鍛冶屋のつれづれ書き
       芝 町 歴 史 人 物

 
 兵庫県三木市にある芝町は古くからある町でその歴史を年表にまとめました。その解説に載って

いる人物で重要で分かっている人を紹介します。

           川崎氏資料三木宝蔵文書・三木市史・美嚢郡誌・三樹小学校百年史他より

 

伊木清兵衛忠次

 関が原合戦の後三木領主になった人です。天文十三年(1544年)美濃の生まれ池田家に仕え

最強の家老として池田家の将来を決める上で決定的な役割を果たします。小牧長久手の合戦で主人の

池田恒興と嫡男元助が討ち死にし、お家断絶の淵に立たされます。秀吉は遺領岐阜十万石を忠次に

与えようとしますが、忠次は輝政がいると拒み二男輝政の相続が決まり池田家は存続しました。

 関が原の後池田家は家康から任地は美濃か播磨どちらでもと言われて、池田家の重臣会議でみんなが

なじみの美濃を主張する中で忠次は最後に播磨を押します。それを受けた輝政は即座に播磨を決断します。

これは忠次は家康とも親しく池田家の中で大きな力を持っていた人だといえます。

                             (姫路城100ものがたり)より    

 三木領主といっても三木の事は三木郡代に任せて、忠次は家老として姫路にいたようです。

 

 井上葡萄屋冶兵衛

 福田貞斎の曽祖父は井上氏を妻にしている。祖父の代にはその母方の井上の姓を名乗っていた。

冶兵衛という人は久留美村慈眼寺に寛永三年(1626年)に亡父のため、

同じく十年(1633年)には亡母の供養のため、八尺の五輪の塔を建立していて現存する。

井上家は芝町の分限者であった

 

 福田貞斉

 寛文元年(1661年)に福田貞斉が生まれている。本姓は塩谷氏で出雲の守護代塩谷高貞の

後と伝えられる。曽祖父与右衛門宗春は別所長冶に仕え加東郡福田の砦を守っていたが、長治の滅後

帰農し二代清春は一時母方の井上と称した事があったが、三代善秋に次いで貞斎の代に至り

福田をもって家名とするに至った。

貞斉は9歳で父を失った、母ツルは二男一女を抱えよく養育し農事に専念し家族を養った。

二十歳過ぎ貞斉は家政を弟にゆだね、京都に遊学し儒者三宅観瀾(大日本史編纂に当る)に学んでいる。

半年学び半年帰郷して近隣の子弟に人倫を説き書を教えたりしたりしたというから,

三木での寺子屋の始まりである。

上五ケ町の氏神岩壺神社の境内に残る「芝町中」より寄進した石製手水鉢には貞亨元年(1684年)と

刻まれており、貞斉二十四歳の頃であるから、これの寄進にも与って力があったと思う。

 三十歳にして貞斉は山田村の墜栗花(つゆ)氏より嫁を迎え二女をあげている。邸内に花木を植え

梅遅庵を作り師の観瀾をはじめ佐藤一斉・三輪執斉・小野菊斉らの文人を迎えている。

五十一歳で本要寺で義民の碑の文を草している。

 

 柴町の大工藤原清右衛門峰治

 正徳五年(1715年)の九月に有馬郡西末村の天満神社の神輿を氏子が再興している。その棟札に

「播州三木柴町大工藤原清右衛門峰治」とある事が有馬郡志に紹介されている。延亨元年の

「播州三木町諸色明細帳」では大工百四十軒とあるが三木町内ではそれだけ働ける仕事があるはずがない。

「他国へまかりいで稼ぎ申し候」となっている。渡り職人となって出稼ぎに行ったものと思われる。

その一人が柴(芝)町の大工藤原清右衛門であった。

 

