鍛冶屋のつれづれ書きへ

芝町歴史年表解説

                               山本芳博             

多くは川崎正雄氏の資料を基に作っています。他に美嚢郡志・三木市史・三樹小学校百年史・その他

 

1580年 天正八年 三木城落城 秀吉制札

 三木城が秀吉によって落城し別所氏は滅亡した。焼き払われた城下を再建するために、秀吉は年貢を

取らない諸役免許の制札を立てた。これにより人々が戻って来て三木の再建が始まる。

そのため大工が多く集まって来て大工の多い町になる。

 

1580年から1601年 芝町に心光寺が再建される

 心光寺は延徳元年に加佐村に長誉儀天大和尚により創建された後、大永元年時の住職大誉智海大和尚

により本堂及び庫裏が改築された。しかし天正年間秀吉の三木城攻めの時兵火により焼失してしまった。

その後芝町に再建されたが時期としては分かりませんが、中川秀政が三木の領主になってから天正10年

(1582年)に大宮八幡宮と月輪寺などが再建された。その後天正12年に羽場の宝寿院・慶長5年

(1600年)に平山町の正入寺・慶長6年に光明時が再建されているので、心光寺も天正10年から

慶長6年頃に芝町に再建されたのではないかと思います。

 天正12年にはうつみ甚九郎・甚八両名が大塚町で瓦を焼いていた。

 

1600年 慶長5年 伊木忠次が勝入寺を建立

 関ヶ原の合戦の後三木の領主になった姫路藩家老の伊木豊後守忠次が、

慶長5年主君池田勝入斉信輝の追福のため勝入寺を再建した。

この頃大手町という地名はなくあの辺りは芝町だった。

 

1602年 慶長七年 貝屋惣右衛門が芝町に来ている

 別所長治の家来だった加古弥七郎は秀吉に家来なれと言われたが「二君に仕えず」と言って断り、

別所氏の家臣として忠誠を守ったといわれる。その時秀吉から母衣(ほろ)と家紋と大西という姓を賜った。

その後造り酒屋をひらき平山町の町人になった大西与右衛門が亡くなった。

その長子が貝屋惣右衛門として芝町に来ています。

 

1611年 慶長十六年 福田宗春没

 福田貞斉の曽祖父与右衛門宗春が亡くなっています。与右衛門の祖先は出雲の守護で塩谷氏

であったと伝えている。別所長治に仕え加東郡福田の砦を守っていたが、

別所氏滅亡後は帰農して畑地などが多く家産豊かであった。

妻は芝町の有力者である井上氏(葡萄屋)から迎えている。

 

1615年 元和元年 三木城破却

 大坂夏の陣により豊臣家を亡ぼした家康は一国一城令を出しこれまであった多くの支城は

破却させる事にした。そのため三木城も潰されてしまった。

三木城の資材が明石城に使われたといわれていますがはっきりとは分からないそうです。

 

1616年 元和二年 伊木長門正入寺に供養塔を建立

 伊木忠次の子で三木の領主になった伊木長門はこの年に姫路城主の池田利隆が亡くなったので、

芝町の勝入寺に主人利隆の肖像を祀り供養塔を作った。しかし姫路藩の後を継いだ嫡男光政は

幼君のため因幡伯耆に移封され勝入寺も因幡倉吉へ移ってしまいます。

その後また勝入寺は正入寺として再建された。

     

 

1626年 寛永三年 井上治兵衛亡父母の供養塔を建立

芝町の分限者である井上葡萄屋治兵衛が久留美の慈眼寺に、亡父の供養のため高さ八尺の五輪塔を

建立しています。寛永十年(1663年)には亡母の供養のため同じ高さの五輪塔を建立しています。

 

      

 

1646年 正保三年 井上清春歿

 福田貞斉の祖父与治右衛門清春が亡くなっています。母方の井上姓を名乗り妻は三木惣年寄の十河氏の

出であり娘は井上佐治兵衛の妻になっている。

 

