鍛冶屋のつれづれ書き 

        三木の鋸の歴史

                                            山本芳博
 1、三木の鋸伝説の時代

三木でいつ頃から鋸が作られたのか古い事は分かっていません。別所則治が明応元年(1492年)に三木の
上の丸に釜山城を築いた後、城下に木工職人を集めたといわれる。別所氏と秀吉の三木合戦により三木の多くの寺
院も焼かれ、釜山城も廃棄され古文書がなくなり別所時代の事はほとんど分かっていません。
 分かっているのは天文四年(1535年)から大和西京住人瓦大工橘朝臣国次が三木住人になり、その後三木住人
として播磨一円のお寺の瓦を作っている。その頃三木には大工が多く住んでいて、仕事のつながりを考えて三木に
住んだのだろうといわれる。他には別所長治の時代姫路野里の鋳物師助四郎が別所氏の家臣的立場で鋳物師の
仕事をしていた。
 三木は戦国大名の城下町ですから刀や武具を作る鍛冶屋や、大工の為の道具を作る鍛冶屋やいろんな職人や商人
が居たと思われますが、鋸鍛冶が居たかどうかは古文書がなく分かりません。
 三木の鋸を創めた人として吉田屋利兵衛が伝えられています。「天正年間三木城攻撃当時三木町住民は戦渦を蒙
りて、四方に散りましたがその内に吉田屋利兵衛という人あり。此の人は山城国伏見町へ避難したのであります。
利兵衛以為我が故郷は山間なれば木炭豊かにして鍛冶の業を起こすに最も適当である、我若し機を得ば帰国して
斯業に従事し其の隆盛を圖らん」と、即ち伏見の鋸鍛冶に師事して其の業を習得したということです。
 戦後三木町が復興するに當り利兵衛も亦帰国して、三木町下町に職場を開き鋸の製造を開始致しましたが、是が
播州鋸製造の濫觴とあります。」             (鋸製造組合の記録、鋸鍛冶の沿革)
 一説には元祖利兵衛は元野鍛冶で元文二年(1737年)頃から鋸の製造を始めたとある。こちらが本当だと
思います。寛政四年の鋸鍛冶名簿の筆頭に載っていて子孫は幕末まで続いています。寛保二年(1742年)
の三木町諸式明細帳に野鍛冶が八軒載っています。その六年後の寛延元年(1748年)三木町の野鍛冶仲間は
下町伊兵衛・中町半右衛門・滑原町七右衛門・東条町太郎兵衛・東条町与右衛門・同与次兵衛・同長左衛門・
大塚町善兵衛です。その内の下町伊兵衛が吉田屋利兵衛ではないかと思います。
この頃から三木に鍛冶株を持っている鍛冶屋の他に、釘鍛冶や鑢鍛冶などの鍛冶屋が増えていった様です。

2、三木の鋸の黎明期

 三木金物誌などの古い三木金物の歴史書には、寛保二年(1742年)の三木町諸式明細帳の鍛冶屋三軒が前挽鍛冶

だと載っています。これは明細帳に載っている鍛冶屋は十二軒です。八軒が野鍛冶で一軒が鏟鍛冶と分かっていますが

三軒が何鍛冶か分からなかった。それで前挽鍛冶三軒が古くからあると分かっていたので、明細帳の三軒が前挽鍛冶

だろうとなったのだろう。
 しかし黒田清右衛門商店の古文書を本にした「三木金物問屋資料」に、道具屋善七の二代目が父の金物問屋開業
の経緯を書いた「父祖行状記」が載っています。そこに下町山田屋伊右衛門の前挽き鍛冶開業の経緯が載っていて、
三木前挽き鍛冶の始まりは宝暦の頃と判りました
 宝暦十年(1760年)の江戸大火で大量の材木が必要になり前挽鋸の需要が伸びて飛ぶように売れた。これを
知った下町の山田屋伊右衛門は前挽鋸鍛冶の開業願いを、役所へ出していたが認められなかった。これは京都前挽
鍛冶仲間の鍛冶株が手に入らなかったためだろう。しかし宝暦十三年頃には前挽屋五郎衛門と大坂屋権右衛門と
共に京都前挽鍛冶仲間に入り三木町で三軒の前挽鍛冶を創業した。
 
 この頃出雲のたたら場では鉄の生産に革命的な事が起きている。元禄年間に天秤鞴が作られ、送風量の拡大に
より大きな鉧が作られる様になった。鉧の生産量も多くなった。そして宝暦年間(1750年代)の大銅が発明され
て鉧の小割がしやすくなった。
 たたら場に付随した大鍛冶場では銑や鉄と鋼が混じった歩鉧を使って鉄を作られ、これは庖丁鉄と呼ばれた。
この頃出雲のたたら場での銑・鋼・庖丁鉄の生産が飛躍的に多くなった。これらの鉄が大坂の鉄問屋にを通じて
各地に流通した。それが大坂の鉄問屋を通して三木へも鉄材料が流通していた。
 三木の鍛冶屋が大坂の鉄問屋から預かった鉄材料で道具を作り、それを鉄問屋が大坂で売り三木の鍛冶屋がその
差額を受け取る。鉄為替というそうですが、これが三木で鍛冶屋が多くなった一つの理由かもしれない。
 もしくは大坂で鉄や玉鋼の材料を仕入れそれを三木の鍛冶屋へ持ち込み、作った道具を大坂で販売する仲買人が
いた。これらの理由で三木に鋸鍛冶が増えていったのだろう。しかし一時期に鋸鍛冶が増えています、鋸を作る
技術はどこで覚えたのだろうか。常識的に考えると大坂で習ってきたのだろうと思いますが。
 
 宝暦の末年(1763年)頃に道具屋太兵衛が明和二年(1765年)に作屋清右衛門が金物仲買問屋を創業している。
 三木町に金物販売業者が出来た事で鋸鋸冶や庖丁鍛冶が増えていった。それまでは三木に鍛冶仲間がなく鍛冶株が
なくても鋸を作っていたのだろう。 しかし天明三年(1782年)に大坂の文殊四郎鍛冶仲間からの訴訟によって三木町

で作られた鋸の大坂市場への般入が禁止された。三木の鋸鍛冶は大坂文殊四郎鍛冶仲間と交渉し、翌年春に菱屋忠兵衛・

山田屋清兵衛・山田屋次郎兵衛・吉田屋利兵衛・山田屋源兵衛・大黒屋甚右衛門・山田屋善蔵の七軒が大坂文殊四郎鍛冶

仲間に加入し、他の鋸鍛冶は七軒の株の下株として組織された。
 これが三木文殊四郎鍛冶仲間で、これにより三木の鋸が大坂へ販売出来る様になった。この十年後には三十八軒
の鋸鍛冶が居た事から考えると、この頃すでに二十数軒の鋸鍛冶が居た事が推測されます。
 この時期に大坂市場において積極的に、いろんな株仲間が結成され従来の特権を維持しようとしていた時で、
この訴訟が起きたらしい。大坂文殊四郎鍛冶仲間との交渉は仲買問屋仲間の道具屋善七が中心になって行った
らしい、そのため七軒の鋸鍛冶は道具屋善七に大坂市場への鋸の販売を一任し、大坂へは直接販売は行わない
という取替証文を交している。

「三木金物仲買問屋仲間が成立」

 その後寛政四年(1792年)三月に三木町金物仲買問屋仲間が、作屋清右衛門・道具屋是七・紅粉屋源兵衛・
今福屋善四郎・嶋屋吉右衛門の五軒で結成された。同年八月には三木町金物仲買仲間は三木文殊四郎鍛冶仲間に
対して鋸の取り次行う事、公正な売買を行う事などを約束している。これにより道具屋善七が持っていた鋸の
大坂への独占販売権は破られ、大坂へも三木町金物仲買問屋仲間によって鋸が販売される事になった。