滝瓢水

福田貞斎の姉妹のおさんが別府の滝野家へ嫁に行き瓢水を生んだ。滝野家は千石船を七艘持つ

船問屋でその家の子として貞亨元年に生まれた。後に野を廃して滝を称した。奇行で財産を失った後

俳人として名声が上がった。俳諧の名手と聞こえ御所に召された時の句「消炭も柚味噌につきて膳の上」。

大坂の俳人仲間が妓楼に通いだし、気の進まぬ太夫を大金を積んで身請けしようとした時、瓢水が

たしなめた句が有名な「手にとるなはやり野に置けれんげ草」。

 道楽の限りをつくして母の葬儀に間に合わず、この時の句が「さればとて石に布団は着せられず」。

                               (なにわ人物伝 三善貞司)

他には浜の情景を詠んだ「浜までは海女も蓑着る時雨かな」。

久留美の八雲神社に滝瓢水の撰した「笠句」の額があります。当時の俳人が投句した一千句の中から

百句を撰び額に上げられています。その中に芝町の松月という俳人が入っています。この額が出来たのは

宝暦四年で、その二年前の宝暦二年の芝町絵図があり住民の名前は分かるのですが、

松月という俳号では誰か分かりません。

 

 貝屋清七

 慶長七年に芝町へ来た大西貝屋惣右衛門の子孫である貝屋清七、明和七年(1770年)に

四・五石積み通船三十隻で三木川通船を始めている。ところが開業したものの荷物が集まらず

実質二・三隻しか稼動しない状態で、冥加金の支払いにさえこと欠き通船業は失敗した。

清七は明和九年失意のうちに亡くなっていますが三木町の物流のパイオニアというべき人です。

 他に清七は三木川筋で四町歩以上の開墾を願い出ていましたが、亡くなったために息子の

与三右衛門が断りの文書を入れています。

 清七は資本も能力もあったのだろう、いろんな事業を始めましたが途中で亡くなったため

実を結びませんでした。生きていれば三木で名を残した人かもしれません。

 

 福田代蔵(与六郎)

 安永二年(1773年)に上五ケ町惣年取芝町の福田代蔵(与六郎)と下五ケ町惣年寄

銭屋与七郎の二人が、貝屋清七の始めた三木川通船を受け継ぎ三隻から始めた。

近隣の地区とたびたび紛争が起こっていますが、寛政六年には船数が六隻となり五石船から

二十石積船と大型化している。文化年間には八隻と船が増加し続けています。

 三木町が大工道具を中心とした金物などの商工業の発展により三木川通船も発展していった。

福田代蔵(与六郎)はこの頃以降20年以上上五ヶ町の惣年寄を務めています。

 

 小浜屋忠蔵

 文化年間三木町では上町佐野屋庄助・明石町こもいけ屋冬蔵・新町中屋吉兵衛・下町泉屋長兵衛・

芝町小浜屋忠蔵の五軒が長機にて木綿縞織を行っていた。機屋の労働力は女の子を使っていた。

その女の子が風紀上問題を起こす事が多くなり、文化十一年(1814年)に機屋指留令が出た。

 五軒の機屋は1815年から3回のわたって指留解除の申請を行った。

今後は作法を守らせ不埒な勤方はさせない、冥加金を差し上げたいの二点を条件に

再許可を願ったところ機屋が再開できた様です。

 石田安夫さんによると紺染形の形紙に名前の後に本と書いてあるのは本人が形彫りをした

サインと思われる。それにより小浜屋忠蔵本の形紙があるので小浜屋忠蔵は形彫りと

織機屋の両方を手懸けた職人の様です。

 

 せんべいや甚左衛門

文政時代藍染の紺屋の使う形紙を売る形紙商人のせんべいや甚左衛門が芝町にいました。

寛保二年(1742年)の三木町諸色明細帳に、紺屋二十六軒と形屋十六軒載っていて藍染めと

形屋は三木の大きな産業だったようです。その後文化十五年には形屋は十八軒に増え諸国へ

形を売っていて有名な形紙産地の伊勢形紙の商圏を脅かすほどになっていた。

そのため文政時代に伊勢形紙仲間から三木の形屋五郎太夫・せんべいや甚左衛門・三星屋藤兵衛・

丸山屋甚太夫・徳屋平兵衛・加茂屋忠右衛門・柏屋伊右衛門の七名が紀州藩へ商売難渋の訴えを

起こされている。 その中の一人がせんべいや甚左衛門です。

文化元年の芝町絵図にせんべいや甚左衛門が載っています、場所は三宅さんの辺りです。

 