1661年 寛文元年 福田貞斉生まれる

 福田貞斉が生まれる。貞斉は9歳で父を失った、母ツルは二男一女を抱えよく養育し農事に専念し家族を

養った。二十歳過ぎ貞斉は家政を弟にゆだね、京都に遊学し儒者三宅観瀾(大日本史編纂に当る)に学んでいる。

半年学び半年帰郷して近隣の子弟に人倫を説き書を教えたりしたりしたというから,三木での寺子屋の

始まりである。

上五ケ町の氏神岩壺神社の境内に残る「芝町中」より寄進した石製手水鉢には貞亨元年(1684年)と

刻まれており、貞斉二十四歳の頃であるから、これの寄進にも与って力があったと思う。

 三十歳にして貞斉は山田村の墜栗花(つゆ)氏より嫁を迎え二女をあげている。邸内に花木を植え

梅遅庵を作り師の観瀾をはじめ佐藤一斉・三輪執斉・小野菊斉らの文人を迎えている。

五十一歳で本要寺で義民の碑の文を草している。

 

1669年 寛文九年 福田善秋歿

 福田貞斉の父与六郎善秋が亡くなっている。妻は大西氏の出で娘のおさんは別府の滝家へ嫁入って

有名俳人瓢水を生んだ。

 

1677年 延宝五年 延宝の義民

延宝五年頃より幕府の検地令により天領でいっせいに行われたので、三木も免れず二・三年にわたって

検地が行われた。三木の町人達は代々地子免許の事を申し出たのであるが、課税基準高まで決定されると

いう事で大いに驚き、翌延宝六年に三木町惣代として平田町大庄屋岡村源兵衛と平山町大年寄

大西与左三右衛門の二人が江戸に下った。

幕府の勘定奉行所の役人と交渉してたびたび訴訟をした所、昔からの慣例を調査し

秀吉の制札や旧領主の折紙証文を見た上、播州巡検奉行に三木の古来の様子を問い合わせた。

そのうえいろいろ審議をした結果、酒井雅楽頭以下老中・若年寄・寺社奉行・目付・町奉行まで

立会いの審議となり、同年の暮れに免許申請をもらう事が出来た。

三木の人々は喜び二人を延宝の義民として後世まで顕彰しています。

 

1684年 貞亨元年 上五ケ町が岩壺神社の氏子になる

美嚢郡志にはこの頃に長屋村の産土神社だった岩壺神社に三木上地区の大塚町・芝町・平山町・東条町・

滑原町が氏子となったと書かれています。その時の記念だろう芝町の人が岩壺神社に手水鉢を

寄進しているがそれが今も残っている。

 しかし室町時代にはどこの地区も産土神社を持つべしとの御触れが出て、芝町など上五ケ町が

岩壺神社の氏子になったのは室町時代だという人もいます。

また大塚町は他の四ケ町よりも氏子になるのが遅かったという事も聞きました。

 

         

 

1680年代中頃 福田貞斉が寺子屋を始める

 福田貞斉は二十歳から京都に三宅観瀾という高名な儒学者に半年学び半年帰郷するという

暮らしをしていたが、帰郷すると近くの子弟を集め教育にあたった。

これは三木町での寺子屋の始まりであると云われている。

 

1707年 宝永四年 延宝の義民碑が建てられる

 この年に三木の領主に常陸下館藩黒田豊前守になり代官が三木を治めるための陣屋が建てられた。

そして藩主は三木町に地子の課税を命じ町人代表二人に江戸へ出頭するように要求してきた。

三木の人は延宝の課税の事を思い出団結する意味もあったのだろう、

福田貞斉が撰文した義民碑が本要寺に建てられた。

 

       

 

1708年 宝永五年 宝永の訴訟

 この前年に常陸下館藩は三木町に地子の課税を命じ町人代表二人に江戸へ出頭するように要求してきた。

一旦拒否したがそれもかなわず、加佐町大庄屋惣右衛門と平山町大年寄勘右衛門と大塚町庄屋太郎太夫の

三人が、「三木町地子免許願書」をたずさえ黒田候の江戸屋敷へ下る事になった。

この時の交渉は困難をきわめた。延宝の免許状も認めず秀吉の制札も効果なく地子の役銀を承知せよと

言い渡された。結局宝永五年から三年間役銀を納め、その上で正徳元年(1711年)に再び三木町の

町役銀免除を願い出たのである。その際条件として人足役を勤める事で町役銀が免除された。

その人足役も5年後に運動の甲斐があって免除される事になった。

この時芝町の組頭八人が「訴訟費用分担請書」を出して路銀の分担金はいくらでも出すと

決意表明をしている。

平介・利兵衛・与一兵衛・吉太夫・九郎兵衛・長右衛門・徳右衛門・次兵衛の八人で五人組を束ねていた。

 