 三木金物誌によれば寛政四年(1792年)鋸鍛冶名簿として三十八軒の名前が載っている。
  吉田屋利兵衛  井筒屋藤五郎  菱屋忠兵衛  山田屋次郎兵衛 山田屋源兵衛 菱屋與三右衛門
  かぢ屋町喜兵衛 山田屋清兵衛  松屋喜右衛門 井筒屋伊右衛門 花屋安兵衛  笹屋四郎兵衛
  樽屋吉兵衛   和泉屋兵蔵   岩屋藤吉   岡野屋五郎兵衛 井筒屋吉兵衛 福田屋與蔵
  井筒屋磯次郎  小野屋長兵衛  高木 万兵衛 高木 源次郎  高木 弥吉  高木五郎左衛門
  東這田 與市  東這田 惣兵衛 東這田 藤六 西這田 定七  山田屋金兵衛 井筒屋源右衛門
  前田町理右衛門 高木 弥原次  宗佐 理兵絵 花尻 新七   大の屋長兵衛 菱屋 宇兵衛
  小野屋 直七  さの 源七   
 寛政八年には三木金物仲買問屋仲間が三木文殊四郎鍛冶仲間へ、大阪から来た鋸・曲尺・鉋の鍛冶屋と取引を
しませんと差入証文を入れている。この頃は鍛冶仲間の力も強く鍛冶仲間から問屋仲間へ申し入れにより出た
差入証文だろう。この証文によりこの頃鋸と前挽鋸と包丁の他に曲尺と鉋は三木で作られていた事が分かります。
 寛政十年(1798年)には三木前挽鍛冶仲間は三木町金物仲買問屋仲間と協定を結んでいる。各前挽鍛冶の三木
     江戸・大坂の問屋への価格を決め、それ以下で売らない事など前挽鍛冶の強い立場がうかがえます。この頃
すでに前挽鍛冶は江戸へ直接販売していた。

 前挽鋸の作り方は玉鋼を炭の火窪で加熱し沸して、二・三人の先手の大槌の鍛造により長方形にまとめ、それを
折り返し鍛錬をする。それを4・5回繰り返しした後、背金の部分の鉄と鍛接する。それを薄く延ばして前挽の形
を作った後、玉鋼の部分を鏟で平面に削る。歯の形を作った後赤めた歯焼き箸で歯を掴み、焼入れ温度に上げた後
水をかけて焼入れをする。その後歯焼き箸の余熱で歯の焼き戻しをする。その後目立てをして仕上げる。
 なお前挽鍛冶は前挽屋五郎卯衛門・山田屋伊右衛門・大坂屋権右衛門の三軒、そのほかに文政年間に大和屋
平右衛門が仲間に加入し数年で姿を消している。また天保十年(1839年)に山田屋弥次右衛門が大坂屋権右衛門
に代わって仲間に加入した。三木の前挽鍛冶は全国的に市場価値のある道具を作っていたので、資本的には苦労
していますが三木仲買問屋や地元の豪農の援助により明治まで続いています。

 寛政年間前期は鍛冶仲間の力が強かったが、寛政年間後期不景気のため業界不振に陥り問屋仲間の作清と道善は
それぞれ銀十貫目、嶋吉は五貫目の製品を買う事を約定している。これ以降問屋の力が強くなって行った。
作清は寛政十三年(1803年)には下町井筒屋伊右衛門・同町花屋安兵衛の製品を一手に引き受ける事、文化三年
(1806年)には中町升屋伝兵衛の製品を一手に引き受ける事といった独占売買契約により問屋資本による鍛冶屋
従属化が進んでいった。
 三木で鋸の生産が始まった宝暦の頃は、全国的に鋸を見ると上方の京都・大坂や三木では鋸は玉鋼を使い焼入れ
をして作られていた。出雲で生産された和鋼和鉄は主に大坂の鉄問屋に運ばれ畿内では玉鋼は流通していた。
 しかし大阪や江戸から離れた地方ではあまり玉鋼は手に入らなかった様です。越後の三条で始めて鋸を作った阿部
四兵衛門が鋸を作り始めた延宝年間から、後を継いだ初代深沢伊之助そして二代目伊之助の修行時代(寛政以後文化
分政時代までには、まだ鋸は生鉄で作られていたといわれる。鍛造による加工硬化した鉄や鉧で鋸を作り、焼入れ
した鋸は作られていなかった。三条では三代目伊之助の時代(弘化年間)になって初めて玉鋼を用いて鋸が作られた
様です。上方や三木の状態に比べてかなり遅れていたと思われる。        (鉄製農具と鍛冶の研究)

3、三木の鋸の発展期
 
「江戸打物問屋と直接取引が始まる」
享和三年(1803年)に江戸打物問屋仲間の炭屋七左衛門から三木金物の直接取引の引き合いがきた。この時
鍛冶仲間は江戸積問屋が二軒になると競争により価格の下落を恐れて、江戸積問屋は一軒にする様に要求した。
 問屋は値引きの要求はしない、勘定は毎月晦日に払うなどを約束をした。そして炭屋七左衛門へ道具屋と作屋の
二軒が江戸積問屋になると返事をして、翌年文化元年から江戸打物問屋仲間十三軒と直接取引が始まった。
 この江戸打物問屋仲間との直接取引により三木金物は販売量が増え大きく発展します

文化十二年諸鍛冶方連名(1829年) 鋸鍛冶五十六軒  (三木金物問屋資料)
  吉田屋利兵衛  柏屋宇兵衛   銭屋善兵衛   ひの屋藤蔵   舛屋甚宇衛門  大村屋伊兵衛
  小の屋直七   清川喜兵衛   久留美屋多兵衛 道具屋吉兵衛  金重藤蔵    加茂屋吉兵衛
  加茂屋多蔵   広の屋治兵衛  加佐屋新兵衛  つち屋利兵衛  井筒屋藤蔵   山屋 兵吉
  舛屋伝兵衛   加茂屋仙蔵   佐の屋金兵衛  まつ屋松兵衛  灰屋 藤吉   かりこ町惣五郎
  うお屋作兵衛  かき屋忠兵衛  中屋藤兵衛   壺屋吉蔵    山田屋清兵衛  万屋平兵衛
  井筒屋源右衛門 かぎ屋平兵衛  まつ屋喜右衛門 山田屋善右衛門 和泉屋清蔵   和泉屋利兵衛
  和泉屋為七   山田屋利右衛門 菱屋兵蔵    菱屋忠兵衛   菱屋与三右衛門 山田屋次郎兵
  山田屋源兵衛  花屋安兵衛  井筒屋次郎右衛門 大野屋長兵衛  井筒屋吉兵衛 前田井筒屋次兵衛
  飯野屋粂七   花屋儀兵衛   泉屋佐兵衛   井筒屋伊右衛門 中川伊兵衛   新田屋善太郎
  丹波屋綱蔵   壺屋安七 
 文化十二年には五十六軒の鋸鍛冶が居た。作屋と道具屋の江戸直接取引により販売量が増え、鋸だけで
なくほかの道具鍛冶も増えて三木金物は発展して行きます。もうこの頃には三木は鋸の生産では日本で一番
多かったと思われます。
 三木の前挽鋸は文化十四年頃から京流前挽に工夫を加えて新前挽として売り出した。京都前引鍛冶仲間から
銘が紛らわしいとクレームがついたが、江戸送りによる三木金物仲買問屋の販売力により三木の前挽きは益々
発展していった。それに比べ京都前挽鍛冶仲間は売れ行き不振により苦境になり、天保年間に京都前引鍛冶の
鴈金屋七郎佐衛門株と鴈金屋平右衛門株が近江国甲賀へ譲渡されている。そして明治になると甲賀が前挽鋸の
大産地になってくる。
 文化十五年に三木陣屋にいた役人が大坂へ引越しをした時、三木町大年寄が役人へ出した文書が三木宝蔵
文書にあります。それには前挽鍛冶内株三軒・鋸かし内株八十軒余と鋸鍛冶は大幅に増えています。寛保二年
には八軒だった野鍛冶は五軒に減っています、他の道具鍛冶に変わったのだろう。

   天保六年棚卸帳扣鋸鍛冶     (1835年) (三木金物問屋資料)
 花市  坪庄  井岩  井吉  丹伝  丹平  菱平  泉治  花儀  井八  中川  井定  新善
 泉為  井九  山善  加ぎ宇 井ぜん 中藤  吉宇  うお作 紅十  かぢ宗 杢松  山兵  升伝
 升市  小川や 形さ  加古新 つち利 加毛吉 井乙  久留太 小の直 樽宗  岡田や 大伊  池善
 柏清  泉吉  小勘  金川  加毛宇 かぢさ 山二郎 新八  か毛三 高七  高作  高松  高新
 這二郎 這武  這り  西藤  西安  長藤  鳥安  鳥源  鳥り  鳥庄  石太  宗り
 引廻し 
 かも宇 佐定 善源 衣忠 うお宇 山本 山宗 大嘉 長二郎 山乕 井与 西庄 かさ孫
 天保六年には鋸鍛冶が六十四軒あり引廻鋸を入れると七十七軒の鋸鍛冶が居た。文化十二年の諸鍛冶方連名の
鋸の筆頭に載っている吉田屋利兵衛が載っていないのがおかしいが、吉宇が吉田屋宇なにがしとして子孫なの
だろう。天保十五年には吉田屋利兵衛の名前は出てきます。
 
