無住で大塚の極楽寺が兼務しているが、昔ここに不断塾があり、これが三樹小学校の前身のひとつである。

 わずか200m程の街道筋のちっぽけな町であったが新住居表示以後は三木電報電話局前の県道東側を抱合して大きくなった。大正のはじめ、

秋まつりの屋台が区長だった竹川さん宅に飛び込み、家も屋台もこわされるという事故があった。三木町長にもなった稲見嘉吉氏が「屋台を修理するよりも、

みんなが集まる公民堂をつくろう」と提案し大正五年、ご大典記念に芝町公会堂を建設した。三木ではじめてのもので、

玄関つきの古めかしい建物はいまでも町民の役に立っており、何より自慢のものである。工費百六十五円。

 戸数が少ない町であるため稲見さんは、常に十世帯分の経費を負担した。屋台が無くなると青年たちも大弱り、そこで魚住徳松さんが私費で屋台を購入し、

青年たちに、貸し与える。これも昭和三年のご大典の時で、五年には子供の屋台まで買った。今大塚県住が使っているのがそれだ。

祭り好きの「徳やん」の名は一躍話題になった。終戦のあくる年に「個人所有でなしに町のものにしてくれ」という話があって芝町に寄付をした。

いまは町の中心になっている息子の明正さんも祭りのこととなると一生懸命である。

 祭りといえば心光寺の祇園さん、正入寺の秋葉さんがある。祇園さんは夏病にご利益があり、毎年7月7日から13日まで待ちのひとたちが

灯ろうを飾っておまつりをする。心光寺にまつったのは昭和四年で、それ以前は道路脇に屋台を置いておまつりをした。正入寺は隣の大手町にあるが、

昔は大手町に人家がなく、芝町の人たちが講をつくって四、七、十月の十八日におまつりをした。火の神様である。いまは四月だけで、

戦後になって大手町の人たちも参加している。裏の二位谷川は洗濯場があり、フナやドジョウもいたが今は生活汚水で利用者も遊ぶものもいない。

 かって滑原発の白川越え神戸行きバスが街道を往来し、三軒のうどん屋には馬力ひきが車をとめて食をしたというが、いまは、店もなく、

むしろひっそりと静まり返っているようで、新しく町内に出来たた新吉川県道脇に活気を奪われている。

 

 

 コタニマサオさんの記事で江戸時代心光寺の寺子屋が不断塾という名であったというのは初めて知りました。そして芝町から大塚へ上がる坂が不断坂だといっています。

不断塾の前から不断院極楽寺へ上がる坂が不断坂というのも自然だと思います。私の家の前の坂が不断坂という名だという根拠が増えました。

明治の終りから大正の初め頃に芝町にも屋台があったとありますがこの話は聞いた事はありません。もっと芝町の年配の人に聞かないと。

 心光寺の祇園さんが昭和四年には祀られていたのは間違いないと思います。それは芝町婦人会が昭和四年に祇園さんへ紫の幕を寄付しているからです。

しかし田中正一郎さんの本にはもっと以前から祀られていたと書いてあります。

正入寺の秋葉さんは今も芝町と大手町二ケ町で四月にお祭りをしていますが、元々芝町の人がお祭りをしていたとは知らなかった。

 昔の洗濯場の所にあった大手町へ上がる橋が秋葉橋だと聞いた事があります。
芝町の人が秋葉さんへ行く橋だったのか。

三軒のうどん屋があったらしいがその一軒が私の家で曽祖父の頃不断坂の途中の家でうどん屋もしていたらしい。

挿絵には三宅さんの塀と屋敷その奥に私の家が描かれています。