1715年 正徳五年 柴町の大工藤原峰治

 この年の九月に有馬郡西末村の天満神社の神輿を氏子が再興している。その棟札に

「播州三木柴町大工藤原清右衛門峰治」とある事が有馬郡志に紹介されている。延亨元年の

「播州三木町諸色明細帳」では大工百四十軒とあるが三木町内ではそれだけ働ける仕事があるはずがない。

「他国へまかりいで稼ぎ申し候」となっている。渡り職人となって出稼ぎに行ったものと思われる。

その一人が柴(芝)町の大工藤原清右衛門であった。

 

1717年 亨保二年 福田貞斉歿

 福田貞斉が弟安義の長子忠四郎を養子にして家を継がせた二ケ月後に五十七歳で亡くなっている。

墓誌の撰文を師の三宅観瀾に頼んでいる。その大きな墓は少し崩れていますが今も残っています。

 

1742年 寛保二年 三木町諸色明細帳

この年の三木町諸色明細帳が残っています。人口や職種などを調べたもので大工百四十軒が一番多く、

樽屋が四十八軒と続き木挽二十八軒も他所稼ぎで普段は三木に居なかったようだ。

紺屋が二十六軒あり形屋が十六軒も紺屋の染め形を作っていたので染め屋関係は多かった。

 鍛冶屋は十二軒で野鍛冶が八軒・鏟鍛冶が一軒あった。

この頃より出職の木挽きや大工から居職の鍛冶屋や染め形彫り職人が増えていったようだ。

 福田忠四郎が上五ケ町の大年寄になっている。大年寄は天領の時は惣年寄と称し、

各町にほぼ一名づついる年寄とその補佐役の町惣代の上の存在である。

これら役人は金銀出入公事や訴訟、家屋敷の売買の承認、人の出入りにともなう手形の発行などや、

その他に法度や触書など領主の命令の伝達に当たっていた。

 

1752年 宝暦二年 三木町絵図

この年の三木町の絵図が残っていて何処に誰が住んでいたか分かります。芝町の年寄りは甚太夫で

芝町屋敷地は3995坪だった。

 

1754年 宝暦四年 八雲神社の笠句

福田貞斎の姉か妹のおさんが別府の滝家へ嫁に行き俳人瓢水を生んだ。滝家は千石船を七艘持つ叶屋と

いう船問屋でその家の子として貞亨元年に生まれた。7歳の時父が死亡その後貞斎が預かり学問を教授した。

その時俳諧も知り世に認められた。

俳諧の名手と聞こえ御所に召された時の句「消炭も柚味噌につきて膳の上」。

 大坂の俳人仲間が妓楼に通いだし、気の進まぬ太夫を大金を積んで身請けしようとした時、瓢水が

たしなめた句が有名な「手にとるなはやり野に置けれんげ草」。

久留美の八雲神社に滝瓢水の撰した「笠句」の額があるそうです。当時の俳人が投句した一千句の中から

百句を撰び額に上げられています。その中に芝町の松月という俳人が入っています。

この額が出来たのは宝暦四年で、その二年前の宝暦二年の芝町絵図があり住民の名前は分かるのですが、

松月という俳号では誰か分かりません。

 

1765年 明和二年 作屋清右衛門創業

 現在も営業している黒田清右衛門商店が上町で作屋清右衛門を称して金物道具屋を開業した。

作屋黒田家は古くから苗字を許された旧家らしい、もと黒田屋を称していたが、三木町が宝永四年

黒田豊前守直邦の領地になるにあたって改称を命ぜられ作屋を称したらしい。

鍛冶屋も問屋も増えてゆき三木金物が発展してゆく。

 

1770年 明和七年 三木川通船

      

 

1602年(慶長七年)に芝町へ来た大西貝屋惣右衛門の子孫である貝屋清七が四・五石積み通船

三十隻で三木川通船を始めている。ところが開業したものの荷物が集まらず実質二・三隻しか稼動しない

状態で冥加金の支払いにさえこと欠き通船業は失敗した。清七は明和九年失意のうちに亡くなっている。

 