 北屋藤右衛門

文化文政の頃現在の稲見酒造さんの長屋道に面した角地の所に北屋藤右衛門が住んでいて、文政三年五月に

家を新築するにあたって芝町の年寄りに道との境界を聞きました。年取りは御検地水帳を見て縄を引き

杭を打って境界を指示したそうです。ところがその縄張りどうりに作らず家が長屋道へはみ出していた。

 九月の岩壷神社の祭礼の時、長屋村・東条町・滑原町の荷ひ太鼓が、藤右衛門の家が長屋道へ出張ったため

通らず口論となった。その時は横棒を抜いて通ったそうです。

 結局藤右衛門は出張った部分は取り払いました。

 

 鳥羽屋喜兵衛

 旧播磨国三木町の浄土宗のお寺十寺が輪番で宗祖法然上人の忌日法要の御忌を行っています。その時に

掛けられる圓光大師行状画圖が1849年嘉永二年に作られています。

この掛け軸を作る発起人の一人が芝町の鳥羽屋喜兵衛です。天保十五年の御冥加金銀取調帳や

嘉永七年異国船渡来冥加銀調帳に名前の載っている芝町の有力な商人です。

鳥羽屋は明治になり藤本という姓になっています。

 

 瓦屋岩右衛門

 嘉永5年(1852年)に本要寺の宝蔵を改築した時の棟札に芝町瓦屋岩右衛門の名があった。

大塚町には古くから瓦師の清川長右衛門・弥三右衛門がいた。松村義臣先生は岩右衛門は弥三右衛門の

子であろうと書いておられる。弥三右衛門は1694年(元禄七年)そして1752年(宝暦二年)

の銘の瓦を残しているからその後芝町へ移って来たと思われる。

 しかし石田安夫氏は弥三右衛門と岩右衛門の活動時期に90年の空白があるので、

岩右衛門は清川長右衛門の弟子だろうと書いています。それを裏付ける史料が出てきました。

 天保十五年(1844年)御冥加銀納割賦内取調帳の大塚町に瓦屋長右衛門と一緒に

岩右衛門が載っています。その頃は大塚町に住んでいて、それから圓光大師画圖の作られた

嘉永二年(1849年)の間に芝町へ転居して来たのだろう。

 岩右衛門銘としては1852年(嘉永五年)の他に、御坂神社に1860年(安政七年)の鬼瓦に

三木芝町瓦屋岩右衛門の銘が残っています。他には1826年(文政九年)に建てられて、

国登録有形文化財に指定されている玉置家住宅にも岩右衛門の瓦が使われています。

現在城戸酒店の屋敷裏に窯場があったといわれています。

その岩右衛門は弘化年間には芝町で瓦の他に鍋や徳利やゆきひらなどの日常品も作っていたらしい

 

大河内還譽

 江戸時代終わりから明治の初め頃には三木の各町に一ヶ所寺子屋があった。芝町は心光寺にあり住職の

大河内還誉が近くの子供達を25人ほど集めて寺子屋を開いていた。明治六年頃三木では九つの寺子屋が

六校の小学校に統合され、その後不断・清泉・三樹の三校に統一された。

その頃の教師は八名で三校巡回という形で教育を行っていた。大河内還誉は明治六年に大塚町・芝町・

平山町・東条町・長屋村の子を集めて不断校になった時も、児童取り締り兼教授として教師になっています。

その後三木の小学校として明治九年に三樹小学校が出来た時も

八等準訓導として教師になり明治十五年まで勤めています。

 

