鍛冶屋のつれづれ書きへ

浄土宗 護念山      心 光 寺

                                              三木市芝町3-43

 

                        心光寺本堂                             本尊阿弥陀如来坐像


心光寺の歴史

心光寺は延徳元年(1489年)に加佐村に長誉儀天大和尚により創建された後、大永元年時の住職大誉智海大和尚に

より本堂及び庫裏が改築された。大塚町の極楽寺も延徳元年正月に建てられた。延徳元年の頃は別所則治が

東播磨を押えて三木の上の丸に釜山城を作った頃らしく、そのためお寺が各地域に建てられたのか。

しかし天正年間秀吉の三木城攻めの時兵火により焼失してしまった。その後芝町に再建されたが時期

としては分かりませんが、中川秀政が三木の領主になってから、天正10年(1582年)に大宮八幡宮と

月輪寺などが再建された。

その後天正12年に羽場の宝寿院・慶長5年(1600年)に平山町の正入寺・慶長6年に光明寺が

再建されているので、心光寺も天正10年から慶長6年頃に芝町に再建されたのではないかと思います。

元禄七年(1694年)九世淨与安清法師の弟子十世 生譽吟風和上が住職の時、本堂建立世話人
 滑原町福田屋与太夫と芝町福田屋与六良らによって本堂が建立されています。
 十二世住職は三譽阿智俊大和上
 十三世の住職は冠譽上人良毫相大和上
 二十二世の住職は才譽上人智道慧俊和上

寺子屋

江戸時代終わりから明治の初め頃には三木の各町に一ヶ所、全部で九校の寺子屋があった。
 芝町は心光寺にあり住職の大河内還誉が近くの子供達を二十五人ほど集めて寺子屋を開いていた。

大河内還誉は寺子屋が廃止された明治六年に大塚町・芝町・平山町・東条町・長屋村の子を集めて、

不断校になった時も、児童取り締り兼教授として教師になっています。

その後三木全体の小学校として明治九年に三樹小学校が出来た時も、

八等準訓導として教師になり明治十五年まで勤めています。

コタニマサオさんによると寺子屋の名前は不断塾だったそうです。

 

園光大師画圖

旧三木町とその周辺の浄土宗のお寺十寺が輪番で、宗祖法然上人の忌日法要の
 御忌を行っています。その時に掛けられる圓光大師行状画圖が嘉永二年((1849年)
 に作られています。これを作る発起人の三人の内二人が心光寺の檀家である平山町の
 福田屋太兵衛と芝町の鳥羽屋喜兵衛です。この画圖を作るのに心光寺の檀家が大きな力が
 あったものだと思います。勅傳寄進永代回向記という寄附帳に他に芝町の人で載っている人は
 谷屋藤兵衛・糀屋利右衛門・糀屋源兵衛です。

 


八坂神社

心光寺には小さいけれど八坂神社が祀られていますが、美嚢郡誌の心光寺の項目にも
 八坂神社の事は書かれていません。宝蔵文書に文化年間に明石町の祇園講社に灯明を
 奉納したいという、文書があるので江戸時代には提燈を飾る行事が行われていた事は
 確実です。心光寺に何時から八坂神社が祀られていた分れればいいのですが。

鉋鍛冶の田中正一郎さんが書いた「終始一貫」という本に昭和元年頃の祇園祭りの事が
 載っています。その以前から八坂神社が奉られていて心光寺の参道に趣向を凝らした提燈が
 並ぶ行事がされていた。当時は青年の会が世話をしていたそうです。

昭和4年に芝町婦人会会計簿に、「祇園神社紫幕寄付」と載っているので、芝町婦人会も

祇園祭りに協力していたのだろう。
 昭和三十年代頃には一時芝町公会堂の横にあった大岩の上で祀られていたが
 数年後には心光寺に戻されています。

昭和四十五年頃芝町の青年達が、三木青年団芝町支部を作って活動を始めた時も祇園祭りの世話を

していました。町内に寄付をまわって、絵を書き行灯を作り夜になると行灯に蝋燭を灯し、

傍で青年が集まっていました。あの頃は子供も大人もよく見物に来ていました。
 芝町の八坂神社の祇園祭は他地区の祇園祭りと同じ様に、夏の疫病退散と町内安全の他に
 今年一年間に芝町で生まれた子共達の、健やかな成長を祈願する鈴乃緒神事が行われます。

                         
                             遷宮式にて                    由来の書かれた木片は下が朽ちて読めません
 平成二十七年6月二十八日芝町公民会が八坂神社の社を新造し遷宮式が行われました。
 以前の社は何時作られたのか分かりませんでしたが、古い社に由来を書いた木片が出てきました。
 「昭和四年七月 芝町建築主國寳 」と書かれていました。この頃旧三木印刷の西隣に國寳さんという大工がいた。
 その人が作ったのだろう。昭和四年に芝町婦人会が八坂神社に紫の幕を寄付しているので話は合います。

 

檀家

心光寺境内に墓地のある井上家は江戸時代の終わり頃、三木町の富豪で三人に内に入る
 平山町の大地主福田屋井上八郎兵衛の井上家でした。井上家の墓地の一番大きな墓石にある
 智光院得譽理照大師の戒名が、嘉永三年美嚢郡十ケ寺が作った園光大師画圖の寄附帳に
 八郎兵衛が回向する戒名に載っていました。

他に有力な檀家として平山町の福田屋太兵衛や芝町の福田家があります。

今建物は無くなっている辨天堂の周りにある玉垣の正面に藤本政治の名前がある。

江戸時代の終わり頃心光寺の檀家だった鳥羽屋喜兵衛さんは、

明治になり藤本という姓になったがその子孫が藤本政治さんだろう。

 

江戸時代から明治にかけて心光寺の檀家には芝町・平山町・東条町の人達が主で、
 裕福な商人達がいて本尊の阿弥陀如来様の他に仏様が祀られていたそうです。
 しかし何かの事情で次々に売ってしまったそうです。

永く心光寺檀家総代を勤められた北井さんの話です。

 



                                                 以前の心光寺境内

                                 辨天堂        八坂神社

                                       ○ 桜

井上家

                                        大イチョウウ                    福田家

 

渋谷家

大西家

小林家

竹川家

住    福

職    田

墓    家

北井本家

 

 

  

 

 

北井家

 

 

 

                                                       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庫裏