鍛冶屋のつれづれ書き

バレーボール 三木クラブ

 私がバレーボールを始めたのは21・22歳の頃で青年団活動として始めました。当時同じ年頃の14・15人が町内の
 芝町青年団を4月に立ち上げ、1年目何か大きなイべントをしようとクリスマスダンスパーティーをする事を決めました。
 社交ダンスのコーチを呼んでみんなで練習を始めました。しかし男が多く女の子は二人で女の子を探すのに青年団のバレーボール
 クラブには女の子が多いと聞き、ダンスパーティーの勧誘をするためにバレーボールクラブに入ったのが始めです。ダンスパーティー
 は大成功でしたが私は買い物などで走り回りダンスは出来ませんでした。

クラブの練習は週3回夜7時から9時までで男女一緒で大勢クラブ員がいました。このクラブは三木クラブといって9人制のクラブで

東播バレーボール協会に加盟して明石公園のバレーコートへ試合に行っていました。あの頃いたチームは総合力の富士通明石・背の低い
 選手が多くレシーブ力の大和製衡・背の高い前衛の川重明石いろんなチームカラーのチームがありました。野天のコートで雨降りの時は
 試合中止、サーブは逆回転サーブといったのか、空高く打ち上げ相手コートには後ろからボールが落ちて来る。そんなサーブを打ち人も
 いて連続11点取られた事もありました。

三木クラブは男女のチームがありましたが2年ほど後は男だけのクラブになりました。一緒に飲んだり遊んだり同好会的なクラブで、

花火大会や忘年会に正月にはみんなでお酒を飲みお盆休みには4・5泊のキャンプに行きました。ある年お盆に日本海岸の佐津海水浴場へ

6人でキャンプに行きました。その日の晩に三木の知り合いに出会い一緒にお酒を飲んだ後、私が最初に気分が悪くなりその後次々5人が
 食中毒になり残った一人に真夜中病院へ連れて行ってもらいました。次の日は水も飲めず何も食べれずフラフラの状態で、私は車を運転
 して帰って来ました。原因は行く途中に食べた冷やしうどんだろう、しかし6人同じものを食べて一人何もなかったとは。その後高校の
 クラブでバレーボールをしていた若い人が入って来るようになりだんだん強くなってきました。

 

昭和50年私が27歳の時正月にみんなでお酒を飲んだ時、今年1年は仕事は二の次にしてバレーボールに打ち込み、全国青年大会の
 兵庫県代表を目標にがんばろうとみんなで話が決まりました。そして1月の初めから練習を始め、2月終わり頃まではボールを触らず
 体力トレーニングやランニングばかりでしたがほとんど全員参加していました。3月からボールを使った練習を始め知り合いの高校の
 クラブへ練習試合に行き、4月からは東播バレーボール協会の試合も始まりバレーボールばかりの日々になりました。もっとも私は
 全国レベルで試合をする力はないのは分かっていましたが練習は同じ様にしました。

私の身長は174cmでランニングジャンプ60cm、これでは明石公園の試合でも打つ打点より相手ブロックの方がはるかに高かった。

レシーブもそんなに得意ではなかったが、レギュラーのサーブレシーブ練習にサーブをよく打ったのでフローターサーブはうまくなり、

いい時はボールがよく変化をしてくれました。この年にクラブチームだけの全国大会クラブカップが初まり、県大会に張り切って出ましたが
 決勝にも出れず負けました。みんな一時落ち込みましたが青年大会目指しまた練習し、東播予選は難なく勝ちました。9月の県予選のため
 お盆休みには知り合いの淡路の別荘を借り東浦中学校のグラウンドを借りて合宿をしました。朝8時頃から約3kmの道路を走って
 グラウンドへ行き、昼食をはさんで午前と午後2時間練習して午後3時歩いて帰ります。帰りの商店街には酒屋が多くその度缶ビールを
 買って飲みながら歩いて帰りました。その後は宴会です、飲んで騒いで寝て翌朝また練習そしてまた飲む。

 練習は苦しかったけれど楽しい思い出しかありません。

          

                           出発する時旧市役所前で

9月の県予選は苦しみながらも勝ち県代表になれました。メンバーには大学生もいて東京遠征費用工面のため市内寄付にまわりました。

10月の秋祭りの3日間まわる事になり市内の金融機関や企業・ガソリンスタンドなど、三木青年団が兵庫県代表として東京へ試合に
 行きますと言うと大きな事業所は寄付金を出してくれました。その中でもあるガソリンスタンドへ行った時一見気難しそうな社長に話を
 しました、すると「えらい、たいしたもんだ。1万円出しましょう頑張ってきて下さい」と言ってくれました。寄付を貰った人の中で
 一番記憶に残っています。