1773年 安永二年 福田与六郎が三木川通船を受け継ぐ

 上五ケ町惣年取芝町の福田代蔵(与六郎)と下五ケ町惣年寄銭屋与七郎の二人が、貝屋清七の始めた

三木川通船を受け継ぎ三隻から始めた。近隣の地区とたびたび紛争が起こっていますが、寛政六年には

船数が六隻となり五石船から二十石積船と大型化している。文化年間には八隻と船が増加続けています。

 三木町が大工道具を中心とした金物などの商工業の発展により三木川通船も発展していった。

 福田代蔵(与六郎)はこの頃以降20年以上上五ヶ町の惣年寄を務めています。

 

1804年 文化元年 三木町絵図

文化年間の三木町の絵図が残っていて戸数は45軒で芝町の住人の名前が分かります。

         

 

1808年 文化五年 花房源十郎

 中町下の美嚢川の川原で芝町の花房源十郎が座元として芝居の興行を行っている。芝居のいうのは

人形操り芝居で大塚にいた傀儡師が演じたのだろう。立会保証人は大塚芝町連帯年寄新兵衛となっている。

しかし文化元年の三木町芝町絵図には花房源十郎の名前はありません。その後芝町へ来たのだろう。

 

1814年 文化十一年 小浜屋忠蔵

 この頃三木町では上町佐野屋庄助・明石町こもいけ屋冬蔵・新町中屋吉兵衛・下町泉屋長兵衛・

芝町小浜屋忠蔵の五軒が長機にて木綿縞織を行っていた。機屋の労働力は女の子を使っていた。

その女の子が風紀上問題を起こす事が多くなり、この年に機屋指留令が出た。

 五軒の機屋は1815年から3回のわたって指留解除の申請を行った。

今後は作法を守らせ不埒な勤方はさせない、冥加金を差し上げたいの二点を条件に

再許可を願ったところ機屋が再開できた様です。

 

1818年 文化十五年 せんべいや甚左衛門

 文政時代藍染の紺屋の使う形紙を売る形紙商人のせんべいや甚左衛門が芝町にいました。文化元年の

芝町絵図にも載っています。寛保二年(1742年)の三木町諸色明細帳に紺屋二十六軒と形屋十六軒

載っていて藍染めと形屋は三木の大きな産業だったようです。

その後文化十五年には形屋は十八軒に増え諸国へ形紙を売っていて有名な形紙産地の伊勢形紙の商圏を

脅かすほどになっていた。そのため文政時代に伊勢形紙仲間から三木の形屋五郎太夫・せんべいや甚左衛門・

三星屋藤兵衛・丸山屋甚太夫・徳屋平兵衛・加茂屋忠右衛門・柏屋伊右衛門の七名が紀州藩へ

商売難渋の訴えを起こされている。

その中の一人がせんべいや甚左衛門です。場所は三宅さんの辺りです。

 宮津市の朝田家所蔵の形紙の中に播州三木煎甚の形紙が残っています。

      

    ギャラリー湯の山に展示してあったせんべいや甚左衛門の作った形紙で染めた染物です

1820年 文政三年 北屋藤右衛門

文化文政の頃今の稲見酒造さんの長屋道に面した角地の所に北屋藤右衛門が住んでいて、5月に家を

新築するにあたって芝町の年寄りに道との境界を聞きました。年取りは御検地水帳を見て縄を引き杭を

打って境界を指示したそうです。ところがその縄張りどうりに作らず家が長屋道へはみ出していた。

 9月の岩壷神社の祭礼の時藤右衛門の家が長屋道へ出張ったため、長屋村・東条町・滑原町の荷ひ太鼓が

通らず口論となった。その時は横棒を抜いて通ったそうです。

 結局藤右衛門は出張った部分は取り払いました。

 

1844年 天保十五年 御冥加銀上納割賦内取調帳

 ある程度稼ぎのある商人や職人に対して領主の明石藩から冥加銀上納の要求が来ました。

その時上納した三木町10ケ町の名簿が三木宝蔵文書に載っていました。

 芝町は麹屋利右衛門・谷屋藤兵衛・中村屋熊吉・鳥村{鳥羽}屋喜兵衛・貝屋与三右衛門・

小浜屋庄次狼・灘屋伊左衛門・北条屋太兵衛・粟生屋源七・高津屋治兵衛の十人が載っています。

高津屋治兵衛は大正時代の醤油屋高津さんの先祖だろうか。

 

