鍛冶屋のつれづれ書きへ
                    三木芝町誌         

山本芳博

 三木市芝町は三木町が別所氏の城下町だった頃から、三木から有馬へ通じる湯ノ山街道沿いに平山

 町と大塚町の間にあります。芝町の語源はこの辺りが芝の原だったからだと云われています。

 別所時代に芝町の資料はなく秀吉による三木町の復興の後から芝町の名前が出てきます。

  芝町に関係ある人物や建物そして芝町で起こった出来事など芝町に関する事を集めました。

 

     芝町の歴史

1.三木城落城から江戸時代初期

現在芝町にある心光寺は元々延徳元年に加佐村で長譽儀天和尚により創建された。その後大永元年

 に時の住職大譽智海大和尚により本堂及び庫裏が改築された。しかし天正年間秀吉の三木上攻めの時

 兵火により焼失してしまった。その後芝町に再建されたが時期としては分かりませんが、中川秀政が

 三木の領主になってから天正十年(1582)に大宮八幡宮と月輪寺が再建された。

  その後天正十二年に羽場の宝寿院が慶長五年(1600)に平山町の正入寺が、慶長六年に光明寺が再建

 されている。その様な事から考えると心光寺も、天正十年から慶長六年の間に芝町に再建されていた

 と思います。

関ヶ原の合戦後三木は姫路池田藩の家老伊木豊後守忠次の領地になり、慶長五年(1600)忠次は

 今の大手町正入寺の所に、主君池田勝入斎信輝の追福のため勝入寺を創建した。現在は大手町ですが

 当時あの辺りは芝町と播磨鑑に書かれています。

  この忠次という人は小牧長久手の合戦の時池田家の家老でした。この合戦で主人と嫡男が戦死して

 お家断絶という時、秀吉から美濃十万石を忠次に与えようとしますが、「輝政がいると」と拒み池田家

 は存続した。関ヶ原の後家康から任地は美濃か播磨かどちらかといわれた時、池田家重臣会議の時

 みんなが美濃を主張する中一人播磨を押します。それを受けた輝政は即座に播磨を決断します。これは

 忠次が家康とも親しく池田家の中でも大きな力を持っていたといえます。

 
 別所氏滅亡の後長冶の家来だった加古弥七郎は、秀吉に家来になれと言われたが「二君に仕えず」

と言って断り別所氏の家臣として忠誠を守ったといわれる。その時秀吉から母衣(ほろ)と家紋と

大西という姓を賜った。その後造り酒屋を開き平山町の町人になっていた大西与右衛門が慶長七年に

亡くなった。その時どういう理由か分かりませんが長子が分家して、貝屋惣右衛門として芝町に来て

住んでいます。

別所長治に仕え加東郡福田の砦を守っていた福田氏が、別所氏滅亡後は帰農して芝町に住んだ。福田

氏の祖先は出雲の守護塩谷氏だと云われ畑地などが多く家産豊かであった。慶長十六年(1611)福田貞斎

の祖父福田与右衛門宗春が亡くなった。妻は芝町の有力者である井上氏(葡萄屋)から迎えている

 元和二年(1616)に伊木忠次の子で三木の領主になった伊木長門は、この年に姫路城主の池田利隆が亡

くなったので、芝町の勝入寺に主人利隆の肖像を祀り供養塔を作った。しかし姫路藩の後を継いだ嫡男

光政は幼君のため因幡伯耆に移封され勝入寺も因幡倉吉へ移ってしまいます。

その後また勝入寺は正入寺として再建されています。

この頃芝町の何処に住んで居たか分かりませんが井上葡萄屋という分限者が居ました。当主の

久兵衛が久留美の慈眼寺に寛永三年に亡父の供養のため高さ八尺の五輪塔を建立しています。

そして寛永十年(1663))には亡母の供養のため同じ高さの五輪塔を建立しています

 