 鍛冶屋米蔵

 (株)ミヤケの建物が明治五年(1873年)に鍛冶屋米蔵によって建てられた。芝町の建物で

分かっている中で一番古く大きいものだ。建てた時から瓦葺きだったと思われますが、当時鍛冶屋が

これだけ大きい家を建てたとは、幕末の鍛冶屋の名前で米蔵を探しましたが分かりませんでした。

 三木宝蔵文庫の中の嘉永六年「苧柄御用ニ付控」に鍛冶屋米蔵の名前がありました。

名前の書いてある順番からみるとこの頃すでに芝町に住んでいたと思われます。

 

中村屋熊吉

中村屋は天保十五年御冥加銀上納割賦内取調帳に熊吉の名前があり、弘化四年秤千木御改差出帳には熊蔵の

名前があり、この年以降は熊蔵になっていますので親子だろうと思います。明治になり竹川という姓になり

今の竹川さんの先祖です、住んでいた所は今弘一さんの住んでいる同じ場所で米屋をしていたそうです。

 

竹川松蔵

竹川松蔵さんは明治二十二年四月一日に実施された町村制により開かれた、三木町議会の初めての

町会議員になっていて明治四十年九月に亡くなるまで務めています。

美嚢郡誌によるとと子供の竹川幾次さんは大正七年四月には大正水力工業株式会社という会社を作っていて、

水車で米を脱穀していた米屋でした。他に金床を作ったり金物販売業をしていました。

もう亡くなった芝町の前川さんが鋸鍛冶を創めた時竹川さんで真鍮製のサシガネを買ったそうです。

昭和の八・九年頃の三木町の地図にも芝町の同じ所に大正水力会社が載っています。

竹川さんの家の屋根裏には大正水力会社の看板が残っているそうです。

 

泉覚之助

明治二十九年から三十六年まで三木町の助役を務めた後、大正二年から十四年まで三期十二年間町会議員を

務めています。大正三年の御大典記念の芝町公会堂新築の寄附帳には、泉覚之助さんは載っているので

明治の終わり頃に芝町に住んでいたのだろう。しかし昭和八・九年頃の地図によると三木印刷は新町にあった。

経営している会社の三木印刷が芝町へ移って来たのは何時か分かりません。

 

 稲見嘉吉

明治四十三年から大正二年まで三年間三木町会議員を務めています。そして大正五年に大正天皇の

即位記念事業に芝町区長として芝町公会堂の建築にあたる。この時の寄附帳が残っていて当然ながら

嘉吉さんが最高額の寄付をしています。そして戸数の少ない芝町の町の経費は常に十軒分負担しました。

 大正六年(1918年)に三木町長に就任し二期八年にわたり町長を務める。

嘉吉さんは十五・六歳の頃三木の平田にあった渓林小学校の助教という教師をしていたそうです、

その後稲見酒造の稲見家に養子に来ました。その頃の祭りの時平田の屋台が稲見酒造の

前まで舁いて来たそうです。

 

高津冶兵衛

 天保十五年の御冥加銀取調帳に高津屋冶兵衛という人がいる。冶兵衛という名は代々襲名したのだろう。

大正六年四月から十四年四月まで二期八年町会議員を務めています。大正十年一月に高津商会という

会社を作り、醤油の醸造を始めましたが短い期間で終わっています。

 

 山本石松

私の曽祖父山本石松は行司名木村仙司と言い、親方は大阪相撲の行司木村玉之助。行司は呼び出しも

兼ねていたのだろう屋号通称はいいかた(言い方)と呼ばれていた。明治の終わり頃から大正・昭和初め頃は、

三木町と周辺の秋祭りには宮相撲が盛んに行われていて、石松は宮相撲の行事のため祭り時は家に帰らず

宮から宮へ行っていたそうです。

 芝町の川崎さんが以前市民病院で待っていた時、隣のおじいさんが川崎さんが芝町の人と知って

「昔いいかたの行司で相撲をとったことがある」といったそうです。行司としてちょっと知られて人だったようです。

 石野の御酒神社にある相撲額には、明治三十二年十二月三十日に行われた宮相撲の行司に木村仙司、

相撲取りの下の方に芝町の春日山の名前があります。