  「鍛鍛冶が出てくる」
 天保六年には鍛(きたえ)鍛冶が三木金物問屋資料に出てきます。吉平と生野屋という鍛冶屋です。鍛鍛冶とは
鋼の原材料である玉鋼を鍛えて刃物の材料の鋼を作る鍛冶屋です。普通はそれぞれの刃物鍛冶が玉鋼を鍛えて鋼を
作りその鋼を使って刃物を作っていたが、生産量を上げる為に鋼作りの行程を鍛鍛冶が行い、刃物鍛冶が板状の
玉鋼からそれぞれの刃物に仕上げる。 これは金物問屋からの発想だろう、名人による手間をかけた高価格の刃物は

要らない、一定の品質の刃物を安く作る事を考えた。そのため刃物作りの効率化のため鋼作りの行程を専門の鍛冶屋

に任せ、その鋼を使ってそれぞれの刃物を作る。この鍛鍛冶が出来た事により三木の刃物の生産量が上がったと思います。
 鍛鍛冶の作業行程は炭素量のそろった良い玉鋼の塊6.8kgを沸し長方形にまとめた後、二番焼き・三番焼き・
四番焼き・五番焼きと四回折り返し鍛錬を繰り返す。横座一人に先手四人に鞴吹きが一人の六人がチームで作業
した。それを鋸鍛冶が鍛造して鋸の仕上げたのだろう。
 鍛鍛冶という言葉は三木の他で聞いた事がないので三木にだけに居た鍛冶屋だと思います。鍛鍛冶の事を当時の
三木の人は鍛え屋さんといってみんな知っていた様です。この作業工程が昭和の初め頃広瀬義一という人が書いた
「郷土断片」というガリ版刷りの資料に載っています。
 その後弘化四年には作屋利佐衛門・井筒屋源七・生野屋友吉・材木屋安兵衛の四軒があった。安政四年には正
金銀取扱書商人名前調帳に、鍛鍛冶として池田屋善右衛門・井筒屋久七・中屋九兵衛の三軒が鍛鍛冶として
載っています。この三軒は直接大坂の鉄問屋と玉鋼の取引をしていたのだろう。
 天保十五年1844年)領主の明石藩による冥加金の求めに前挽鍛冶三軒と鋸鍛冶吉田屋利兵衛が応じています。
鍛冶屋ではこの四軒だけです。普通の鋸鍛冶の手間人は二・三人ですが、吉田屋利兵衛は三木の鋸鍛冶の創業者の
子孫で、手間人も六人いて規模の大きな鍛冶屋だった。鍛冶屋で冥加金を払っているのはこの四軒だけです。この
四軒の鍛冶屋が手間人も多くいて稼ぎも多かったのだろう。
   
    玉鋼による大工用鋸の作り方」   (宮野鉄之助作業による「日本の鋸」)

1.選鋼。   原料の玉鋼を鋸に適したものに選り分ける選鋼作業を行う。
2.玉へし。  選り分けた玉鋼を火窪で熱し一個づつ大槌で鍛造する。六~八mm厚位にへした後水冷して焼きを
        入れる。
3.積鉄。   へした鋼を小割し、その断面を見て良いものを予め作って置いた敷金の上へ積んでゆく。それに藁灰を
        まぶしその上へ粘土を溶かした泥水をかける。
4、皿わかし。 火窪で加熱する。火花や鋼の沸く音などに注意し、十分中心まで沸き上がった頃合に火窪から
        静かに出し、金床の上で先手の大槌を軽く受けて鍛接する。縦と横鍛造し長方形にまとめて行く。

5、鍛錬、   鋼片をまた藁灰をまぶし火窪で十分に加熱し不純物を叩き出し、延ばした後中心部を鏨で折り目を入れ
        折り曲げる。鋼をもう一度十分に沸し大槌で短冊形に延ばして行く。この折り返し鍛錬は一回で終わる
        のを基準とする。

6、上わかし、 鍛錬した後鋼中に残ったガスを抜く為鏨で小さい穴を開ける。小さい傷は鏨で取り除き、火窪で
        加熱し鍛造しガスを抜き鋼を一体化する。

7、首取り、  鋼片の両側に首となる部分を作る。これを真ん中で切断して二枚の鋸になる。

8、荒打・火造。首取りの終わった鋸素材は二枚重ねて加熱し大鎚で打ち広げて行く。最終的には六枚重ねて鍛造
        する。その後一枚づつ加熱し内部組織の均一化と大きな歪の修正と厚みも一定にするため鎚で鍛造する。

9.首継ぎ。  鋸素材の首の部分に柄になる部分を硼砂等を使って鍛接する。

10.焼鈍。  鋸全体を焼きいれ温度より低い目に加熱した後藁灰の中で徐冷する。

11.生ならし・截まち。鋸全体に鎚が当たる様に鍛造した後、ヤスリで印を入れ裁断鋏で鋸の形に切り揃える。

12.マチ打ち。火造温度に加熱し中心及び首の部分を小槌で打ち形と厚みを整える。表面の酸化膜を水打ちして
        取り除いておく。

13.焼鈍・生ならし・すり廻し。軽く焼き鈍しをした後首の部分を叩いて歪を直す。中子を覗いた全縁をヤスリ
        で磨り形を仕上げる

14.目磨り・生目・生ならし。鑢によって目を磨りこみ目を作る。その後焼き入れ後目立てがし易い様に生で
        目立てをする。そして目立てによって出来た歪をとる為に叩いて直す。

15.焼入れ・焼き戻し。火窪で加熱した後泥水か湿らせた砂に鋸を入れて急令し焼きを入れる。その後炭火で
        あぶり酸化皮膜の戻し色で温度を見極める。この時棟の方を多く戻す。

16.ならし。焼入れ・焼き戻しによって歪み湾曲した鋸を金床の上で叩いて平面にして行く。鋸が割れやすく
        技術が求められる作業です。17.荒すき。 鏟板の上にならされた鋸を固定して鏟ですく。

             鏟は通常荒・中・仕上げ・セン目下及び、セン目と区別し自分で製作したものを使う。厚み・ムラ・

             タマリを留意して荒から仕上げに移って行く。

18.打合わせ(歪み取り)。荒スキから仕上げまでの間に何回となく打合わせを行う。打合床または歪床の上で
        歪小鎚を使いムラ出し・ホテリ・ネジ・ヌケ・ヒッパリ等の歪を修正しながら仕上げて行く。

19、仕上げスキ。小ムラを取りながら厚みを決定する。更に表面の磨きを美しくする為にセンメを用い一本宛
        から鏟の筋を入れて行く。荒鏟や中鏟の筋を取り除き鋼の肌を出して行く。

20、磨き・歪取り。鋼を焼入れした磨き棒で鋸に油を付けて表面を磨いた後、歪床の上で歪小鎚を使い最後の
        歪修正を行う。

21、すり廻し・仕上げ目立て。鋸の周りを更に細かい目の鑢で手触りよく形よく仕上げる。その後目の天を
        ならしアサリを打ち仕上げ用目立てヤスリで仕上げ目をする。

22、銘入れ。鋸の表に銘を切ったり刻印を打つ。その後刻印の歪を直し鋸は仕上げる。

 江戸時代から明治前期まで三木の鋸鍛冶はこの様にして鋸を作っていた。しかし山挽・手曲り・願頭鋸などの
山林用鋸は積鉄(積み沸し)はせずに、玉鋼をそのまま沸し打ちまとめて作る前挽きと同じ行程で鋸を作っていた
と思われます。宝蔵文書によると江戸時代の終わり頃の芝町に打屋安兵衛という人がいました。他に東条町にも
打屋がいました。これは一人で仕事をしている鉋や鑿や鋸などの鍛冶屋が大鎚を使って仕事をする時、仕事場に
来てもらって大鎚で先手の仕事をする人の事だと思います。
 嘉永七年異国船渡来冥加銀割方帳に東条町に打屋万衛門がいます。冥加銀を納めているくらいだから稼ぎも
あったのだろう、弟子が数人いて鍛冶屋から呼ばれた時弟子と一緒に行っていたのだろう。