三木では有名な儒学者である福田貞斎が寛文元年(1661)に生まれている。貞斉は9歳で父を失った、

母ツルは二男一女を抱えよく養育し農事に専念し家族を養った。二十歳過ぎ貞斉は家政を弟にゆだね、

京都に遊学し儒者三宅観瀾(大日本史編纂に当る)に学んでいる。

半年学び半年帰郷して近隣の子弟に人倫を説き書を教えたりしたりしたというから,三木での寺子

屋の始まりである。上五ケ町の氏神岩壺神社の境内に残る「芝町中」より寄進した石製手水鉢には貞亨

元年(1684))と刻まれており、貞斉二十四歳の頃であるから、これの寄進にも与って力があった

と思う。

 三十歳にして貞斉は山田村の墜栗花(つゆ)氏より嫁を迎え二女をあげている。邸内に花木を植え

梅遅庵を作り師の観瀾をはじめ佐藤一斉・三輪執斉・小野菊斉らの文人を迎えている。

五十一歳で本要寺で義民の碑の文を草している。妹のおさんは別府の滝家へ嫁に入って有名俳人瓢水

を生んだ。

延宝五年(1677)頃より幕府の検地令により天領でいっせいに行われたので、三木も免れず二・三年に

亘って検地が行われた。三木の町人達は代々地子免許の事を申し出たのであるが、課税基準高まで決定

されるという事で大いに驚き、翌延宝六年(1678)に三木町惣代として平田町大庄屋岡村源兵衛と平山町

大年寄大西与三右衛門の二人が江戸に下った。

幕府の勘定奉行所の役人と交渉してたびたび訴訟をした所、昔からの慣例を調査し秀吉の制札や旧

領主の折紙証文を見た上、播州巡検奉行に三木の古来の様子を問い合わせた。

そのうえいろいろ審議をした結果、酒井雅楽頭以下老中・若年寄・寺社奉行・目付・町奉行まで立会い

の審議となり、同年の暮れに免許をもらう事が出来た。三木の人々は喜び二人を延宝の義民として

後世まで顕彰しています。

大西与三右衛門は貝屋大西惣右衛門の子孫として芝町に住んでいたはずで、芝町と平山町の両町の

大年寄りをしていたのかもしれない。


 美嚢郡志には貞享年間に長屋村の産土神社だった岩壺神社に、三木上地区の大塚町・芝町・平山町・

東条町・滑原町が氏子となったと書かれています。その時の記念だろう芝町の人が貞享元年(1684)

岩壺神社に手水鉢を寄進しているがそれが今も残っている。そして岩坪神社の南参道入口にあるにある

古い鳥居が、貞享元年の二年前の天和二年(1682)に作られているので三木上五ケ町が氏子になった記念

に作られたのものだろう。

 

