鍛冶屋のつれづれ書き

         三木の刻印

郷土史家山田宗作さんの書かれた昭和三十九年発行の「姫神の民話」の記事です。


  鋸・鑿・鉋・鎌・左官鏝等あらゆる三木の金物の製品に「しるし」をつける為の鋼の印を刻印という。
この刻印を製作する鍛冶を刻印屋という。金属の上へ「しるし」をつけるので、鋼でなければ永持ちはしない。
従ってその製作過程はすごく手間と時間のかかるものである。
 刻印屋というものは三木では鍛冶屋とは呼んでいない。火造りを自分でしないからである、しかし三木金物には
なくてはならぬ主要な職である。数年前までは三木に刻印屋さんが六軒あった。津村氏・藤田氏・金沢氏は
亡くなっていて、小林氏・斉藤氏は転業し現今は宮田氏と木下氏が残っている。
 
 私はそのうち宮田正一氏(64才)を訪ねた。現今は病気で子息の博文氏(39才)が父の後を継いで
仕事をやっておられる。父に習って仕事を続けているので、当地ではこの業の練達者は三人という事になる。
父の正一氏は末広町の岡村啓一氏(故人)のお弟子であったという。
 刻印の製造工程これは厄介である。先ず台金(ダイガネ)が必要である。これを「印材」という。この台金は
鋼である。それを注文鍛冶に作らせる。注文鍛冶というのはどんなものでも注文を受けて自由に製造する鍛冶屋である。
鑿・鉋・鋸等の専門鍛冶でないという意味でこんな名で呼ばれている。三木では注文鍛冶はたくさん居る。
 注文鍛冶から出来てきた印材をヤスリで平らな面をこしらえる。ほぼ印形の型に出来ると、上等の朱で地を塗りつぶす。
次に墨で左文字を書く。そして文字の四方八方を大きなヤスリで取り除く。そして、細い鋭いタガネを当てて上から
鎚をもって、叩いて文字を彫ってゆく。これを荒彫(アラボリ)という。
 更にヤスリで、真っ直ぐに面を彫り直す。これを幾度もくり返す。それはタガネを入れて文字を彫った時に、
鋼の面が浮き上がってくるので、眼の細かいヤスリですり直す必要が生じる為である。又不十分な所を印刀で
訂正する。次に仕上げ砥石で面を磨く、又印刀で悪い部分を訂正する。次に四方八方細かいヤスリで仕上げをする。
このたゆまぬ繰り返しが、三木の職人のあらゆる鍛冶職にも強く流れている職人気質の伝統といえよう。
根気と性根が三木鍛冶の資産だ。
 仕上げた品を鍛冶屋へ送って焼刃を入れる。現在縦4センチ横1センチ位のもので、約四千円はする三木刻印である。
播州では昔小野に長谷川正斎という名人が居た相だ。子孫は不明の由。 私は何本かの印刀を手にして感心した。

この印は細い小さな小刀であるが、鋭い刃がついている。何分鋼を彫るので
十本の中で一・二本位が使えるという。「この印刀は誰が作るのですか、注文鍛冶ですか」と訊ねたら七十幾才の
博文氏の祖父が、実は私がこしらえたのです。私も実は「ドンガネ鍛冶」でした。「ドンガネ」というのは鑿の
柄の端に付いている下がり輪の事です。
 三木の鍛冶職はみんな名人揃いだと思った。伝統の力は恐ろしい。どんな職の鍛冶屋さんでも、皆これほどの
腕を持っているのである。鋼を切り込む程の鋭利な印刀が、七十翁の後備役の職人の手から、苦もなく生まれる所に
金物・打刃物の町の職人精神の底光があるのを知った。

  昭和三十年代の三木の刻印屋さんの状況が分かります。昔の鍛冶屋は刻印も自作していたのだろう。江戸時代
から金物産業が盛んだった三木は効率化のため分業が進み刻印田さんも早くから居たかもしれない。私が家の仕事に
入った頃も宮田さんで刻印を作ってもらっていましたが、焼き入れは父がしていた事もありました。
 現在宮田刻印は初代正一さんから三代目・四代目が仕事をしていて、NC彫刻や放電加工の機械も使いながら 

刻印を作っているそうです。
記事に載っている小野の長谷川正斎は長谷川松斎といい、大正時代の人で三木の鍛冶屋や問屋さんの刻印を作って
います。隣のミヤケさんの大正八年の領収書に名前がありました。この記事を見るまで長谷川松斎が
何をしている人か分かりませんでしたが、やっと刻印屋さんだと分かりました。