 4.三木の鋸の転換期

 江戸時代後期から明治前期にかけて全国的に見ても各地で鋸が作られています。これは刀を作れなくなった

刀鍛冶が道具鍛冶なり鋸を作ったのだろうと云われる。これらの鋸は山挽・手曲鋸などの林業・製材用の鋸が

主の様です。
 三木では嘉永七年(1854年)の作屋の棚卸帳を見ると、山挽・手曲・鴈頭鋸の在庫量は八十九貫七百
七十匁一分、前挽鋸の在庫量は三十三貫三百二十三匁、大工物は百二十九貫九百六十二匁六分で、林業用
よりも大工物の方が多い。
 在庫量に比例して販売されていたと思うので、三木では林業用よりも大工用鋸が多く作られていた。厚い
林業用鋸よりも薄い大工用のこの方が作るのが難しく、三木の鋸鍛冶の技術の高さが分かります。
 明治維新による社会の動乱により三木金物も大きな影響を受けています。明治元年を去る十一年前の安政四年
には金物問屋は十二軒あったが、明治維新当時には道具屋太兵衛・作屋清右衛門・井筒屋惣助の三軒に激減して
いる。
 三木で初めて金物仲買問屋を創業し作屋清右衛門と共に三木金物の発展に尽くした、道具屋善七も廃業して
います。三木の鋸鍛冶も大きな影響を受けた事だろうと思われます。
 「この頃の有名な鋸鍛冶として小河善太郎 宮野平治郎 小河伊右衛門 小河伊佐衛門 吉宇が一番古い他に 
武川さんは前挽屋五郎兵衛といいました。」吉宇が吉田屋利兵衛の子孫だろう。    (明治初年の三木町)
 
 明治初年(1868年に鋸の目立てを専門にする職人が現れた。二十五歳の吉永新右衛門で以後吉永家は
昭和三十五・六年まで代々目立業をしていた。それまで鋸鍛冶が目立てをして鋸を問屋へ納めていた。
この頃から鋸鍛冶は目立てをせずに問屋へ納品していたかもしれない。それは目立て屋は問屋と取引をして
いた様だから。しかし目立て屋が出来た事により鋸の増産出来るようになっていっただろう。
 
 明治七年に政府による府県物産表が作られている。それによると鋸の生産量は三木の属する飾磨県は
92860挺・大阪府は16389挺・東京都は1586挺・京都府は7404挺で新潟県はまだ載っていま
せん。前挽きも飾磨県が5287挺で他の県は載っていません。会津や信濃や越後でも鋸は作っていたはずだが
載ってない、生産量が少なかったのだろうか。この表を見るとやはり三木は江戸時代の終わり頃から、鋸は
もちろん鉋や鑿などの大工道具の生産は日本で一番多かったのだ。

 「洋鋼の使用が始まる。」
 明治初年頃は明治維新の混乱で三木の鋸の生産は落ちた様だが、年を追う毎に生産量が伸びて行き明治十三年
には最高を記録する。この年に鋸鍛冶井筒新吉が京都伏見稲荷神社の帰りに神戸で輸入された鋼板を目にした。
氏は閃くものがありそれを乞うて持ち帰り鋸を打った。作業のし易さ、仕上がりの美しさ、またたく間に三木の
鍛冶屋に広まった。しかし洋鋼での道具の作り方をあまり研究せずに販売した為、品質が悪かったのだろう返品
が相次ぎ三木金物の評判は地に落ちてしまった。      (明治以後の幹金物)
 明治十九年(1886年)の「兵庫県勧業報告」によると「三木金物は播磨国美嚢郡の産物にして、工業の
盛時(明治十三年)に当たっては、製造家四百余戸、職工千余人ありしも今は半数を減じたり。之れは一ハ目下
の不景気なると、一ハ其材料に洋鉄にしたるが為め、声価を失墜したるとに因せり。」
 三木の金物問屋の販売総額については明治十七年は明治十三年の十四・五%にまで落ちている。この時は三木の
鍛冶屋も問屋も必死に洋鋼の研究をした事が想像されます。明治十三年の販売総額に回復したのが明治二十五年で
十年以上かかっている。                 (伝統産業の発展と成立)
 
 この時今までどうり玉鋼で鋸を作ればいいのか、作業のし易さを考えたら洋鋼がいいのか、鋸鍛冶は考えたと
思います。そして明治十四年に私は洋鋼を使わず和鋼で鋸を作りますという、誓約書「鋸鍛冶為取換」を五人の鋸
鍛冶が問屋仲間へ出している。
 これは黒田清右衛門商店にありました。神沢千太郎・津村市兵衛・宮野平次郎・山城宗五郎・近藤宗吉の五人です。
宮野平次郎と近藤宗吉は鋸鍛冶の系図に載っているので分かります。神沢千太郎と津村市兵衛はその様な姓
の鋸鍛冶が明治三十六年の鋸鍛冶名簿に載っているので鍛冶屋は続いていると思います。
 山城宗五郎の山城という姓は後の鋸鍛冶名簿にもなく、それ以後明治二十年前後に廃業したのだろう。
 他の四人の鋸鍛冶はそれからも玉鋼で鋸を作っていたかもしれませんが、永くは続かなかったと思います。特別
注文ではない限り洋鋼で鋸を作るようになって行っただろう。そしてほとんどの道具鍛冶の使う鋼は洋鋼に変わっ
ただろう。今まで和鋼和鉄で道具を作ってきた職人が、洋鋼で作る事に慣れるまで苦労しただろう。それが出来
なくて廃業した鍛冶屋も居ただろう。全ての職人が人生の変革を経験した事と思います。
 

「鋸の油焼き入れ」

 鋸の焼入れは現在では油で冷やす油焼入れが行われています。この油焼入れが三木で何時頃から始まったのか、
いろんな事が云われています。。明治十一年頃前田町井上由松の弟という人が鋸の油焼入れを創始された
という説。(播州特産金物発達史)また前田町の羽田源之助氏が初めだという説。(山城亀雄) 宮野平次郎さんが
明治二十四・二十五年頃、伏見へ鋸の修行に行って油焼入れを習得されたという説。(令孫宮野胤吉) 
 「日本の鋸」の著者吉川金次は油焼入れは明治二十四・二十五年頃から初まったと。また嘉永五年著「若松緑
五名五福対」には会津の鋸鍛冶中屋重佐衛門が灯油に加熱した鋸の片隔を入れて変質を確かめ茲に鋸の油焼入れを
発明したと。(国産金物発達志) しかし嘉永五年と明治二十四年では三十九年の開きがあり時間がかかりすぎて
いる。あの頃の職人は各地を渡り歩いて、バンクしていたからこんなに時間がかかるはずはないだろうと。
結局はっきりとした事は分かっていません。                  (明治以後の三木金物)

 5.三木の鋸の繁栄期
 洋鋼の鋸の作り初めは薄い板鋼を使って鋸を作っていたが、少し後から五分(十五mm)・六分(18mm)の
角棒形の鋼を、大鎚の鍛造で薄く延ばした後切箸で鋸の形に切る。鋸の表面を鏟で透いて厚みを整えた後生目を
切り焼き入れをする。焼き戻しをした後目立てをする。この鍛冶屋はスタル鍛冶と呼ばれていた。スタル鋸は
高級品として知られて、鋸鍛冶は玉鋼を使う日本鍛冶、角棒を使うスタル鍛冶、薄い鋼を使う板物鍛冶と
分かれていった。
 明治二十八年三木町の金物生産額の割合は鋸が三十一,六%。・鉋が十五,五%・鑿が十二,五%で、前挽鋸は
七,四%と激減している。甲賀の生産が増えたのと。機械の丸鋸により前挽きの需要が減った為だと思われます。
                                   (伝統産業の成立と発展)
 このスタル鍛冶は先手二人の大槌によって鍛造します。鞴吹きを入れて親方と四人で鍛造作業をしますが、職場
に先手が二人居ない場合は打ち屋と呼ばれる鍛造作業専門の職人を頼んで来てもらい鍛造作業をした。その時打ち屋

さんへは一枚鍛造していくらと金額は決まっていたそうです。  (井上博夫) 
 明治二十八年頃鋸製造業者によって、販売組織である「三木鋸振業会」が創立された。これは金物問屋と鋸の
値段が折り合わず、鍛冶職人自身の販売組織を作ろうとしたものである。しかし販売に不慣れな人々の集団だった
ため。たちまち営業不振に陥った。
 そして同三十年三木金物株式会社として再出発した。鍛冶職人すべてが株式を取得して参加したといわれる。
社長には高木陣屋の一柳慎が就任し、赤松幾三郎・廣田重吉・大西辰造・中嶋由太郎等の有力な鋸鍛冶職人が経営
に参画した。しかしこの会社も販売に不慣れな人の集まりであったため順調に発展して行かない。加えて明治三十
三年に社長の一柳慎が県会議員に当選した為この会社も挫折した。その後この会社は井筒亀吉・重松太三郎・北村
久吉・赤松初三郎・神沢吉太郎が中心になり再出発した。この新体制によって三木金物株式会社は順調に発展し
三木町の最有力金物問屋になった。
 維新当時三軒にまで激減していた金物問屋が明治三十年には 石田又平・原市三郎・宮田惣十郎・中尾竹治・
黒田弥三郎・井筒新吉・神沢三蔵・井上豊之助・富岡寅之助・重松市之助・本城亮之助・武原助治郎・黒田
清右衛門・松本源太郎・三木金物株式会社の十五軒に増えている。金物問屋が増え鉄道などの交通が良くなり
各地へ販売に行きやすくなり、それによって三木金物の販売量が増え三木金物は発展して行く。