.江戸時代中期

宝永四年(1707)に三木の領主に常陸下館藩黒田豊前守になり、代官が三木を治めるための陣屋が建

てられた。そして藩主は三木町に地子の課税を命じ町人代表二人に江戸へ出頭するように要求してき

た。三木の人は延宝の課税の事を思い出し団結する意味もあったのだろう、福田貞斎が撰文した義民

碑が本要寺に建てられた。

次の宝永五年に加佐町大庄屋惣右衛門と平山町大年寄勘右衛門と大塚町庄屋太郎太夫の三人が、

「三木町地子免許願書」をたずさえ黒田候の江戸屋敷へ下る事になった

この時の交渉は困難をきわめた。延宝の免許状も認めず秀吉の制札も効果なく地子の役銀を承知せ

よと言い渡された。結局宝永五年から三年間役銀を納め、その上で正徳元年(1711)に再び三木町

の町役銀免除を願い出たのである。その際条件として人足役を勤める事で町役銀が免除された。その

人足役も5年後に運動の甲斐があって免除される事になった。

この時芝町の組頭八人が「訴訟費用分担請書」を出して路銀の分担金はいくらでも出すと決意表明を

している。平介・利兵衛・与一兵衛・吉太夫・九郎兵衛・長右衛門・徳右衛門・次兵衛の八人で五人組を

束ねていた。


 正徳五年(1715)の九月に有馬郡西末村の天満神社の神輿を氏子が再興している。その棟札に「播州

三木柴町大工藤原清右衛門峰治」とある事が有馬郡志に紹介されている。延亨元年の「播州三木町諸色

明細帳」では大工百四十軒とあるが三木町内ではそれだけ働ける仕事があるはずがない。

「他国へまかりいで稼ぎ申し候」となっている。渡り職人となって出稼ぎに行ったものと思われる。

その一人が柴(芝)町の大工藤原清右衛門であった。この事を現した言葉があります「丹波通いすりゃ

雪降りかかる、戻りゃ妻子が泣きかかる」

 福田貞斉が弟安義の長子忠四郎を養子にして家を継がせた二ケ月後の享保二年(1717)に五十七歳で亡

くなっている。墓誌の撰文を師の三宅観瀾に頼んでいる。その大きな墓は少し崩れていますが鷹ノ尾墓

地に今も残っています。

 寛保二年(1742)には福田忠四郎が上五ケ町の大年寄になっている。各町に一人づついる年寄りは金銀

出入公事や訴訟、家屋敷の売買の承認、人の出入りにともなう手形の発行などや、その他に法度や触書

など領主の命令の伝達に当たっていた。大年寄は天領の時は惣年寄と称し、年寄とその補佐役の町惣代

の上の存在である。

 宝暦二年(1752)の三木町の絵図が残っていて何処に誰が住んでいたか分かります。芝町の年寄りは

甚太夫で芝町屋敷地は3995坪だった。この中に「阿りき」の名がある。平山町にも居て上五ケ町の

連絡や雑用をする人の事らしい。三木町には地子免許という税金が無い代わりに道路や橋の修理・捨て

子や行き倒れ人の世話・警備と犯罪の取り締まりなどの義務があった。

これを軒役といい免許地の住人がお金を出して人に頼む事があった。その人を「阿りき」という

らしい。町内の世話をする人の事を「歩きさん」と聞いた事があったがその事か。


 福田貞斎の妹のおさんが別府の滝家へ嫁に行き俳人瓢水を生んだ。滝家は千石船を七艘持つ叶屋

という船問屋でその家の子として貞亨元年に生まれた。7歳の時父が死亡その後貞斎が預かり学問を

教授した。その時俳諧も知り世に認められた。

俳諧の名手と聞こえ御所に召された時の句「消炭も柚味噌につきて膳の上」。 大坂の俳人仲間が妓

楼に通いだし、気の進まぬ太夫を大金を積んで身請けしようとした時、瓢水がたしなめた句が有名な

「手にとるなはやり野に置けれんげ草」。母親の葬式に間に合わず墓石に参った時の句が

「さればとて石に布団は着せられず」

久留美の八雲神社に滝瓢水の撰した「笠句」の額があるそうです。当時の俳人が投句した一千句の中

から百句を撰び額に上げられています。その中に芝町の松月という俳人が入っています。

この額が出来たのは宝暦四年(1754)で、その二年前の宝暦二年の芝町絵図があり住民の名前は分かるの

ですが、松月という俳号では誰か分かりません。


 慶長七年
(1770)に芝町へ来た大西貝屋惣右衛門の子孫である貝屋清七が明和二年に四・五石積み通船

三十隻で三木川通船を始めている。ところが開業したものの荷物が集まらず実質二・三隻しか稼動しな

い状態で冥加金の支払いにさえこと欠き通船業は失敗した。清七は明和九年失意のうちに亡くなってい

ますが、三木町の物流のパイオニアというべき人です。清七は資本も能力もあったのだろう、いろんな

事業を始めましたが途中で亡くなったため実を結びませんでした。生きていれば三木で名を残した人

かもしれません。

安永二年(1773)に上五ケ町惣年取芝町の福田代蔵(与六郎)と下五ケ町惣年寄銭屋与七郎の二人が、

貝屋清七の始めた三木川通船を受け継ぎ三隻から始めた。近隣の地区とたびたび紛争が起こっています

が、寛政六年(1794)には船数が六隻となり五石船から二十石積船と大型化している。文化年間には八隻

と船が増加続けています。

 三木町が大工道具を中心とした金物などの商工業の発展により三木川通船も発展していった。福田

代蔵(与六郎)はこの頃以降20年以上上五ヶ町の惣年寄を務めています。

 