1849年 嘉永二年 鳥羽屋喜兵衛

 旧播磨国の浄土宗のお寺十寺が輪番で宗祖法然上人の忌日法要の御忌を行っています。その時に

掛けられる圓光大師行状画圖がこの年に作られています。

この掛け軸を作る発起人の一人が芝町の鳥羽屋喜兵衛です。寄附帳には五十人以上の名前があり

三木町の鍛冶屋や商人が寄附をしています。

 芝町から他に谷屋藤兵衛と瓦屋岩右衛門と糀屋利右衛門と糀屋源兵衛が載っています。

         

      

1852年 嘉永五年 瓦屋岩右衛門

 この年に本要寺の宝蔵を改築した時の棟札に芝町瓦屋岩右衛門の名があった。大塚町には古くから

瓦師の清川長右衛門・弥三右衛門がいた。松村義臣先生は岩右衛門は弥三右衛門の子であろうと

書いておられる。弥三右衛門は1694年(元禄七年)そして1752年(宝暦二年)の銘の瓦を

残しているからその後芝町へ移って来たと思われる。

 しかし石田安夫氏は弥三右衛門と岩右衛門の活動時期に九十年の空白があるので、

岩右衛門は清川長右衛門の弟子だろうと書いています。それを裏付ける史料が出てきました。

 天保十五年(1844年)御冥加銀納割賦内取調帳の大塚町に瓦屋長右衛門と一緒に

岩右衛門が載っています。その頃は大塚町に住んでいて、それから圓光大師画圖の作られた

嘉永二年(1849年)の間に芝町へ転居して来たのだろう。

 岩右衛門銘としては1852年(嘉永五年)の他に、御坂神社に1860年(安政七年)の鬼瓦に

三木芝町瓦屋岩右衛門の銘が残っています。他には1826年(文政九年)に建てられて、

国登録有形文化財に指定されている玉置家住宅にも岩右衛門の瓦が使われています。

現在城戸酒店の屋敷裏に窯場があったといわれています。

その岩右衛門は弘化年間には芝町で瓦の他に鍋や徳利やゆきひらなどの日常品も作っていたらしい。

 

1854年 嘉永七年 異国船渡来に付警衛冥加銀割方帳

 この年にまた異国船渡来を名目に明石藩から冥加銀の要求が来て、三木町10ケ町が上納しています。

芝町は灘屋伊左恵門・貝屋与三右恵門・谷屋藤兵衛・鳥羽屋喜兵衛・小浜屋庄次良・中村屋熊蔵・

瓦屋岩右衛門・糀屋利右衛門・姫路屋利兵衛の九人が割方帳に載っています。

芝町には大商人や稼ぎの多い鍛冶屋は居なかった様です。

 

1857年 安政四年 正金銀取扱調帳

 この年の正金銀取扱諸商人名前調帳という、三木町で直接他地域の人と金銀を取引をしていた

商人の名簿があります。三木町で八十軒の名前が載っていますが芝町は諸品入交商人の項目で

谷屋籐兵衛と鳥羽屋喜兵衛だけで、芝町には他地域と直接取引をしている商人はあまりいなかった様だ。

同じこの年の安政四年の桝改員数控帳の芝町の項目に善や藤兵衛・北や藤右衛門・ふく田や代蔵・

小はたや正次郎・同惣兵衛・丁字や藤兵衛・戸平・旅や源兵衛・小原や太兵衛の9人の名前が載っています。

商売に使う桝の種類と数を調べたものだろう、これも冥加金の対象だろうか。

 

1859年 安政六年 福田池築造

    

              現在の福田池                      池畔に建つ顕彰碑

 この頃上五ケ町の大年寄だった平山町の福田屋八郎兵衛が福田池通称大蛇池を築造している。他に

長屋村三郎佐衛門・平山町弥兵衛・平山町小市郎が協力しています。

これにより大塚町の高台にも水が行き耕地が増えたものと思われます。

惣名上畑という地区では十三町六反の田圃が出来て開いた人の中に芝町の灘屋伊八と

鳥羽屋喜兵衛の名前があります。ここは大塚町から長屋村の間の上畑という字の事だろう。

 

幕末から明治 心光寺に寺子屋

 この頃心光寺に寺子屋がありました。教えていたのは住職の大河内還譽という人です。

美嚢郡では寺子屋は江戸時代の後期には各集落に一つづつあり二十人から多い所では百人の子供が

通っていました。明治以前二十九年から五十年前から出来ている寺子屋が多いところから、

心光寺の寺子屋もその頃から開いてのだろう。

 コタニマサオさんによるとこの寺小屋の名前は不断塾だった。

 