 明治十六年に鋸の目立て屋の集まりである目立て組合が十六軒の業者によって出来ている。明治三十年頃には
二十三軒の目立て屋がいて、この頃この目立て屋組合員の山城梅太郎と吉井徳太郎によって目落し道具が作られ
ている。
 維新当時三軒にまで激減していた金物問屋が明治三十年には 石田又平・原市三郎・宮田惣十郎・中尾竹治・
黒田弥三郎・井筒新吉・神沢三蔵・井上豊之助・富岡寅之助・重松市之助・本城亮之助・武原助治郎・黒田
清右衛門・松本源太郎・三木金物株式会社の十五軒に増えている。金物問屋が増え鉄道などの交通が良くなり
地へ販売に行きやすくなり、それによって三木金物の販売量が増え三木金物は発展して行く。
 明治十六年に鋸の目立て屋の集まりである目立て組合が十六軒の業者によって出来ている。明治三十年頃には
二十三軒の目立て屋がいました。

 
  「両刃鋸の始まり」

 日本で両刃鋸がいつ頃から作られたのかはっきりとした事は分かっていません。明治の初め頃東京の博覧会に
出品されていたそうです、その鋸がどこで作られたものか分かりません。「三木金物の変遷を語る座談会」では明治
二十年代には三木の問屋で「この頃こんな鋸が出来た」と言われて見た人がいるそうです。吉川金次著「鋸」では
明治三十年頃、村松貞次郎著「大工道具の歴史」でも明治三十年頃と載っています。
 しかし両刃鋸の作り始めはあまりよい鋸が出来ていなかったのだろう、「あれは素人のつかうもの」と、本職の
大工はあまり使っていなかった様です。両刃鋸が片刃鋸より多く作られる様になったのは大正になってからだろう、
そして関東大震災の後からは両刃鋸が本職の大工にも一般的に使われていった様です。
    
    黒田清右衛門商店にあった明治三十六年の鍛冶名簿の中の鋸鍛冶の名簿です。鋸鍛冶八十軒
 羽田源之助  野田寅吉  廣田秀太郎 久保田幸吉  室谷寅之助  進藤元治郎 末松亀太郎 藤村磯治郎
 本岡安太郎 吉井熊太郎  吉田市松  清水常太郎 山本元吉 小林万吉 山本文吉 廣田源吉 仲島由太郎
 小島安吉 小河善太郎  廣田定吉  廣田傳吉  時澤菊松 吉田栄吉 秋田熊太郎 久米安蔵 藤原松太郎
 廣田寅吉  戸倉芳松  清水勝治郎  林 兼吉 高見力松 赤松幾三郎 長谷川吉蔵 山口甚吉 遠藤元治
 杉原範之助 赤松藤松  鎌谷兵吉  廣田市松  廣田徳治郎 廣田弥右衛門 吉川幾治郎 津村徳治郎 
 廣田石蔵  鈴木徳三郎 競貞治郎 井筒合名会社 生田福松  平井 松 三枝実之助 祈市三郎 井上福蔵 
 近藤源三郎 神沢濱蔵 吉田慶治郎 前田正太郎 五百蔵安太郎 五百蔵房吉 神沢友吉 近藤市松 津村兼蔵
 神沢幾三郎 金口伊三郎 金口藤太郎 横田佐吉 小林音太郎 小林熊吉 澤田福之助 小林 吉 山口音吉
 清水  郎 三宅平三郎 吉岡武蔵  宮本源吉 森本菊松  宮崎三之助 村上庄太郎 栗田政吉 栗田勝蔵 
 末廣藤三郎
 明治の三十年台半ばを過ぎると三木金物はますます発展して行き、鋸の場合は分かりませんが鉋や鑿の場合は
それほど多くはありませんが、大坂から職人が三木へ来てそれぞれの鍛冶屋になっています。
そして明治四十三年には三木の金物問屋は下記の様に四十四軒に増えています。
 木下寅之助  小河善太郎  石田岩吉  廣田寅吉  戸川常次郎  沼田嘉吉  中尾竹治  堀田弁吉  
 競定次郎   神沢三蔵  石田庄次郎  小西常八  山本八三郎  広田合名会社  井筒合名会社  
 三木金物() 広田和三郎 岡宮商店  岩井平次郎  田中左右次  藤岡宗治  守澤幸太郎 宮田宗十郎
 石田治一郎  富岡寅之助 黒田清宇衛門  黒田文四郎  吉田支太郎  市原寿一  藤田善三郎  
 梶原幾太郎  黒田俊治郎  斉藤初二郎 巽利与太 武原治郎兵衛  池内梅吉  河合市太郎 
 ニ波合資会社   ニ杉国四郎 武藤商店  正井幾松 長永栄吉  岡田広三郎 小河伊三郎  
                                 (明治以後の三木金物)
 明治三十年には十五軒だった金物問屋は四十四軒、約三倍に増加していて、三木金物の販売量はそれに比例して
伸びて行ったのだろう。この頃三木で玉鋼で鋸を作っていたのは宮野平次郎・五百蔵安兵衛の名前が残っています。
もっと居たと思いますがもう分かりません。
 鋸鍛冶屋と問屋の取引は鍛冶屋が鋸を問屋へ納めると、引き換えに材料の鋼を受け取る。その時鋸の数と金額と
受け取った鋼の量をその鍛冶屋の通(かよい)に書く。時々鍛冶屋は問屋からお金を受け取る、それを一年に二回
決済する。永くこの形態が続いて来たが大正に入ると、鐵鋼材料を売る店が出来て来て鋸鍛冶が直接鉄鋼材料店
から鋼を購入するようになった。しかし通に書いて決済する事は終戦前まで続いたそうです。(井上博夫)
 明治から大正にかけて他所からいろんな鍛冶屋が三木へ来ています。鋸鍛冶は大正初年に関東から明治二十年に
常陸国に生まれた増子猪之助が鋸鍛冶として三木へ来ています。鍛冶屋の職人が他所から三木へ
来ている事から分か る様に明治の中頃から大正の終わり頃まで三木金物は順調に発展しています。
  
 三木町の全ての刃物鍛冶屋の軒数は明治三十年台は3百軒前後だったが同四十年代には約一、五倍増加して四百
軒台になり、大正二~七年には約二倍に増加して五百軒台になっている。大正末年には関東大震災後の復興需要に
より増加し九百軒を超えている。
 大正の終わり頃には安来製鋼所が出雲・伯耆の国の砂鉄を、木炭で還元した木炭銑を減量とした鋸用鋼が出来て
いる。この鋼は鋼の不純物のリンや硫黄が極端に少ない良い鋼だったが、そのため東郷鋼などと比べて焼入れ性が
悪く、扱い難い鋼なので鋸鍛冶はあまり使わなかった様です。使われていた鋼材は国産のSK材や、バネなどの
再生材の様だ。