.江戸時代後期

文化元年(1804)の三木町の絵図が残っていて芝町の戸数は45軒で住人の名前が分かります。文化五

年に中町下の美嚢川の川原で芝町の花房源十郎が座元として芝居の興行を行っている。芝居のいうのは

人形操り芝居で大塚にいた傀儡師が演じたのだろう。立会保証人は大塚芝町連帯年寄新兵衛と

なっている。

しかし文化元年の三木町芝町絵図には花房源十郎の名前はありません。その後芝町へ来たのだろう。

平山町の本長寺に文化五年に行われた弓術大会の額が残っています。金的銀的とあり出場者の名前が

ありますが、小野家中や高木家中の他みんな姓があります。その時侍か侍の子孫達だろうと思います。

芝町からも出ている人が居る、文化年間の芝町絵図から見ると福田貞蔵は絵図の福田代蔵だろう。

井上與六郎は惣年寄の福田屋与六郎で蓬莱宇兵衛は心光寺参道横の宇兵衛だろう。この三人が参加し

ています。宇兵衛さんの家には二十数年前まで蓬莱さんが住んでいたが、すると蓬莱さんは江戸時代

から続く家だったのか。


 文化十一年(1814)頃三木町では上町佐野屋庄助・明石町こもいけ屋冬蔵・新町中屋吉兵衛・下町泉屋

長兵衛・芝町小浜屋忠蔵の五軒が長機にて木綿縞織を行っていた。機屋の労働力は女の子を使っていた。

その女の子が風紀上問題を起こす事が多くなり、この年に機屋指留令が出た。五軒の機屋は文化十一年

から3回のわたって指留解除の申請を行った。今後は作法を守らせ不埒な勤方はさせない、冥加金を

差し上げたいの二点を条件に再許可を願ったところ機屋が再開できた様です。

文化時代藍染の紺屋の使う形紙を売る形紙商人のせんべいや甚左衛門が芝町にいました。文化元年の

芝町絵図にも載っています。寛保二年(1742)の三木町諸色明細帳に紺屋二十六軒と形屋十六軒載ってい

て藍染めと形屋は三木の大きな産業だったようです。


 その後文化十五年(1818)には形屋は十八軒に増え諸国へ形紙を売っていて有名な形紙産地の伊勢形紙

の商圏を脅かすほどになっていた。そのため文政時代に伊勢形紙仲間から三木の形屋五郎太夫・せんべ

いや甚左衛門・三星屋藤兵衛・丸山屋甚太夫・徳屋平兵衛・加茂屋忠右衛門・柏屋伊右衛門の七名が紀

州藩へ商売難渋の訴えを起こされている。

その中の一人がせんべいや甚左衛門です。場所は三宅さんの辺りです。宮津市の朝田家所蔵の形紙の中

に播州三木煎甚の形紙が残っています。

文化文政の頃今の稲見酒造さんの長屋道に面した角地の所に北屋藤右衛門が住んでいて、文政三年

(1820)五月に家を新築するにあたって芝町の年寄りに道との境界を聞きました。年取りは御検地水帳を

見て縄を引き杭を打って境界を指示したそうです。ところがその縄張りどうりに作らず家が長屋道へは

み出していた。宝蔵文書にこの紛争が載っています。


 
9月の岩壷神社の祭礼の時藤右衛門の家が長屋道へ出張ったため、長屋村・東条町・滑原町の荷ひ

太鼓が通らず口論となった。その時は横棒を抜いて通ったそうです。 結局藤右衛門は出張った部分は

取り払いました。この文書により当時岩坪神社に荷ひ太鼓と呼ばれる屋台が出ていた事が分かります。

天保の頃ある程度稼ぎのある商人や職人に対して領主の明石藩から冥加銀上納の要求が来ました。

天保十五年(1844)に納した三木町10ケ町の名簿が三木宝蔵文書に載っていました。芝町は麹屋利右

衛門・谷屋藤兵衛・中村屋熊吉・鳥村{鳥羽}屋喜兵衛・貝屋与三右衛門・小浜屋庄次狼・灘屋伊左

衛門・北条屋太兵衛・粟生屋源七・高津屋治兵衛の十人が載っています。高津屋治兵衛は大正時代の

醤油屋高津さんの先祖だろう、中村屋は竹川さんの先祖です。


 旧美嚢郡の浄土宗のお寺十寺が輪番で宗祖法然上人の忌日法要の御忌を行っています。この行事は

江戸時代の終わり頃から現在も続いていて、その時に掛けられる圓光大師行状画圖が嘉永二年(1849)

に作られています。作られてから百六十年以上経っていますが、あまり痛んでいる所はなくすばらし

いものです。

この掛け軸を作る発起人三人の内二人が、芝町心光寺の檀家の平山町の福田屋太兵衛と芝町の鳥羽

屋喜兵衛で、もう一人が滑原町の道具屋荘七です。敇傳寄進回向記という寄附帳には五十人以上の名

前があり三木町の鍛冶屋や商人が寄附をしています。芝町から他に谷屋藤兵衛と瓦屋岩右衛門と糀屋

利右衛門と糀屋源兵衛が載っています。

 