東京へ出発する日三木市役所へ挨拶に行った後神戸で青年大会県代表の結団式に出て県代表のジャージーを貰いました。そのあと
 夜行列車で東京へ、三木からは三木クラブのメンバーの他に三木市連合青年団の役員3人も一緒でした。我々はもう青年団ではないので
 彼ら役員さんに三木青年団代表と認めてもらったおかげで三木青年団代表になる事ができ、そしてそのおかげで目標であった県代表に
 なれました。お礼を言って列車の中で酒を飲みました。

東京へ行って開会式が国立競技場で行われるはずでしたが雨で中止東京体育館で行われました。国立競技場で行進するのは感激するほど
 いいものだと聞いていたのでそれが出来なかった事が残念だった。東京体育館での開会式では日本体育大学生によるエッサッサと言われる
 団体体操は、初めて見ましたが大きな声の迫力ある体操で素晴らしいものでした。宿舎へ帰って夕食の後大阪体育大学生のクラブ員が
 「今から大阪体育大学名物ホイサッサをします」と言ってさっきのエッサッサの様な体操を始めました。みんなで笑って笑い転げました。

         

                          東京体育館で試合前

この時応援旗を作ろうという事になり、当時プロ野球では広島カープが赤ヘル軍団と言って強かったのでふとんのシーツに、「頑張れ
 三木軍団必勝三木クラブ」と書かれた旗を持って行きました。東京最後の夜その旗にみんなで寄せ書きして、バレーボール女子の兵庫県
 代表の女の子にもしてもらったと思います。あの旗は何処へ行ってしまったのだろう。次の日から試合が始まり、1回戦は不戦勝で2回戦
 の相手は鳥取県代表だったと思います。緊張しましたが2-0で勝ち次の3回戦もストレートで北海道代表に勝ち一日目の試合は終わりました。

他の試合を見ていて佐賀県代表だったか前衛中衛の選手に背の高い選手がいるのに攻撃はほとんどレフトオープンばかり。そのの選手は身長
 180cmもない位だが高さと滞空力のあるジャンプで、ボールのネット上の通過点は高くドライブをきかしてバックライン辺りに打ち込む。
 すごい選手がいたな。

二日目の試合は準々決勝で神奈川県代表と試合になりました。強い相手で試合にもう負けるという少し前に監督の松井さんが、「山ちゃんバック
 に出るか」と言われましたが「神吉を出したら」と二十歳位のバレーを初めたばかりの神吉君に譲りました。ところがコートへ入ってなぜか転んで
 しまいボールにも触られず、すぐに試合に負けてしまいました。後で「お前は転びに出た様なもんやな」とみんなに冷やかされていましたが、
 これからの選手に大きな大会の試合に出て経験を積んで欲しかったからです。ベスト8で4位の表彰状を貰いました。
  その日の宴会はおいしいお酒が飲めました。この年三木クラブ員はバレーボールに打ち込み目標であった全国青年大会に出る事ができ、
 その上二勝して4位になり最高の年でした。私の事で今思えば青春という言葉で連想するのはこの1年の事です。

             

                        試合の終わった後前列一番左が私

昭和52年にはクラブカップの県代表になり大阪へ行きました。セッターのトシタケ君レフトオープンのコーイチ君ライトオープン
 のビンちゃんら、中心選手は東京へ行った時とほぼ同じメンバーでチーム力は上がっていました。そのため県予選は勝てると思って
 いたのだろう、もう予選の事は覚えていません。1回線は茨城県代表の鉾田クラブでエースは1m90cmを越える程の選手だったが
 2-0で勝ちました。

2回戦は宮崎県代表の都城クラブで強いチームです。第1セットは三木クラブが取り第2セットは競り合って最終局面1・2点リードして、

もう1点取ればほぼ勝てるという時、エースのビンちゃんがきれいに上がったオープントスをふかしてしまいました。結果ジュースに
 なりセットを取られてしまい、第3セットも競り合いながら取られ試合に負けました。それでも誰も何も言いません、あの場面はエース
 のビンちゃんしかいないそれでだめだったらしようがない。それがチーム全体の思いだったと思います。都城クラブはその後勝ち進み
 準決勝か決勝に残ったと思います。この時北播バレーボール競技会でよく試合をしていた西脇クラブの人が、三木クラブの知り合いを
 自分のバスに乗せて大阪まで応援に連れて来てくれました。このバスは西脇クラブ男女のメンバーを明石へ試合に連れて行く為自費で
 買ったと思います。昔はすごいバレーボールきちがいがいたものだ。

 

昭和54年の9月か10月頃セッターとレフトオープンが若い人に代わった時だった。全日本9人制総合県予選の前日の練習の時
 サーブレシーブが悪くレフトオープンもミートがイマイチ、これでは明日はあまり勝てないなと思いました。次の日試合場へ家内と
 2歳の息子を連れて行くのに出かけるのが遅くなり、明石公園の下の駐車場は入れず上の駐車場も待つ車が並んでいる。待って試合場
 へ行ってももう負けているかもしれない、と思い他へ行ってしまいました。