 6、昭和の大不況  
 昭和三年美嚢郡工業懇談会鋸会員名簿

評議員  中尾徳次郎  赤松幾三郎  藤田友次郎  金口藤太郎  藤本太蔵
一等会員 広田重吉   弐等会員  神沢五郎丸 原由松 大西辰蔵
参等会員 赤松幸吉  神沢庄吉  久米要蔵
四等会員 杉原半之助  広田源吉  中尾徳治郎    鋸 百九十九軒
五等会員 井澤学  石本清次  津村徳次郎  藤原安治 森本岩次 小林孫吉
準会員 赤松藤松 畑與三郎 井上春吉 吉井虎次郎 仲島長次 平井藤松 藤原松太郎 鈴木利吉 宮田徳太郎
    廣田美津次 進田元次郎 平木文太郎 宮野平太郎 光川順次郎 津村兼蔵 津村磯蔵 小林良蔵 
    土出瀧蔵 澤田梶之助 岩尾瀧三郎 岡部文太郎 大西忠太郎 三坂三之助 赤松平兵衛 岡本品三
    井上弥三郎 高見長蔵 中井元治 中川浅吉 長田秀一 生田竹松 大道萬太郎 高松宇太郎 吉川秀雄
    大森馬太郎 赤松重吉 吉川卯太郎 長谷川玉次 奥野岩市 小山春吉 北村和三郎 小林留八 
    清水長次 清水喜三郎 清水常太郎 小河春太郎 廣田石蔵 宮野徳次 白髭浅一 菅六助 清瀬万吉 
    奥野胖野井林蔵 小林栄太郎 藤原熊蔵 藤田長五郎 岩本磯二郎 長谷川学三 時沢梅太郎 高見力松 
    堀尾和吉 畑繁太郎 増井信雄 横山正次 廣田松蔵 廣田幸次郎 岩見藤松 西川亀太郎 竹中辰次
    太田重太郎 金倉直治 金倉金蔵 赤松藤太郎 長谷川廣三郎 玉田寛次 廣田源三郎 小山鹿蔵
    廣田三之助 宮本弥三七 大西百蔵 遠藤光次 廣田亀吉 廣田宇太郎 古川力松 廣田竹蔵 戸田武次
    安福正司 戸田三十郎 実井繁治 筧濱治 清水弥三郎 黒田宇一郎 小山順次 岩崎岩蔵 池町伊之助
    澤田力松 向山又七 渋谷若蔵 赤松逸次 羽田源之助 村上弥三吉 近藤源三郎 津村豊蔵 小山信行
    近藤竹松 原戸役蔵 津村荒太郎 光川重吉 近藤直治 岡村善治 吉田市松 粂武治 津村要治郎
    津村藤五郎 光川直吉 光川捨市 津村米一 近藤元一 藤本宗吉 神沢幾三郎 渋谷千太郎 津村勝治
    津村秀次郎 田中光太郎 神沢泰治 近藤学二 神沢角蔵 横田音吉 小林弥三郎 森本久蔵 
    正井覚次郎 守澤光治 神行国松 光川留市 近藤利雄 清水種吉 近藤力松 近藤寅吉 正井太佐市 
    志原鹿蔵 横田竹治 岩井新太郎 岩井臨蔵 河合弥三郎 岩井儀三郎 正井貫治 澤田米三郎 
    井上大吉 小林石松 田中藤太郎 栗田常蔵 森田鶴松 宮崎定吉 清水喜太郎 村上庄太郎 岩崎理市
    辻定治 森本喜代松 岩井清 森本久治 永尾吟治 永尾繁逸 堀尾寛市 岡田實三郎 岩居松次 
    岩崎好三郎 小嶋市松 表秀市 久米種松 三枝寛治 今井慶治 古谷猿三 米村作治 大西一雄 
    岩崎貴一 殿界武夫 安随仲太郎スタル鍛冶  三十一軒
準会員 五百蔵安太郎 廣田仲蔵 小嶋安吉 藤岡大吉 吉永清太郎 渋谷庄三郎 宮野平次郎 増子猪之助
    戸倉芳松 河内徳太郎 沼田嘉太郎 岩谷庄吉 岩谷信市 小林金五郎 小山鶴吉 藤本真次郎 
吉田慶次郎 久保田幸吉 喜田島太郎 近田勝次郎 本岡吉太郎 藤田重作 奥村松太郎 小嶋朝吉 
宮野鐵之助 永良彦太郎 和田高光 前田町一 柳市太郎 古谷熊吉 三宅芳太郎
 特性鋸  二十二軒
準会員 廣田為治郎 藤本太蔵 清水増太郎 大西八十松 中村幾次郎 廣田徳次治郎 西岡要治 吉井廣次 
    小林秀之助 澤見一馬 山本松蔵 山本源之助 丸山明太郎 福田巳之助 川原多十郎 吉井芳實 
吉井寅三郎 向山重次 井上満蔵 大西忠太郎 北村七郎 中川正夫   

 昭和三年美嚢郡工業懇談会鋸会員名簿には全ての鋸鍛冶の数は二百五十二軒もあり三木の鋸鍛冶は繁栄してい
ます。三木の金物問屋の力も大きいと思います。大正十二年の関東大震災の後三木金物は好景気になり、事業所も
増え鍛冶屋を目指して弟子になる人も増えていい状態が続いていた。
 しかし昭和二・三年になると不景気の兆しが出てきた。そして昭和四年の世界大恐慌が起こりその後、昭和五年
には大不況になり三木はどこの鍛冶屋もほとんど仕事がない状態になってしまった。1ケ月に1週間仕事があれば
いい方だった。このような状態が続いたので弟子に入った人も、鍛冶屋になるのを諦めまた鍛冶屋の親方
も廃業する人も多かった様です。
 大宮神社には鋸鍛冶の顕彰碑が三基建てられています。二代目広田重吉氏の彰徳碑が在命中昭和十一年に建て
られた。昭和三年に氏は鋸の表面を削る研磨機を発明しその特許を取ったが、その特許を公開しその研磨機を三木
の鋸鍛冶に広めたという。その功を感謝した同業者によって建てられたものです。
 「久米要蔵君碑」は徒弟らによって亡くなった後大正元年に建てられている。「小河善太郎翁碑」は弟子達に
よって昭和三年に建てられていて、台石には弟子達の名前が彫られています。
 
 三木の鍛冶屋は昔から戦国時代別所長治によって京都伏見稲荷神社から勧請された、上の丸にある稲荷神社を
尊崇していた。旧暦十二月八日の稲荷神社の鞴祭りには三木町最大の行事として、大勢の鍛冶屋の親方が弟子達
を引き連れて朝暗い頃からお参りに集まって来た。この時家紋の入った提灯を持つ弟子を先頭に、鍛冶屋の親方
だけがトンビと呼ばれる洋風のインパネスコートを着て、その後弟子を引き連れ稲荷神社へお参りしていた。
トンビを着る事が出来るのは鍛冶屋の親方だけだった 昭和三年(1928年)に多可郡大木村に鍛冶屋の神様天目

一神社が復興された。三木町にも鍛冶屋の神様を祀ろうという事になり昭和十年に天一目神社から天目一箇命《アメノマヒトツノミコト》
(鍛冶の祖神)、金山毘古命《カナヤマヒコノミコト》(製鉄の祖神)、伊斯許理度売命《イシコリドメノミコト》
(鑄物の祖神)の三神を勧請して上ノ丸に金物神社が創建された。稲荷神社の横にあり
十二月八日の鞴祭には大勢の人で賑わっています。
昭和十年頃から三木金物は満州への輸出が多くなり満州景気といわれる好景気になった。鋸も
生産量は多くなり昭和十四年には鋸鍛冶も百七十六軒に増えています。
 戦争前の状況は鋸鍛冶と問屋の取引は通(かよい)で行われて居た所もあった様です。焼入れも炭の火窪で
加熱して油で冷却した。そのままでは歪が大きいため型で体重をかけて押さえていた。その後炭火であぶり戻し
をしていた。                          (井之上博夫)

  7、終戦後の復興期
 この戦争により亡くなった鋸鍛冶やその弟子達もかなり居たと思います。戦後の復興期になり鋸をはじめと
する金物大工道具が飛ぶ様に売れた。この頃形だけが鋸の粗悪品も現れそれを扱うブローカーも出て来たが、
世の中が安定してくると正規の販売ルートが整備されブローカーも居なくなった。
 好景気になり問屋が地方へ出張に行き、集金した札束を荷物にして家へ送ったという伝説もあります。昭和
二十二年には金物問屋が集まり三木金物卸商業共同組合を設立し、鍛冶屋は昭和二十四年には三百六十人の
鋸鍛冶が集まり古川富治を理事長に三木鋸工業共同組合が設立し、昭和二十五年に小林元二を理事長に三木
利器工商匠具工業共同組合を設立された。
 
 そしてその年に金物神社前に古式鍛錬場が新築され、その年の鞴祭りで火入れ式が始まり、最初に鋸鍛冶で
スタル鍛冶で有名な吉永清太郎が御番鍛冶師になり古式鍛錬を行った。その後毎年鞴祭りには火入れ式が行わ
れています。火入れ式は民俗鍛冶技術の継承という意味もあり全国的にみても貴重な珍しい行事だといえます。
 三木の鍛冶屋は生産量を上げるため機械化を進めて行き各鍛冶屋の作業場でも、機械や電気が入り研磨砥石や
送風機を設置して作業の効率化を図っていった。その後鋸の業界でも加熱用の重油炉とベルトハンマーを使い、鋸
の鍛造を専門に行う荒打ち屋が現れた。その後需要が多くなり鋸の生産量増えて行ったので、荒打ち屋はハンマー
の代わりに圧延ロールで作業をする様になって行った。
 