4.江戸時代幕末

嘉永五年(1852)に本要寺の宝蔵を改築した時の棟札に芝町瓦屋岩右衛門の名があった。大塚町には

古くから瓦師の清川長右衛門・弥三右衛門がいた。郷土史家の松村義臣さんは岩右衛門は弥三右衛門の

子であろうと書いておられる。弥三右衛門は元禄七年(1694)そして宝暦二年(1752)の銘の瓦を残してい

るからその後芝町へ移って来たと思われる。

 しかし石田安夫氏は弥三右衛門と岩右衛門の活動時期に九十年の空白があるので、岩右衛門は清川

長右衛門の弟子だろうと書いています。それを裏付ける史料が出てきました。天保十五年(1844)御冥加

銀納割賦内取調帳の大塚町に瓦屋長右衛門と一緒に岩右衛門が載っています。


その頃は大塚町に住んでいて、それから圓光大師画圖の作られた嘉永二年(1849)の間に芝町へ転居

して来たのだろう。岩右衛門銘としては嘉永五年(1854)の他に、御坂神社に安政七年(1860)の鬼瓦に

三木芝町瓦屋岩右衛門の銘が残っています。他には文政九年(1826)に建てられて、国登録有形文化財に

指定されている玉置家住宅にも岩右衛門の瓦が使われています。現在城戸酒店の屋敷裏に窯場があった

といわれています。その岩右衛門は弘化年間には芝町で瓦の他に鍋や徳利やゆきひらなどの日常品も

作っていたらしい。


 嘉永七年(1854)にまた異国船渡来を名目に明石藩から冥加銀の要求が来て、三木町10ケ町が上納し

ています。芝町は灘屋伊左恵門・貝屋与三右恵門・谷屋藤兵衛・鳥羽屋喜兵衛・小浜屋庄次良・中村屋

熊蔵・瓦屋岩右衛門・糀屋利右衛門・姫路屋利兵衛の九人が割方帳に載っています。

芝町には大商人や稼ぎの多い鍛冶屋は居なかった様です。

 安政四年(1857)の正金銀取扱諸商人名前調帳という、三木町で直接他地域の人と金銀を取引をしてい

た商人の名簿があります。三木町で八十軒の名前が載っていますが芝町は諸品入交商人の項目で谷屋籐

兵衛と鳥羽屋喜兵衛だけで、芝町には他地域と直接取引をしている商人はあまりいなかった様だ。

同じこの年の安政四年の桝改員数控帳の芝町の項目に善や藤兵衛・北や藤右衛門・ふく田や代蔵・

小はたや正次郎・同惣兵衛・丁字や藤兵衛・戸平・旅や源兵衛・小原や太兵衛の9人の名前が載って

います。商売に使う桝の種類と数を調べたものだろう、これも冥加金の対象だろうか。


 安政の頃上五ケ町の大年寄だった平山町の福田屋八郎兵衛が安政六年
(1859)福田池通称大蛇池を築造

している。他に長屋村三郎佐衛門・平山町弥兵衛・平山町小市郎が協力しています。これにより大塚町

の高台にも水が行き耕地が増えたものと思われます。惣名上畑という地区では十三町六反の田圃が出来

て開いた人の中に芝町の灘屋伊八と鳥羽屋喜兵衛の名前があります。ここは大塚町から長屋村の間の

上畑という字の事だろう。


 幕末の頃心光寺に寺子屋がありました。教えていたのは住職の大河内還譽という人です。美嚢郡

では寺子屋は江戸時代の後期には、各集落に一つづつあり二十人から多い所では百人の子供が通って

いました。明治以前四・五十年前から出来ている寺子屋が多いところから、心光寺の寺子屋もその頃

から開いてのだろう。コタニマサオさんによるとこの寺小屋の名前は不断塾だった。

 

5.明治時代

(株)ミヤケの建物が明治五年(1873)に鍛冶屋米蔵によって建てられた。芝町の建物で分かっている

中で一番古く大きいものだ。建てた時から瓦葺きだったと思われますが、当時鍛冶屋がこれだけ大きい

家を建てたとは、幕末の鍛冶屋の名前を三木金物問屋資料で米蔵を探しましたが分かりませんでした。

 三木宝蔵文庫の中の嘉永六年「苧柄御用ニ付控」に鍛冶屋米蔵の名前がありました。名前の書いて

ある順番からみるとこの頃すでに芝町に住んでいたと思われます。


 
三木の各地区にあった寺子屋を統合して小学校が出来て三木の府内地区では不断校が出来た。

江戸時代終わりから明治の初め頃には三木の各町に一ヶ所寺子屋があり、芝町は心光寺にあり住職の

大河内還誉が近くの子供達を二十五人ほど集めて寺子屋を開いていた。

明治六年頃三木では九つの寺子屋が六校の小学校に統合され、その後不断・清泉・三樹の三校に統一

された。その頃の教師は八名で三校巡回という形で教育を行っていた。大河内還誉は明治六年(1874)

