鍛冶屋のつれづれ書き
                  和鉄の種類 

江戸時代の鉄の作り方はたたら場で作られた鉧から、鋳物である銑(ずく)と鋼の部分は和鋼に分けられ、鋼に
ならない部分はたたら場に付随する大鍛冶場で脱炭処理されて和鉄に加工された。これは一般に包丁鉄とか小割り鉄と
呼ばれています。
 和鋼は品質の差により一級品は玉鋼とか頃鋼と呼ばれ、悪いものはジャミと呼ばれかなりの種類があった。
鋼は一級品から二・三級品までいろいろ種類はあったが、和鉄の庖丁鉄に種類があったとはどの本にも書いてない。
和鋼・和鉄を使っていた頃の刃物鍛冶は鋼の層(シマ)のある和鉄では刃物を作っても刃研ぎがし難く、鍛冶屋は
シマの無い和鉄を要求していたと思う。そのため和鉄にもシマのある和鉄と無い和鉄の種類があったと思っていました。
 江戸時代普通一般に使われる建築用などの和鉄には鋼の部分であるシマが残っている場合が多い。建築用金具
などはシマがある方が強度があり、問題ないが刃物用には適さない。
        
    和鋼和鉄で作られた古い鉋です。鉋地で黒い介在物が多くいい鉄ではありません
 新しい資料が出てきました。「鉄から読む日本の歴史」には「庖丁鉄は別名割鉄ともいい鏨地(たがねじ)とか
鑿地(のみじ)、鉋地(かんなじ)などと用途名でよばれ、大きな短冊状の平鉄に鍛冶屋で加工しやすいように割溝を
つけた形で出荷されていた。」と載っている。
           
         同じ様な古い鉋です。介在物が少ない鑿地です。
 鏨地とは使用上一番強度を要求される為少しシマの残っている鉄だろう。お寺の多い京都でお寺を解体した時に出た
金具で、鉋を作ってくれと頼まれた事もありました。しかしシマが多く鉋には向かない鉄でした。
 鑿地とはシマがなく介在物の少ないよく締まった鉄で、今の鍛造した鉋地のチェン地の様な鉄だろう。鉋地とは
あまり強度が要求されないため介在物の多いバサついた鉄で、錬鉄の荒地の様な黒い介在物の多い鉄だろう。
江戸時代の鉋は黒い筋状の介在物の多い鉋地を使っているものが多い。
 やはり和鋼・和鉄が使われていた頃和鉄にも種類があり使う鍛冶屋は用途によって和鉄を選んで使っていたのだ。
江戸時代の三木の金物資料である三木金物問屋資料には鑿地や鉋地などの言葉は載っていない。これは当時三木で
使う和鉄は刃物用でシマのない和鉄ばかり使っていて、問屋が鉄を仕入れる時シマの無い和鉄を注文していて
鉄といえばシマの無い和鉄だったのだろう。その中で鉋用と鑿用に分けていたのかもしれない。
              
                 チェン地のシマ。鏨地はシマが残っている事が多かった
 天明四年(1784年)に三木上町の銭屋藤助が地鉄鍛冶の開業願いを役所に出しています。三木はまだ地鉄鍛冶
がいないので地鉄鍛冶をしたい、認めてもらえれば役所に鉄が入用なら差し上げますと。この天明四年の頃は三木の
金物問屋も二軒以上開業し、鋸鍛冶仲間や庖丁鍛冶仲間も出来て三木金物が発展するだろうという雰囲気の時だ。
藤助はこれからは鉄を専門に加工する鍛冶屋が必要になると思ったのだろう。そして同じ天明四年九月には宍粟郡
引原村から鍛冶屋四人を、家族ごと雲竜寺境内に引越しさせたいと役所に願いを出しています。この4人に地鉄鍛冶を
させるつもりだったのだろう。その後の資料がないので、銭屋藤助が地鉄鍛冶にはなれたかどうかは分かりません。

 地鉄鍛冶とは原料の鐵を買って、それぞれの道具を作る時作りやすい様な地鐵に加工する鍛冶屋だろう。この仕事は
それぞれの鍛冶屋がやっていた仕事で、注文が多い時は地鉄鍛冶から買うかもしれないが、それほどでもない時はそれ
ぞれの鍛冶屋がするだろう。そのためこの鍛冶屋はいなかった様に思います。それは三木金物問屋資料にも地鉄鍛冶と
いう言葉が出てこない事から分かります。
三木金物が発展し鉄の需要が多くなると、金物問屋が鉄を注文する時に質と大きさを指定していたと思います。

鉋の地鉄の事を考えると江戸時代は和鉄を使っています。明治の何時頃から錬鉄に代わっていったのか分かりませんが、
明治三十六年の黒田清右衛門商店の、鉋鍛冶藤原滝蔵の通を見ると「釜地」を受け取っています。この頃は和鉄の生産量も
少なくなり価格も高くなっていたのだろう。もう和鉄ではなく錬鉄を使っていますがどの様な錬鉄か分かりません。
 現在鉋の地鉄は錬鉄の船の鎖や、アングル・I型鉄の荒地を鍛造して地鉄にしていますが、この{釜地}は鍛造する前の
荒地かもしれない。そして全ての鉋鍛冶が錬鉄を使っていたかも分かりません。
 大正時代になり鉋鍛冶が多くなり鉋の生産量が多くなると、鉋の地鉄として使える錬鉄を探してきて鍛造し、鉋の地鉄
として販売する地金屋(じがねや)が出来た。地金屋さんは金床を作っていた三木金床合資会社や光川鉄工所
の前身の光川商店です。錬鉄を鉋の地鉄の幅と厚みに鍛造していました。その鉄の事を錬釜地とか錬地金
と呼んでいました。しかし生産量は少なくシートバーと呼ばれる新鉄で鉋を作る事もおおかった。
 昭和になると鉋鍛冶は錬鉄の9mm・12mm・15mmの板を、シャーで切断した荒地を鉄屋から買って使う事も
多かった。昭和四・五十年代でも大阪に和鉄を売っている所があり、三木でもその和鉄を使っている鉋鍛冶もありました。
昭和3・40年代からは鉋鍛冶は鉋の地鉄として船の鎖であるチェンやI型鉄を鍛造した錬鉄を使っています。