 鋸鍛冶も昭和四十年代半ばになると火窪の炭による油焼入れ・炭による炙り焼き戻しの製造方法から、焼入れで
はガス炉や鉛浴炉による焼入れが始まった。それにより焼き戻しもソルトバス炉による焼き戻しをするようになっ
た、これは新町の藤原という鋸鍛冶が考案したといわれています。このような製造行程の近代代化により鋸の
生産量は大幅に伸びた。             
 三木の鋸業界も職人を多く使って鋸を作る会社も出来てきて一般に知られる様な鋸も出てきた。岡田金属工業所
の「桜東洋」と井上金蔵鋸製作所の「金蔵作」の鋸です。「金蔵作」は日本で始めて日本工業規格JISを取得した
両刃鋸として全国的に有名な鋸になった。                (仲一眞)
 
 昭和四十年代後半になると、荒打屋による鋸を作る製造工程は、焼入れ後の歪が大きく歪取りに時間がかかる。
そのため荒打ちをせずに、大型円筒砥石による縦形平面研磨機により、鋸の表面を研磨する鋸鍛冶も現れた。
あまり歪を出さずに焼入れが出来るので、歪取りの時間がかからず能率が上がった。
 三木の鋸鍛冶は林業の使う大きい刃の伐採用鋸は荒物鍛冶。両刃鋸や胴付き鋸などの小さい刃の大工用鋸は上物
鍛冶といわれていた。昭和四十年以降チェンソーの普及により伐採用の手曲がり鋸は売れなくなって行ったが、
三木の鋸の生産額は増えていっています。大工用の両刃鋸や小型の枝切り鋸の生産が伸びたのだろう。

 8.高度経済成長期 

日本が高度経済成長期になった頃、昭和四十二年三木市の藤原産業専務藤原輝三が三木商工会議所の米国産業
視察団に参加した。その中でアメリカのホームセンターの状況を視察して帰国後、これからの日本の一般消費者
向け金物の販売方法はアメリカのホームセンターの様な形になるだろうと思い、会社に日曜大工部門を設置し三木
金物のホームセンター向け営業を始めた。藤原産業はその後本職向けからホームセンター向け金物の営業に切換え
大きく発展して行く。
 この頃に目立てをしない替刃式の鋸が出てきた。替刃式鋸はホームセンターでの販売向いた鋸だった。
友定正明は三木市生まれて鋸職人になり金蔵鋸製作所に勤めていたが、替刃式鋸を作ろうと独立し1969年に
レザーゾー工業株式会社を設立し替刃式鋸の元祖であるレザーソーを製造販売を始めた。最初は大宮町のある鑿
鍛冶の職場を間借りして製造を始めた。その後小野市に工場を建設した。
 
 その後三木の鋸鍛冶も替刃鋸を作る鍛冶屋が出て来た。岡田金属工業所も昭和52年(1977年)から替刃鋸の
開発を始めた。今までの焼入れ鋼帯の鋸ではなく刃先の硬度の高い、衝撃焼入れ(ハード・インパルス)を施した
鋸刃にする。材料切断から衝撃焼入れ加工をして製品まで機械で製造する。その機械も自社で作ったそうです。
そして1982年(昭和57年)ゼットソ-の発売開始しました。
 レザーソーもその後衝撃焼き入れした鋸に変っています。金物がホームセンターで販売される時代になって行った。
この流れだったのだろうレザーソーも、ゼットソーも販売を伸ばして行きました。

 昭和五十年頃都会では目立てをする金物屋が朝に店を開く前から、仕事に行く大工が目立ての済んだ鋸を受け
取りに来ていたという。それほど両刃鋸は大工仕事に必要な道具で、両刃鋸の販売量が一番多い頃だろう。
 各鋸鍛冶が自分の銘で売り、その他にも問屋や金物屋の銘の鋸もあり三木の鋸鍛冶は繁栄した。その後電動丸鋸
が普及し建築工法も変り、今までの両刃鋸の販売量が減ってきた。そのため目立てをする金物屋が昭和五十年代
中頃になると全国的に減って来た。
 昭和五十年日本鉄鋼協会により三木の鋸鍛冶宮野鐵之助による玉鋼の鋸の製作行程が映画に撮られた。これは
昭和四十四年に日本鉄鋼協会が島根県吉田村で蹈鞴製鉄の復元を行った時に、取れた玉鋼を使い鋸を作る事を
計画した。その鍛冶師に宮野鐵之助が選ばれ氏の直弟子である子息、裕光(ひろみつ)・矗誉(ただよし)・久巍
(つねたか)三人と弟子の広田輝の四人を先手に、十三日にわたって作業をして六本の玉鋼製の鋸を作った。
作業工程は全て記録し、作られた鋸は金属学的検査や切れ味検査も行われた後まとめられて「日本の鋸」という
本になっています。
 昭和の三木の鋸の状況は二十九年は278軒の鋸鍛冶で2億3988万円の生産額・四十九年は164軒の鋸
鍛冶で56億6707万円の生産額・58年は124軒の鋸鍛冶で81億5024万円。63年は82軒の鋸
鍛冶で127億9639万円の生産額です。
 
 鍛冶屋の軒数は減ってきていますが生産額が伸びています、これは手挽き鋸の生産は減っていったが、電動
用丸鋸の生産が増えて行ったからだろう。是は小さな鍛冶屋が減って行き、会社組織の事業所が伸びて行った
ともいえます。木工用鋸の他に生木を切る剪定鋸も替刃式になって来ています。
 以前より金物祭りの会場では三木の金物問屋業界が金物びっくり市として金物を即売していましたが、平成三年
より三木金物祭りの会場で、三木金物フェアーとしての鍛冶屋も即売を始めました。初めはそれほど来場者は来な
くて、鍛冶屋が集まった遊びの感じだったが、年々来場者が増えてきた。現在では全国からまた海外からの来場者
も居て三木金物細大のイベントになっています。この金物フェアーで大工や一般消費者に名前を知られた鍛冶屋も
多いと思います。
 平成に入って四年ほど120億円からいの生産額でしたが、次第に減って行き今頃は80億円から90億円の
間で推移しています。
 
 平成八年には三木の鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の業界が播州三木打刃物として、通産省の伝統的工芸品の産地指定
を受けています。産地指定を受ける条件は日常品である事・手工業的製造方法である事・伝統的な材料と技術に
より製造されたものである事・その地域に一定の業者が百年以上いて産地を形成している事。この事を証明して
産地指定をいける事が出来ました。
 そして平成九年から希望する鍛冶屋には伝統工芸士の試験を受けて、合格した人には伝統工芸士の資格が与え
られました。そして数回の試験を受けて鋸鍛冶も近藤義明・井之上博夫・廣田清一・神沢昭二・仲一眞・光川
大造の六名が伝統工芸士になっていましたが、現在では井之上博夫・近藤義明・光川大造の三名が伝統工芸士
として活躍中です。
 現在の鋸の状況は山林様鋸はもう作られていないと思います。大工用の両刃は作られていますが数が減っ
てきています。両刃鋸の鍛冶屋も替刃式鋸を作る状況になって来ていると思います。
丸鋸の生産は増えていると思います

 9.三木の鋸鍛冶人物
 吉田屋利兵衛
 伝説では秀吉の別所攻めの時山城国伏見へ避難していてそこで鋸鍛冶の技を習得し三木城落城後三木へ帰り下町
で鋸鍛冶を始めたとあります。、また一説には利兵衛は野鍛冶で元文二年(1737年)頃より鋸鍛冶を始めたと
あります。 しかし延享元年(1774年)の諸色明細帳の野鍛冶には利兵衛の名はなく、下町鍛冶伊兵衛の名が
あります。伊兵衛が後に利兵衛を名乗ったのか。
 三木で鋸の生産が始まった頃から吉田屋利兵衛は居た様で、三木金物問屋資料の寛政四年の値段帳の鋸鍛冶
三十九軒の最初に吉田屋利兵衛が出て、同じく問屋資料の文化十三年の諸鍛冶連名には鋸鍛冶七十三名の筆頭に
吉田屋利兵衛が出てきます。三木で一番伝統ある鋸鍛冶だった様です。
 天保十五年には明石藩の冥加銀の要求にも応じていて、職人も五・六人いる三木で一番大きな鋸鍛冶だった。