1873年 明治五年 鍛冶屋米蔵

 (株)ミヤケの建物が明治五年に鍛冶屋米蔵によって建てられた。芝町の建物で分かっている中で

一番古く大きいものだ。建てた時から瓦葺きだったと思われますが、当時鍛冶屋がこれだけ大きい家を

建てたとは、幕末の鍛冶屋の名前で米蔵を探しましたが分かりませんでした。

 三木宝蔵文庫の中の嘉永六年「苧柄御用ニ付控」に鍛冶屋米蔵の名前がありました。名前の

書いてある順番からみるとこの頃すでに芝町に住んでいたと思われます。

 

1874年 明治六年 大河内還与

 各地区にあった寺子屋を統合して小学校が出来て三木の府内地区では不断校が出来た。

 江戸時代終わりから明治の初め頃には三木の各町に一ヶ所寺子屋があった。

芝町は心光寺にあり住職の大河内還誉が近くの子供達を二十五人ほど集めて寺子屋を開いていた。

明治六年頃三木では九つの寺子屋が六校の小学校に統合され、その後不断・清泉・三樹の三校に

統一された。その頃の教師は八名で三校巡回という形で教育を行っていた。

大河内還誉は明治六年に大塚町・芝町・平山町・東条町・長屋村の子を集めて不断校になった時も、

児童取り締り兼教授として教師になっています。その後三木の小学校として明治九年に

三樹小学校が出来た時も、八等準訓導として教師になり明治十五年まで勤めています。

 

1877年 明治九年 三樹小学校建設委員芝町戸長

 三樹小学校が出来る。三樹小学校百年史にこの時の建設委員に三木十ケ町と長屋村の十一名の

戸長の名前が載っています。芝町の戸長は魚住庄右衛門かなと思ったが違う様です。

 藤田清三郎かもしれない。

 

1889年 明治二十二年 稲見酒造創業 初代三木町長黒田仁佐衛門

稲見酒造が芝町で酒造を始める。稲見家はもともと口吉川村大島の庄屋だったといわれる。

江戸時代の中頃稲見康積はすぐ南の細川荘の、藤原惺窩の影響を受け漢詩を作り「家世農」

「傍醸酒」を詠んだ。家は代々農業を営みそのかたわら酒を醸造したという、醤油なども作っていたようだ。

江戸時代の終わり頃庄屋の稲見正八は自宅で、口吉川村大島の子供達を集め寺子屋を開き

教師もしていた。明治になってこの年に芝町へ出てきたといわれる。

庄屋の稲見庄八は地元大島の西谷川沿いの開墾と河川の改修を首唱し、

嘉永元年の冬より翌年二月に至る数ヶ月間千人余工を費やし良田壱町歩余と平坦路を得た。

この稲見庄八が稲見酒造の家の先に繋がる人かどうか分かりません。

この年に町村制による三木町になり選挙により黒田仁佐衛門が初代三木町長になっています。

そして芝町の竹川松蔵が初めてのの三木町会議員になっていて四十年九月亡くなるまで務めています。

 

1904年 明治三十七年 日露戦争時兵隊騒動

 日露戦争が始まり姫路の連隊の兵隊が出征し、大陸への船に乗るため舞鶴へ行く時、三木の町で泊まった事

があった。三木の各家庭で泊まったのだが、芝町で泊まった兵隊が酔っ払って一緒の兵隊を道路で斬ってしまった。

その後芝町から大手町・滑原町と逃げながら次々に人を斬って、最後には捕まったという芝町での

大きな事件がありました。当時平山町に住んでいた片島三治さんが書いています。

 

1907年 明治四十年 芝町青年手水鉢寄附

 この年に芝町の青年十七名が岩壺神社に正遷宮際献焉と書かれた手水鉢を寄付している。

しかし美嚢郡志には岩壺神社に明治四十年に正遷宮があったとは書かれていない。

美嚢郡志が書かれたのは大正十五年です、二十年前の事だから知っている人がいたと思いますが。

     