 次の日新聞を見ると決勝戦で三菱電機に負けている、しかし決勝までよく残ったな。月曜の練習日に体育館へ行くと監督のトシタケ君が
 「山本さん勝ったで、今度は岡山や」と、全日本9人制総合大会はレベルの高い県は2チーム出場できるので兵庫県は2チーム出場出来る
 そうです。試合の事を聞くとやはり始めはサーブレシーブがきっちり上がらずアタックはミスをするしひどい状況で、ある東播協会チームの
 人から「お前ら何しとるねん」と言われたそうです。しかしくじ運が良かったのか初めは弱いチームと試合して練習代わりになり、
 だんだん調子が上がってきてとうとう決勝まで行ってしまったそうです。もともと地力はあったのだが、こんな事もあるものだ。

11月22日全日本総合男子選手権大会の前日の開会式にはレギュラーがそろわず、我々年寄り連中が開会式に出席するため車
 2台で開会式のある倉敷中央体育館を目指しました。倉敷市内へ入り中央体育館はどこか聞きましたが誰も知らず、あせりながら聞き
 まわりある交番で「そういえば水島に大きな体育館が出来たと聞いたな」と。場所を聞くとかなり遠く、体育館へ着くともう薄暗くなって
 開会式が終わり大勢の人が体育館から出て来るところでした。開会式の状況を聞くと他のチームはそろいのユニフォーム全員そろっているが、

三木クラブはばらばらのジャージーで5・6人が並ぶ悲惨な状況だったそうだ。宿泊は三木バレーボール協会会長の渋谷さんが
 郵便局に勤めていた関係で岡山市内の郵政省指定の旅館に泊まりました。

         

                           倉敷での試合前の整列

次の日試合が始まりまずグループ戦で、3チームが2試合して1勝すれば次のトーナメントに進めます。1試合目の日産ディーゼル
 は強かった。見ていてオープンに対して相手4枚ブロックは高くすき間なく打つところがない。ベンチで見ていると穴はよく見える
 ものだが、相手ブロックにはそれがない。完敗です。次の長野県代表のオルガン針にはブロックに穴があり難なく勝ち、次の日の決勝
 トーナメントに進む事が出来ました。会長の渋谷さんや松井さん広田さんは仕事の関係で帰る事になりましたが私は残りました。
 遅くまで抽選のため監督のトシタケ君と残り抽選になって、「山本さんくじ引いてか、みんなに日産ディーゼルだけは引かんといてと
 言われとるねん。山本さんが引いたら誰も文句言へんから」と。引きます、引きます。こんな事二度と出来ないから。

抽選が終わってお酒を買って宿舎へ帰りました。食事の後酒を飲みながら明日の事を調べるといいくじを引いています。


  1回戦は不戦勝で2回戦の相手は三重県代表の昭和石油四日市です。グループ戦のデータを見るとそんなに強くない感じで、いい試合
 が出来そうだと分かり頑張ろうと酒を飲んで盛り上がりました。次の日試合前にウオーミングアップをしていると隣にそろいのジャー
 ジィーで真剣な表情で同じ様にアップをしているチームがある。それが対戦相手の昭和石油四日市で強そうに見えました。

昭和石油四日市と試合が始まりました。最初から三木クラブがトントンとリードして行く、そして相手追い上げてきてちょっとやばいな
 と思うと向こうがミスをする。そんな事が続いて第1セットを取り、第2セットも同じ様な展開で2-0で勝ちました。

 

次の試合は岐阜教員と日本光学の試合の勝者と対戦しますがその試合がすごかった。岐阜教員は大学のクラブでバレーボールをしてきた
 6人制の選手の集まりで日本光学は9人制のチームだ。どちらもアタック・ブロック・レシーブすべてレベルは高く互角の感じだが、日本
 光学のエースがあまり決まらず第1セットは岐阜教員が取りました。第2セットは日本光学の第二エースの踏ん張りで取り、フルセットの
 最後で日本光学の第二エースが岐阜教員のブロックにかかり日本光学が負けましたが、どちらが勝ってもおかしくないいい試合でした。

次の相手はその岐阜教員で勝てる訳がありませんがおもいきって当たりました。しかし向こうの攻撃はすべて決まりこちらは前衛中衛4人
 が攻撃してもほとんど相手コートにボールが行かず、やっとコーイチ君のフェイントが決まりました。完敗でも納得。この時三木中出身の
 戸田君が日体大のチームで来ていました。結果はベスト16に入り三木クラブとして最高の成績を修めました。優勝は岐阜教員でした。

その後も三木クラブは活動していましたが全国大会へ行く事は出来ませんでした。