大塚町・芝町・平山町・東条町・長屋村の子を集めて不断校になった時も、児童取り締り兼教授として教

師になっています。その後三木の小学校として明治九年(1877)に三樹小学校が出来た時も、八等準訓導

として教師になり明治十五年まで勤めています。


 明治二十二年(1889)に稲見酒造が芝町で酒造を始める。稲見家はもともと口吉川村大島の庄屋だった

様だ。江戸時代の中頃先祖の稲見康積はすぐ南の細川荘の、藤原惺窩の影響を受け漢詩を作り「家世農」

「傍醸酒」を詠んだ。家は代々農業を営みそのかたわら酒を醸造したという、醤油なども作っていた。

江戸時代の終わり頃庄屋の稲見正八は自宅で、口吉川村大島の子供達を集め寺子屋を開き教師も

していた。明治になってこの年に芝町へ出てきたといわれる。庄屋の稲見庄八は地元大島の西谷川

沿いの開墾と河川の改修を首唱し、嘉永元年の冬より翌年二月に至る数ヶ月間千人余工を費やし良田

壱町歩余と平坦路を得た。この稲見庄八が稲見酒造の家の先に繋がる人かどうか分かりません。

そしてこの年に町村制による三木町になり、選挙により黒田仁佐衛門が初代三木町長になってい

ます。そして芝町の竹川松蔵が初めてのの三木町会議員になっていて明治四十年九月亡くなるまで務

めています


 明治三十七年(1904)に日露戦争が始まり姫路の連隊の兵隊が出征し、大陸への船に乗るため舞鶴へ

歩いて行く時、三木の町で泊まった事があった。三木の各家庭に分かれて泊まったのだが、芝町で泊ま

った兵隊が酔っ払って今の芝町公民館前辺りにあった、床秀という散髪屋さんの前で一緒の兵隊を道路

で斬ってしまった。その後芝町から大手町・滑原町と逃げながら次々に人を斬って、最後には捕まった

という芝町での大きな事件がありました。当時平山町に住んでいた片島三治さんが書いています。


 明治四十年(1907)に芝町の青年十七名が岩壺神社に正遷宮際献焉と書かれた手水鉢を寄付している。

しかし美嚢郡志には岩壺神社に明治四十年に正遷宮があったとは書かれていない。美嚢郡志が書かれた

のは大正十五年です、二十年前の事だから知っている人がいたと思いますが。

明治の中頃から大正の終わりにかけて各神社の祭礼には近隣の素人相撲取りの宮相撲が行われて

いた。宮相撲は略してミヤズと呼ばれていて、ミヤズの力士は地方巡業の玄人と前相撲を取るほど強

かった。芝町には春日山と小松崎という相撲取りがいて、春日山はかなり強かった様だ。


 芝町の山本石松は大坂相撲の行司木村玉之助の元で修行し行司になった。行司名木村仙司といい、

宮相撲の行司として祭りの日に神社をまわっていました。石野の御酒神社の明治三十二年十二月三十日

の相撲額に行司木村仙司と相撲取りに春日山の名前があります。

 

6.大正時代

コタニマサオさんの書いた「わが町今昔」に、明治の終り頃に芝町に屋台があったが竹川さんの家

へ飛び込み家も屋台も壊れました。その時稲見嘉吉さんが屋台よりも公会堂を作ろう提案して公会堂

が出来たそうです。しかしその頃に芝町に屋台があったという話は他では聞いた事はありません。


 芝町公民館から御大典記念公曾堂寄附人名簿字芝町と書かれた古い綴りが出てきました。人名簿には

明治から大正の時の人の名が出ています。六十六人の名前があるので芝町の戸数も同じ位だろうと思わ

れます。古い芝町公会堂は大正五年(1916)に建てられています。落成式は五月六日に行われ芝町区長

稲見嘉吉が建築請負者に出した表彰状があります。久留美村平井今井佐吉宛てですが人格を表彰すると

いう文章です。

 稲見酒造の当主稲見嘉吉が大正六年に、三木町長に就任し二期八年にわたり町長を務める。その四年

前の大正二年まで明治四十三年から三年間三木町会議員を務めています。嘉吉さんは平田の生まれで

十五・六歳の頃、三木の平田にあった渓林小学校の助教という教師をしていたそうです、その後

稲見酒造に養子に来ました。その頃の祭りの時平田の屋台が稲見酒造の前まで舁いて来たそうです


 大正九年の国勢調査では芝町は78世帯 男176人 女 157人 合計 333人です。

金物関係では江戸時代から明治の頃は芝町に鍛冶屋も金物問屋も居なかった様です。金物産業が発展

して来た大正時代から鍛冶屋や金物関係が芝町に開業し始めます。鉋鍛冶は山本・横山・片嶋・荒田の

四軒で鑿鍛冶は藤本・岩谷・加古。片山。鋸鍛冶は野田・前川。藤原など昭和になるともっと増えてい

ます。金物問屋は三宅房吉商店が大正の初め頃に開業しています。


 大正十二年(1923)に関東大震災が起こる。三木の金物産業は大正時代発展していましたが、震災の復

興需要により空前の好景気になり鍛冶屋も増えています。三木の刃物の生産額は大正元年から十三・

十四年頃では三倍位になっていて、鉋鍛冶は大正元年から昭和三年になると約四倍になっています。

大正十四年の国勢調査では芝町は81世帯 男 183人 女 167人 合計 350人です。

 

