鍛冶屋のつれづれ書き
                  三木の曲尺

 曲尺ははるか昔からある日本の木造建築に必要な道具で、L字型をした表面に尺・寸の寸法が切られた

金属製の度器です。昔は麻可利加彌(マガリカネ)と呼ばれ古くから作られています。社寺建築の工事の

安全を祈願する釿始めなどの儀式には墨壺や釿と共に欠かせぬ儀器にもなっています。

寛政年間三木に金物仲買問屋が営業を始め鋸鍛冶や庖丁鍛冶が出来た頃、紺屋の三右衛門宅へ行者が宿を

求めた。その日は三右衛門の祖先の命日で何かの縁と求めに応じた。夜中まで話をしていた時行者は、私は

訳有りて諸国を行脚しているが度器の製法を知っている。老齢なので誰かに技を伝授したいと思っている、

あなたが望むなら教えたいと。三右衛門大いに悦び行者に就いて修行した。行者は2ケ月ほど滞在した後

何処ともなく去ったという。その後三右衛門は紺屋を辞めて曲尺の製作に励んだ。

寛政五年には三木金物問屋資料の棚卸帳に曲尺の在庫が載っていますが、三右衛門か三木の曲尺鍛冶が作

ったものかどうか分かりません。しかし寛政八年の問屋仲間から鍛冶仲間への差入証文に、大坂から来た

鍛冶屋から鋸・曲尺・鉋は買わないと書いてあるのでこの頃には三木に曲尺鍛冶が居た事は確実です。

 三木金物問屋資料の文政十一年(1828年)曲尺地目切鑿鉋鍛冶扣には、曲尺地扣として二十軒・曲尺

目切扣として十六軒載っている。この中の曲尺目切扣の初めから紅粉屋平兵衛・崎屋源左衛門・嶋屋万吉の

三軒は「〆三軒ハ廿ケ年以前大坂株入致候」と載っているので、二十年前文化五年(1808年)頃に大坂

文殊四郎曲尺目切職仲間に入っていた様です。

 
 この頃鍛冶屋が作った曲尺などの道具を大坂へ売るには、大坂文殊四郎鍛冶仲間の株を持っている事が必要

で、株を持っていない時三木の鍛冶屋の鋸や庖丁が大坂へ入り紛争が起こりました。

崎屋源左衛門に関しては三木市有文書の文化八年(1811年)「曲尺目切株仲間入許状写」「崎屋源左衛門

曲尺目切職開業願書扣」により文化八年に大坂文殊四郎曲尺目切株仲間に入っていることが分かります。

同じ時に曲尺目切職仲間に入り三木御役所へ開業願書を出し曲尺目切鍛冶を始めている。この時の目切職仲間

総代が嶋屋吉左衛門で文政十一年曲尺目切鑿鉋鍛冶扣に載っている嶋屋万吉の親だろう。

同じ三木市有文書の文化九年「曲尺仲間訴状控」によるとちょっとした紛争が起きています。滑原町曲尺
目切鍛冶嶋屋吉左衛門の職人久兵衛は、大坂の曲尺鍛冶葉屋又四郎の弟子だった。三木の嶋屋へ行き
親方又四郎に似た刻印で曲尺を作っている.。大坂文殊四郎仲間の申し合わせに背いているので、大坂へ
呼び戻して欲しいという葉屋又四郎からの訴えです。なぜか三木の曲尺鍛冶を訴えずに職人を訴えている。
 曲尺には目切鍛冶と地鍛冶と分業になっている。これはこの頃曲尺は玉鋼で作っていたための製造工程が多

く、一軒の鍛冶屋が全ての行程を作業していると、とても数が出来ないので分業する形になった様です。

三右衛門の子吉兵衛は文政十一年曲尺目切鑿鉋鍛冶扣の目切職三軒の後に曲尺屋吉兵衛として載っている。

この頃はまだ坪屋とは名乗っていません。

天保六年棚卸帳扣には曲尺目切鍛冶・曲尺地鍛冶共八軒載っていて、目切扣には二番目に三右衛門の孫が

坪藤・坪屋藤兵衛として載っている。三木金物問屋資料の棚卸量も文政十三年に比べ天保八年は二倍以上に

なっているが、目切鍛冶・地鍛冶共鍛冶屋の軒数は文政十一年に比べ半分以下になっている。一軒当りの

職人が増えたのだろうか。

幕末から明治にかけ藤兵衛は曲尺の品質を高め、多くの弟子を育て名工として世に知られて行く。三木町

先覚事跡考には藤兵衛は「其製法に一大刷新を加え曲尺の生命とする角度、目盛及び弾力に至るまで細心の

注意を拂い」とあります。藤兵衛は曲尺目切鍛冶ですが玉鋼から地鉄を作り、曲尺地鉄製鍛冶の仕事まで
して曲尺を作ったと思います。

 明治になり壺屋藤兵衛となり作った曲尺には壺藤の刻印を打っていたのだろう。壺藤の曲尺を持っている

大工は手当ても高いと云われた程の名声を得ていた。幕末頃には三木仲買問屋の強い販売力と三木の曲尺鍛冶

の努力によりにより、曲尺の生産量はすでに日本一だったと思われます。

 明治七年の府県物産表によると三木の所属する飾磨県が、曲尺の生産量は二万二千六十五挺ですが大坂府

や新潟県など他の県の生産量が載っていません。大坂府や新潟県は曲尺を作っていたはずですが三木より少な

かったのだろう。三木の曲尺は質量共日本一だったのだ。明治になり坪屋は壺屋と名が変わっています。

明治四十四年に金物問屋の黒田清右衛門により曲尺鍛冶六軒が集まり、播磨度器製作株式会社が下町で

設立され壺屋藤兵衛の子伊藤治も参加している。商標は壺屋藤兵衛の壺ト印を使い、明治四十五年には職工が

七十六人の会社になっています。

 明治45年頃大宮神社での播磨度器の社員

大正十年には大坂の岡崎度器製造所と合併し日本度器株式会社となった。本社は大坂に支社を三木に置いた。                    

しかしこの頃に三木の社内で異変があり、社員の多くが京都の山科の俣野度器へ移りその後三条へ行ってし

まった。その後三木支店は職工数十一名で度器の製作を行っている。しかし昭和三年の美嚢郡工業懇談会の

名簿には、日本度器の名前は無いので会社も無くなり、大正の終わり頃に三木での

曲尺鍛冶の歴史も終わってしまった。