明治の中頃から昭和の初め頃 宮相撲

           御酒神社の相撲額

明治の中頃から大正の終わりにかけて各神社の祭礼には近隣の素人相撲取りの宮相撲が行われていた。

宮相撲は略してミヤズと呼ばれていて、ミヤズの力士は地方巡業の玄人と前相撲を取るほど強かった。

芝町には春日山と小松崎という相撲取りがいて、春日山はかなり強かった様だ。

私の曽祖父山本石松は行司名木村仙司といい、宮相撲の行司として祭りの日に神社をまわっていました。

石野の御酒神社の明治三十二年十二月三十日の相撲額に行司木村仙司と相撲取りに春日山の名前があります。

 

1916年 大正五年 芝町公会堂新築

 芝町公民館から御大典記念公曾堂寄附人名簿字芝町と書かれた古い綴りが出てきました。

人名簿には明治から大正の時の人の名が出ています。六十六人の名前があるので芝町の戸数も

同じ位だろうと思われます。古い芝町公会堂は大正五年に建てられています。

 落成式は五月六日に行われ芝町区長稲見嘉吉が建築請負者に出した表彰状があります。

久留美村平井今井佐吉宛てですが人格を表彰するという文章です。

        

           芝町公会堂寄附帳         公会堂を建てた棟梁への表彰状    

 この時コタニマサオさんの書いた「わが町今昔」に、明治の終り頃に芝町に屋台があったが

竹川さんの家へ飛び込み家も屋台も壊れました。その時稲見嘉吉さんが屋台よりも公会堂を作ろう

提案して公会堂が出来たそうです。

しかし芝町に屋台があったという話は他では聞いた事はありません。

 

1917年 大正六年 三木町長稲見嘉吉

 稲見酒造の当主稲見嘉吉が三木町長に就任し二期八年にわたり町長を務める。その四年前

大正二年まで明治四十三年から三年間三木町会議員を務めています。

嘉吉さんは十五・六歳の頃三木の平田にあった渓林小学校の助教という教師をしていたそうです、

その後稲見酒造に養子に来ました。その頃の祭りの時平田の屋台が稲見酒造の

前まで舁いて来たそうです。

 

1923年 大正十二年 関東大震災起こる

 関東大震災が起こる。三木の金物産業は大正時代発展していましたが、震災の復興需要により空前の

好景気になり鍛冶屋も増えています。三木の刃物の生産額は大正元年から十三・十四年頃では三倍位に

なっていて、鉋鍛冶は大正元年から昭和三年になると約四倍になっています。

大正の終わり頃の芝町の鉋鍛冶は山本・横山・片嶋・荒田の四軒で、

蓬莱(房治)さんが何時芝町へ来たか分かりません。

 

1929年 昭和四年 稲見酒造本宅新築

 湯の山街道沿いの町並みのなかでもひときわ目立つ豪壮な建物である稲見酒造本宅は、

この年に事務所兼住宅として建てられた。棟上げだけで三日かかり棟が上った後棟梁は、

二位谷川を越えた南の高台から大屋根が水平がどうか確認したそうです。

そして瓦は一枚一枚紙に包んで運ばれて来たという。これだけの家ですからいろんな逸話が残っています。

軒には杉玉がかかり玄関には暖簾と葵鶴の酒樽、伝統ある造り酒屋の雰囲気がすばらしい。

 

1932年 昭和七年 二位谷川大水害

      

七月二日に前日より降り続いた大雨により、芝町の南を流れる二位谷川の上流の

二位谷池通称中池が堤が切れ、水は下流の福田池通称大蛇池に流れ込みここの堤も決壊してしまった。

そのため二位谷川が氾濫して芝町や平山町が水に浸かり、特に下流の下滑原が

大きな被害を受けた。芝町も死者二名重傷者一名軽症者三名に、家屋流出や床上浸水

などの大きな被害を受けた。滑原町の被害が一番大きく三木町全体で死者三十三名、

流出倒壊家屋五十九戸の被害があり慰霊碑は上の丸公園に建っています。

 下滑原にあった不断山善導寺もその門前にあった不断楼も流されてしまった。

の後不断楼は平山町で再建された。

 

1934年 昭和九年 洗濯場新設

 昭和七年の二位谷川の大水害によりな流されてしまった洗濯場を作るための寄附帳がありました。

芝町だけではなく大塚町など他町からの寄附もある様です。二位谷川には芝町だけでなく下流には

県道の橋の下に平山町の作った洗濯場があり、その下流には下滑原町の作った洗濯場がありました。

芝町の洗濯場の所にあった大手町へ上る橋は秋葉橋といわれていたそうです。

これは秋葉三尺坊大権現の祀られている正入寺へ行く橋からきているのだろう。

       