7.昭和時代

 湯の山街道沿いの町並みのなかでもひときわ目立つ豪壮な建物である稲見酒造本宅は、昭和四年

(1929)に事務所兼住宅として建てられた。棟上げだけで三日かかり棟が上った後棟梁は、二位谷川を

越えた南の高台から大屋根が水平がどうか確認したそうです。そして瓦は一枚一枚紙に包んで運ばれ

て来たという。これだけの家ですからいろんな逸話が残っています。

軒には杉玉がかかり玄関には暖簾と葵鶴の酒樽、伝統ある造り酒屋の雰囲気がすばらしい。


 昭和五年の国勢調査では芝町は75世帯 男 188人 女 157人 合計 345人です。

昭和七年(1932)七月二日に前日より降り続いた大雨により二位谷川大水害が起こる。芝町の南を流

れる二位谷川の上流の二位谷池通称中池が堤が切れ、水は下流の福田池通称大蛇池に流れ込みここの

堤も決壊してしまった。そのため二位谷川が氾濫して芝町や平山町が水に浸かり、特に下流の下滑原

が大きな被害を受けた。

芝町も死者二名重傷者一名軽症者三名に、家屋流出や床上浸水などの大被害を受けた。滑原町の被

害が一番大きく三木町全体で死者三十三名、流出倒壊家屋五十九戸の被害があり慰霊碑は上の丸公園

に建っています。下滑原にあった不断山善導寺もその門前にあった料理屋不断楼も流されてしまう。

その後不断楼は平山町で再建された。

 
 昭和七年の二位谷川の大水害によりな流されてしまった洗濯場を昭和九年に再建しています。作る

ための寄附帳がありました。芝町だけではなく大塚町など他町からの寄附もある様です。二位谷川には

芝町だけでなく下流には県道の橋の下に平山町の作った洗濯場があり、その下流には下滑原町の作った

洗濯場がありました。芝町の洗濯場の所にあった大手町へ上る橋は秋葉橋といわれていたそうです。

これは秋葉三尺坊大権現の祀られている正入寺へ行く橋からきているのだろう


 福有橋近くに神戸電鉄三木駅が出来た後、昭和十三年
(1938)1月28日から神戸電鉄が営業運転を始

めた。これにより三木から神戸へ行くのに大変便利になり、他に沿線各地も発展していった。終戦後

小野の人達が神戸電鉄の延長の運動を起した結果、昭和二十五年に工事が始まり一年後の昭和二十六年

小野まで開通し二十七年4月には粟生まで開通し粟生線が全線が開通しました。

 昭和十八年(1943)に三木町が政府に戦闘機を献納していて、その時の三木の各町の寄付帳が三木図書

館にありました。陸海軍に計五機献納していて他に個人で一機献納している人がいる。戦争前から中国

大陸へ金物を輸出していた堀田商店の堀田光雄さんです。

芝町の名簿を見ると各戸重複者を除くと八十四軒だから、この頃の芝町の戸数は八十四軒位だろう。


 昭和二十一年(1946)に魚住徳松さんから屋台の寄贈を受け芝町屋台が岩壺神社奉納の運行が始まり

ました。しかし屋台を収める所がなく魚住さんの仕事場の二階に普段は置いていたそうです。屋台を

組み立てるのも福田さんの蔵の横の道路が広い所でしていた様です

 屋台の寄贈を受け太鼓倉を作る話がまとまりました。公民館の物置からこの年の七月八日の日付の

太鼓倉の見積書が出てきました。建坪が三坪で見積もり金額は五萬圓也中西という大工さんです。

以前公会堂の裏の県道沿いにあった小さな太鼓倉です。完成したのは昭和二十七年か二十八年だろう。

するとこの少し前に大手町の地蔵さんから芝町を通って吉川へ行く県道が出来たのだろう。


 昭和二十九年(1954)に美嚢郡三木町は美嚢郡志染村・別所村・細川村・口吉川村と合併して三木市と

なりました。八月には市長選挙が行われて小林利八氏が当選して初代三木市長になりました。

 今まで芝町の児童が通っていた三樹小学校の生徒が増えて手狭になったため、昭和三十二年に

上五ケ町辺りを校区とする三木小学校が開校した。敷地は工場の跡地だったので運動場も荒れていて、

生徒は朝礼の後運動場に石拾いをしていた。

 

8.平成時代

 芝町にも新しい屋台をという気運が高まり、平成三年(1991)に芝町屋台奉賛会が出来三十九人の賛同

者で活動を始めました。その結果平成五年に明石市西八木町の古い屋台を譲り受ける話がまとまりまし

た。それから町内で寄附を募り彫刻などの彫り物は残し、水引きは修理し高欄掛け・提灯は新調し新し

い芝町屋台が完成しました。そして平成六年(1994)九月二十五日に新屋台のお披露目入魂式が行われま

した。

 大正六年に作られて九十六年が経ち、古くなっていた公会堂が平成十二年(2000)に新しく公民館に、

そして屋台蔵が新築された。八月六日に加古三木市長・鷲尾県会議員に周辺各町区長の出席の下、町内

の人が集まり竣工式が行われました。その後真夏の芝町町内を芝町屋台が練り歩き、公民館と屋台蔵の

新築を町民みんなでお祝いをしました


 県は平成十七年から優れた景観の保全・創出に寄与する建物を同建造物に指定し維持管理を図って

います。平成二十三年(2011)に稲見酒造本宅と三宅徳松商店の主屋と離れが、兵庫県景観形成重要建造

物に三木市で初めて指定されました。二軒とも湯の山街道の象徴というべき建物で、これが芝町にある

のが喜ばしい事です。

 

 

 

 参考資料

 川崎氏資料・宝蔵文書・三木市史・美嚢郡誌・三樹小学校百年史・姫路100ものがたり・他

 

2.文化元年芝町絵図の住人

                              薬師堂  

(糀屋)源兵衛

 

