鍛冶屋のつれづれ書きへ

           日露戦争異聞

 
 昭和の初め頃上の丸の稲荷神社の神主だった、広瀬儀一さんが発行していた「郷土断片」に載っていた芝町で起こった事件の記事です。

話をしている片島三治さんは平山町の人で、祖父は江戸時代から平山町で片市という料理屋をしていました。文章は昔のそのままです。

 

「今こそ映画館が出来たり家が建ちならんでいるが、わたいの子供の時分の宮の下はえらい泥田やった」と片島三治さんは昔話をはじめた。

「わたいが検査の年(明治十七年生まれ)に世界の強国と言われていた大きな露国といくさをするのやといってえらい騒ぎやった。そのとき

どうした訳があったのか、姫路の兵隊が戦地え行くのに三木で泊まり吉川を通って三田え出て、それから舞鶴から船に乗ったことがある。

 この戦にはどうしてもという気構えがしみこんでいたから、三木の町でも兵隊があちらの家に一人こちらに二人と分宿したとき、全部の

家から一軒まえに酒を二合出して歓待した。踊りの師匠をしていたわたいの母親の弟子の家にも兵隊が泊まることになり、娘の踊りを見て

貰うのやといって、わたいの母親を呼びにきた。そのころわたいの家は平山にあったが母親は身支度をするとすぐに出かけて行った。

 何んせ二合づつの酒でも一人で随分当るようになっていたし、それに飲めん兵隊もあるし、上戸の兵隊はほくほくやった。その晩芝町に

泊まっていた兵隊がえらい酒に酔って、今芝町の公会堂になっている前あたりに床秀というさんぱつやのかど先で一緒にきた兵隊を斬りよった。

 斬りよった兵隊はそれから上手え行き、大塚へ上がる坂の下の城戸というあげ酒屋の前にあった飲み屋え入り、いかなり仲居の髷をつかんで

短刀を振りあげたところ、仲居が大きな声で「人殺し」と叫び「助けて」と悲鳴をあげた。兵隊はその声におどろき飲み屋の裏口から二位谷川の

方え出て行ってしまった。今とちがってあの辺りはやたけたなところやったが、川にそった細い道を北井さんの裏側まで出て、そこからは今は

県道の大きな道になっているところに四ツ辻の地蔵さんがあった。

 その地蔵さんの前に井戸があって、その井戸で藤原あさぞうさんという大きな百姓が持っていた十軒長屋“というしこ名の長屋に住んでいた

”おっみちゃん焼“(今のたこ焼のようなもの)のお爺さんが米を洗っていたら、何も言わんと後から斬りよった。

 それから又下え下って坪井のところからカネ百の八百屋え出るところに板橋がかかっていたが、向こうから何も知らずに歩いてきよった嫁はんを

出会いがしらに斬りよった。そおこおしているうちに町の方でもわっさわっさと言っていたので兵隊は町の方え出ることも出来ず、引きかえして

坪井のたんぼにかくれていた。なんでも麦の穂が出揃っていたころでかくれるのにはほん都合のよい時分やった。

私の母は仲居さんが悲鳴をあげた下隣の家え行っていたので気にかかり迎えに行ってうまい具合に見たんやが。ようけの兵隊が上等兵を先登に

探しにきて、かくれているところを見つけだした。そしたら上等兵が「うちとれ」というて着剣していた鉄砲を向けてとりまいてしまった。すると

かくれていた兵隊は「何お」といって短刀をもって立ちあがりよった。何せ多ぜいの兵隊にとり囲まれたのですぐ捕らえられてしまったが、捕らえに

きた兵隊は折角内地での最後の晩をたのしんでいたのに無茶もんのために興ざめになったというて、捕らえられた兵隊が歩いている後から尻こぶたを

鉄砲につけた剣でつきまくっていた。

翌る日兵隊は東条町から吉川の方えラッパを先登に隊伍を組んで出発した。そのとき前の晩人を斬りよった兵隊は着剣した兵隊にとりかこまれた

人力車にのせられ、尻こぶたが痛いのかけつを半分浮かせていたが、町のもんは「昨日の晩人を斬りよった兵隊はあいつや」というて、えらい人垣を

つくって見たもんや。片島さんはここで一幅いれ稲荷さんの宮角力の話に移り昔話しは何時までもつづくのである。