 

1938年 昭和十三年 神戸電鉄開業

          終点だった頃の福有橋駅

有橋近くに神戸電鉄三木駅が出来た後、昭和十三年1月28日から神戸電鉄が営業運転を始めた。

これにより三木から神戸へ行くのに大変便利になり、他に沿線各地も発展していった。

 終戦後小野の人達が神戸電鉄の延長の運動を起した結果、昭和二十五年に工事が始まり一年後の

昭和二十六年小野まで開通し二十七年4月には粟生まで開通し粟生線が全線が開通しました。

 

1943年 昭和十八年 戦闘機献納

        献納した戦闘機報国号は三木まで飛来して来たという

この年に三木町が政府に戦闘機を献納していてその時の三木の各町の寄付帳が三木図書館にありました。

陸海軍に計五機献納していて他に個人で一機献納している人がいる。

戦争前から中国大陸へ金物を輸出していた堀田商店の堀田光雄さんです。

芝町の名簿を見ると各戸重複者を除くと八十四軒だから、この頃の芝町の戸数は八十四軒位だろう。

 

1946年 昭和二十一年 芝町屋台運行始まる

 この年に魚住徳松さんから屋台の寄贈を受け芝町屋台が岩壺神社奉納の運行が始まりました。

しかし屋台を収める所がなく魚住さんの仕事場の二階に普段は置いていたそうです。

屋台を組み立てるのも福田さんの蔵の横の道路が広い所でしていた様です。

          

                       旧芝町屋台の宮入り

 

1952年 昭和二十七年 太鼓倉新築

 屋台の寄贈を受け太鼓倉を作る話がまとまりました。公民館の物置からこの年の七月八日の日付の

太鼓倉の見積書が出てきました。建坪が三坪で見積もり金額は五萬圓也中西という大工さんです。

以前公会堂の裏の県道沿いにあった小さな太鼓倉です。

完成したのは昭和二十七年か二十八年だろう。

するとこの少し前に大手町の地蔵さんから芝町を通って吉川へ行く県道が出来たのだろう。

          

 

1954年 昭和二十九年 三木市が誕生

 美嚢郡三木町は美嚢郡志染村・別所村・細川村・口吉川村と合併して三木市となりました。

八月には市長選挙が行われて小林利八氏が当選して初代三木市長になりました。

 

1957年 昭和三十二年 三木小学校開校

 今まで芝町の児童が通っていた三樹小学校の生徒が増えて手狭になったため、上五ケ町辺りを校区とする

三木小学校が開校した。敷地は工場の跡地だったので運動場も荒れていて、生徒は朝礼の後運動場に石拾い

をしていた。

 

1994年 平成六年 芝町屋台新造

 芝町にも新しい屋台をという気運が高まり、平成三年に芝町屋台奉賛会が出来三十九人の賛同者で

活動を始めました。その結果平成五年に明石市西八木町の古い屋台を譲り受ける話がまとまりました。

それから町内で寄附を募り彫刻などの彫り物は残し、水引きは修理し高欄掛け・提灯は新調し

新しい芝町屋台が出来ました。そして平成六年九月二十五日に新屋台のお披露目入魂式が行われました。

 

2000年 平成十二年 芝町公民館・屋台蔵新築

 大正六年に作られて九十六年が経ち、古くなっていた公会堂が新しく公民館にそして

屋台蔵が新築された。八月六日に加古三木市長・鷲尾県会議員に周辺各町区長の出席の下、

そして町内の人が集まり竣工式が行われました。その後真夏の芝町を芝町屋台が練り歩き、

公民館と屋台蔵の新築を町民みんなでお祝いをしました。

                  竣工式                 式の後屋台でお祝い

 

  2011年 平成二十三年 兵庫県景観形成重要建造物

 県は平成十七年から優れた景観の保全・創出に寄与する建物を同建造物に指定し維持管理を図っています。

稲見酒造本宅と三宅徳松商店の主屋と離れが、兵庫県景観形成重要建造物に三木市で初めて指定されました。

二軒とも湯の山街道の象徴というべき建物で、これが芝町にあるのが喜ばしい事です。

 

       三宅家の主屋と離れ                 稲見酒造本宅