沢兵衛

指屋かた屋 藤蔵

文吉

四郎兵衛

糀屋利右衛門

嘉右衛門

次郎兵衛

心光寺

せんべえ屋甚左衛門

宇兵衛

 

庄兵衛

(大黒屋)平兵衛

善兵衛

畳屋喜兵次

嘉七

茂兵衛

作り道

忠次郎

 

灘屋伊左衛門

儀兵衛

丁字屋)藤兵衛

利左衛門

忠兵衛

惣年寄)福田屋与六郎

武兵衛

北条屋太兵衛

仁左衛門

福田屋代蔵

明屋敷

吉平

兵衛門

右衛門

庄右衛門

嘉平衛

     山道  

長屋道

 

新蔵

北屋藤右衛門

源七

中島屋甚七

利兵衛

平兵衛

与右衛門

藤屋忠左衛門

伝右衛門

善七

弥兵衛

平兵右衛門

小浜屋惣兵衛

常念寺

 

中島屋甚七宅は延宝の義民貝屋大西与三右衛門の旧宅です。

平山町の本長寺に文化三年十二月吉日に行われた弓術大会の額があります。金的銀的とあり出場者の

名前がありますが、小野家中や高木家中の他みんな性があります。現在侍か侍の子孫達だろうと思います。

芝町から福田貞蔵は絵図の福田代蔵だろう。井上與六郎は惣年寄の福田屋与六郎で蓬莱宇兵衛は心光寺

参道横の宇兵衛だろう。この三人が参加しています。宇兵衛さんの家には二十数年前まで蓬莱さんが

住んでいたが、すると蓬莱さんは江戸時代から続く家だったのか。

北屋藤右衛門はこの十六年後の文政十三年に家を改築した時長屋道へ家を張り出して作り、

そのため岩壺神社祭礼の屋台が通れなくなり騒動を起しています。

小浜屋惣兵衛の子供だろう10年後の文化十一年に小浜屋忠蔵が木綿縞織の仕事をしています。

三木宝蔵文書には文化五年に芝町花房源十郎が美嚢川の川原で人形芝居の興行を行っている文書が

ありますが、文化元年の芝町絵図には源十郎の名前がありません。元年以降に芝町へ来たのだろう。

 

 3.昭和十年代の芝町の住人

                                     薬師堂

 

 

 

大西丈太郎

岡喜助

水井義道

 

       大原正夫

藤本種造

 

高津

大西

中西

山本喜市

 

坂東亀市

藤原

 

井上清

長沢(戦中)

 

井上

 

 

 

重本

三宅

心光寺

 

蓬莱房司

田中

 

蓬莱勝治郎

北村米太郎

山田竹二

藤本

 作り道

岩谷亀三郎

泉斌

 

 

 

 

城戸長次

 

國寳布仔

横山藤太郎

岡本義光

岡本康太郎

 

 

大西松之助

野田治

魚住徳松

魚住徳松

竹川幾次

 

安随政冶

福田静江

 

大山正賢

 

前川儀夫

隅田

 

 

 

 

荒田

稲見昌二

 

青木鶴吉

坪井

藤本

加古信蔵

川崎

青木鶴吉

 

 

小山市太郎

ニ杉

葦原大治郎

片山末治

今福久吉

西村国太郎

長屋道

野田貞太郎        横山のぶ

 

荒瀬熊太郎

稲見嘉吉

横山茂

 

 

小松音吉

 

藤原喜代一

 

永田務

 

大垣宗二

太田重三郎

 

岩谷潜信

芝町公民館

 

岸野圭一

    横山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    常念寺

昭和十年代の芝町の住人 職業

                                          薬師堂

 

 

 

八百屋

金物店番頭

関電職員

 

 

鑿柄付け

鑿鍛冶

 

 

 

 

大工

 

鉋鍛冶

 

金物問屋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

金物問屋

 

心光寺

 

鉋鍛冶

鉋職人

 

 

 

 

 

 

駄菓子屋

農業

ブリキ屋

 

鉋鍛冶

 作り道

 

ブリキ屋

印刷業

 

鑿鍛冶・雑貨屋

大工

 

 

酒屋

 

鉋鍛冶

 

 

 

 

鋸鍛冶

 

 

鋸目立て

 

鋸目立て

印刷

鋸目立

 

金物製造

 

 

 

鋸?

 

 

 

 

 

 

 

鑿鍛冶

 

 

小鉋鍛冶

 

 

 

鑿鍛冶

 

鏝鍛冶

山道

 

金物問屋

 

鑿鍛冶

鍛冶?

 

 

長屋道

豆腐屋       横山のぶ

 

  

 

農業

酒製造

 

 

 

 

 

 

 

ギムネ鍛冶

 

 

 

 

鏝鍛冶

小野工業高校教師

 

 

金光教三木教会

芝町公民館

 

 

メッキ屋

鋸鍛冶    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     常念寺