 山田屋伊右衛門
 江戸時代三木金物の代表的な製品は前挽鋸でした。その前挽鋸を三木金物の発生期に作ろうと前挽鋸鍛冶の
開業願いを役所に出した人です。元文三年(1738年)伊右衛門は後年道具屋善七として三木で初めて道具問屋
を始めた太兵衛が、木挽き職人として但馬竹田にいた時そこで出会い、二人で前挽の商売をしようと話し合い三木
へ帰ってきた。
 初めは二人で下町伊右衛門宅で京都から前挽きを仕入れて売っていたが、後に太兵衛は前挽などを売る道具商に、
伊右衛門は前挽を作る前挽鍛冶になった。(道具屋善七父祖行状記)
 三木の役所へ前挽鍛冶の開業願いを宝暦十年(1670年)頃から出していますがなかなか許可が下りず、
宝暦十三・十四頃に京都前挽鍛冶仲間へ入り、前挽屋五郎右衛門と大坂屋権右衛門と共に三木で三軒の前挽鍛冶が
生しました。三木の道具鍛冶で名前の出た最初の人だろう。
 この頃江戸で大火事があり復旧の為前挽鋸が必要になり大いに売れたそうです。三木に道具問屋が出来てからも
前挽鍛冶は自分の売り先があったらしく、三木の問屋にも強い商売をしていた。その後江戸送りなどで三木の
道具問屋の販売力が大きくなり、三軒の前挽鍛冶も大きく生産量を伸ばしています。
 山田屋伊右衛門家は嘉永七年の異国船渡来警衛冥加銀割方帳や天保十五年御冥加銀上納割符内取調帳に載って
いて、明石藩の冥加銀の上納にも応じています。前挽鍛冶として明治になっても続いていました。

 宮野平次郎 

 宮野平次郎は本名元吉といい幕末の弘化四年(1847年)三木町で生まれた。家代々の鋸鍛冶で元吉が父の

平次郎を継いだ時はすでに五代目だったという。元吉は幕末多端の折に成長して父の技たる鋸製造に従事した
が、刀剣製作には青年時代から憧れと研究心を抱いていた。しかしそれを実現するまでに鋸の製造に精魂を打ち
込む事が第一義と考えた。その為遂に意を決して京都伏見の鋸鍛冶谷口清兵衛に弟子入りした。
 
 それは伏見鋸鍛冶の焼入れを学ぶためであった。修行後帰郷した元吉はさらに研究工夫を加え作った鋸は追々
名声が上がって行き、彼のもとに弟子入りする人が日に月に増加した。以後宮野平次郎は鋸鍛冶として播州のみ
ならず全国的に見ても名工として知られている。
 明治十一年三十歳の頃より刀剣製作の道にも入っていったものと思われ、明治十七年神戸湊川神社御用鍛冶師を
拝命し神剣一振りを奉納している。刀匠仲間では備前輔高と交友があり教えられる所があったらしい。有栖川宮家
お抱えの刀匠桜井正次に相州伝の鍛法を伝授してもらい、相州伝の皆焼を会得した。明治三十六年第五回内国勧業
覧会に日本刀を出品して大判の褒状を貰っている。刀銘は宮野義定。老境に入った晩年まで刀剣の勢作は続けて
いたという。子の吉太郎も平次郎として鋸を作り国次として刀剣を作っています。孫の胤吉も吉太郎から受け継ぎ
鋸と刀と同じ道に進んだが、時期が日支事変太平洋戦争のために刀剣の製作は祖父や父より多かった様です。
                                           ( 山田宗作)

 宮野家は江戸時代加茂屋の屋号で鋸鍛冶をしていた。三木金物問屋資料の寛政四年の鋸鍛冶名簿には賀茂屋は
ありません。文化十二年の鋸鍛冶名簿には賀茂屋は吉兵衛・多蔵・仙蔵の三人の名前があります。天保六年
(1835年)の鋸鍛冶名簿には加毛吉・加毛宇・か毛三の名前がある、加毛やか毛は加茂屋の略称だろう。この後
頃か分かりませんが、平次郎の名になったのだろう。そして五代目元吉が宮野平次郎として鋸鍛冶として
全国的に名を上げた。宮野平次郎鋸鍛冶は元吉の後義定・国吉・喜一と四代続きました。
                                             (栄光より)
 宮野鐵之助

のこぎり鍛冶の名工として知られる遠藤朝也氏は明治三十四年七月二十五日、三木町福井に生まれる。本名を
政一郎といい号を四方斎朝也という。地元の三樹小学校を卒業後、家業ののこぎり鍛冶を見習い、大坂で目立て
修行を終えたのち、三木に帰って初代宮野鉄之助に弟子入りし、昭和十三年二月、その技量を認められて二代目
宮野鉄之助を襲名した。
 また刀剣鍛冶修行も重ね昭和16年十一月、神奈川県相武台座間日本刀鍛錬協会会員として栗原彦三郎の唱道
に参加、同十七年四月帝国美術展日本刀部新作展覧会においてその審査員に就任した。
 道十七年九月、大阪陸軍造兵廠造刀の刀匠を拝命して終戦の二十年八月まで軍刀製作に励んだ。その間同十九年
十一月、兵庫県日本刀鍛錬協会作刀技術主任として造刀後輩指導にあたるなど、戦時中は作刀一筋に生きたが戦争
も終り平和な時代になったので再びのこぎりの製造に従事した。
 氏は古くからの伝承技術を守り、たたら製鉄法で玉鋼を作りその玉鋼でのこぎりを鍛えて製造工程を記録文や
映画に残すなど、三木金物の歴史に大きく貢献した一人である。現代鋼での鋸も有名ですが、日本でも玉鋼による
鋸の製造技術を持つ最後の職人といわれていました。
 現在三木の刀匠として、昭和四十八年九月伊勢神宮遷宮を記念して鍛え上げた新刀一振りを、同神宮に奉納する
など彼の功績は大きい。昭和51年には、芸術振興財団第1回吉田五十八賞の特別賞を受賞しました。                              
                                   (栄光より)

 鉄之助さんの弟子の小野の広瀬儀一さんの話です。戦争中鉄之助さんは神戸の湊川神社で日本刀を作っていま
した。そこへ広瀬さんは学徒動員で派遣されて刀作りの仕事を手伝に行っていました。その時広瀬さんは鉄之助
さんに玉鋼の事を教えてもらったそうです。終戦後広瀬さんは小野で刃物店をしながら玉鋼の刃物を作っていま
した。いいものが出来ると鉄之助さんに見せに行ったそうです、
 「ええものが出来たな、しかし玉鋼はいつもいいものが出来ないから難しい。玉鋼は商売にならへんで」と
言われました。それでも広瀬さんは研究して腕を上げれば出来るだろうと作って来ましたが、やはり出来は安定
しなかったそうです。「鉄之助さんが言っていたとうりやった」と聞きました。
 鉋の取引があったので行ったら玉鋼の事をよく聞きました。


 五百蔵安兵衛
 大正から昭和にかけて日本古来の鋸である玉鋼を使った鋸を作る事が出来た人です。



 廣田菊次郎 
 宮野鉄之助の弟子で玉鋼で鋸は作らなかった様ですが、現代鋼で作る鋸は鏟透き肌が薄くしく

      切れ味も親方鉄之助に劣らず、鋸の価格も親方とほとんど変らなかったそうです。
      スタル鍛冶です

 長谷川玉次
 
 三木の鋸で明治十三年に洋鋼が入って来た頃の製造方法である、鋼を鍛造し炭で焼き入れ・

        焼き戻しをし、鏟で透いて仕上げたスタル鍛冶です。昭和五十三年朝日新聞の記事です。
     「鋸づくり一筋七十一年を生きてきた。八十歳の長谷川玉次さん。現役の鋸職人の最高齢者で、百年
     にもなるという工房で今でも周二回仕事に入っています。この様な技法を伝える職人は後三人しか
     残っていないと聞いた。」この頃に黄綬褒章を受章しています。

  10.三木の鋸資料

            三木の鋸鍛冶の軒数と生産額

昭和二十二年     

1億8489万円

昭和二十九年 278軒

2億3988万円

昭和四十年

13億2368万円

四十五年   187軒

24億8200万年

四十九年  164軒

56億6707万年

五十一年  162軒

86億6431万年

55年   150軒

94億9477万年

58年   124軒

81億5024万円

六十年  106軒

98億9313万年

六十二年  88軒

108億4359万円

六十三年  82軒

127億9639万年

平成元年 70軒

119億0496万円

平成四年 58軒

120億5901万円

平成八年 47軒

94億1956万円

平成十三年 44軒

86億8001万円

平成二十年 37軒

86億2205万円

 参考文献 
 三木金物誌 播州鋸の由来 三木金物問屋資料 伝統産業の発展と成立 明治以後の三木金物 
栄光

三木史談 明治初年の三木町 鉄製農具と鍛冶の研究 日本の鋸 郷土断片 三木宝蔵文書