鍛冶屋のつれづれ書き 

          三木鉋誌
  一 鉋の移り変わり

日本では木を削る道具としての鉋の初めは少し曲がった槍の様な槍鉋が始めて出来ました。使い方は
木目の通った杉や檜を鑿や割り鏨などで打ち割り、表面をチョウナで荒削りをした後槍鉋で表面を削り
柱や板に仕上げていました。古墳時代から法隆寺が建てられた飛鳥時代も槍鉋が使われています。
 平安時代や鎌倉時代には中国では押して使う台鉋が使われていましたが日本では槍鉋が使われて
いました。 これは日本には建築材料としては杉や檜などの、木目の真っ直ぐに通った良い建築材料が
豊富にあっ たからです。しかし室町時代の終わり頃になると杉や檜などの良い建築材料が少なくなり、
木目のねじれた松や欅などの木を建築材料に使う様になった。この頃から縦挽き鋸の大鋸(おが)
で挽いた柱や板の表面を、押して使う台鉋の押し鉋で表面を仕上げる様になった。
 押して使う鉋から日本固有の形である引いて使う今の台鉋の形になった時期は、よく分かっていませ
んが江戸時代頃だといわれています。職人の世紀といわれる江戸時代中頃になると表面を削る平鉋だけ

でなく、曲面を削る外丸・内丸鉋や角を削る際鉋など、いろんな用途の特殊鉋も作られるようになった。
 
 鉋刃は鍛冶屋が作ったと思いますが台打ちはすべて使う大工がしていました。この頃の大工は建築
技術はもちろん刃研ぎから台打ちまで幅広い技術を持っていた様です
 江戸時代の鉋は刃は薄く丈の短い刃で押金の無い一枚鉋で使っていた。明治になり日露戦争の頃に大
工の質が落ちてきて使い易い逆目の止め易い押金の付いた二枚鉋が考案された。それにより鉋刃の幅も
丈も大きくなった。
今までは外丸・内丸鉋や際鉋などの特殊鉋は三木にも専門の鍛冶屋や台屋が居たが、現在では需要が 
少なくなり特殊鉋の鍛冶屋も台屋も居なくなっている状況です。平鉋にも荒削り用の荒シコや中シコ・
仕上げ用の上シコなど種類があったが、電気カンナが出来てからは現在では最後の仕上げ用に使われて
います。

  二 三木の鉋・鉋鍛冶の歴史

1、三木の鍛冶屋伝承の時代

 
三木市志染町の古墳から鉄製の釘が出土しました。その形が葛城地方の忍海地区で、多く発掘され
る釘と形が似ているそうです。そのため忍海の鍛冶屋が三木の志染に来て作った釘だろうといわれて
いますが、忍海地区から持ち込まれたものかもしれない。鍛冶遺跡が発掘されるといいのですが。
日本に仏教が伝来した頃朝鮮の百済の王子が一族を連れて来て、三木の東に聳える丹生山に明要寺を
作ったという事が丹生山明要寺縁起にあります。王子恵は童男行者とも呼ばれ丹生連山の西のシビレ山
西麓の、戸田に連れて来た仏師や大工や鍛冶屋と共に定住し丹生山頂に明要寺を建設したといわれる。
この時三木の地に韓鍛冶が来た、これはあくまでも伝説です。
 
 延暦八年(789年)に播磨国美嚢郡の長官だった美嚢郡大領韓鍛冶首広富(みのうぐんたいりょう
からかぬちのおびとひろとみ)という人がいて加古の船瀬に稲六万束を寄進してひとつ上の官位
を貰っています。当時三木の辺りに韓鍛冶の集団がいてその親分的な人がいた事は確実です。
しかし江戸時代まで約千年も年が離れているので、この鍛冶集団が今の三木の鍛冶屋に繋がるとは 
いえないと思います。
 
 応仁の頃大和の国で瓦大工として有名な橘という一族が播磨に来て寺院の瓦を作りかけている。
その後三木に別所氏が拠点を築き城下町を作った後、木工職や紺屋を保護し定住を奨励したといわれている。
そのため城下町に税を取らない様にしていた。そのためだろう天文十四年(1545年)橘神左衛門国次が。
三木住人になっている。そして次の年に清川と性を変えている。
 
 その子たちが作ったのは姫路の円教寺の金剛堂の鯱瓦で天文十七年(1548年)の作で在名の鯱瓦
としては日本一古い瓦です。阿形は「三木住人瓦大工橘甚六年甘一之作其時天文十七年六月甘二日」と
吽形は「三木住人橘亀千代其年十八才年作其年天文十七年六月甘四日ナミアミダブツ」と兄弟で作って
います。橘一族は六十年以上播磨で瓦を作った後大和へ帰っているが、その中で清川神左衛門国次は
そのまま三木に住んでいる
三木に住んだ理由は三木には木工職の大工が多く住んでいて、瓦職人が仕事のつながりで便利だった

2、思われる。それで三木に大工がいた事は確実ですが、大工の道具を作る鍛冶屋がいたかどうかは
分かりません。しかし多くの大工がいるとその道具を作り修理する鍛冶屋がいたと思います。
 
 そして明応元年(1492年)別所則冶が釜山城を築き別所氏が栄えてくると、城下町として武士が
多く住んでいるので、刀や槍や鎧などを作り修理する鍛冶屋はいたはずだ。と考えると別所氏の時代に
はもう鍛冶屋はかなりいたと思われます。これが三木の鍛冶屋の始まりかも知れない。

 三木の瓦として特筆事として姫路の円教寺の金剛堂の鯱瓦で、天文十七年(1548年)の作で在名の
鯱瓦としては日本一 古い瓦です。阿形は「三木住人瓦大工橘甚六年甘一之作其時天文十七年六月甘二日」
と吽形は「三木住人橘亀千代其年十八才年作其年天文十七年六月甘四日ナミアミダブツ」と兄弟で
作っています。 この二人は清川神左衛門国次の息子です。
別所氏は木工職だけでなくいろんな職人や商人を集めていたらしい。野里の鋳物師助四郎という人も別所氏の家来の
様な形で鋳物師の親方だった。鋳物師は農具も作っていたから鍛冶屋の親方だったかもしれない。助四郎は釜山城に
籠城していた事も分かっています。


 2.三木の鍛冶屋の再興期

 別所氏滅亡の後三木の領主はかなり代わっています。この頃の三木の状況としては秀吉の出した地子
免許の制札の効果で、三木の復興のため大工が大勢三木に来ています。三木での仕事が終わった後も、
大工は地子免除の特権のある三木に住んで居ました。この頃から大勢の大工の使う道具を作る鍛冶屋が
居ただろうと、云われていますが居たのかどうか資料はありません。
 
 三木の鍛冶屋の資料は寛保二年(1742)の三木町諸色明細帳が初めです。ここに鍛冶屋として鏟 (せん)
鍛冶一軒と野道具鍛冶八軒と業種不明の鍛冶屋が三軒載っている。この野道具鍛冶八軒と業種不明の
三軒の鍛冶屋が作っていたのは、一般の人の使う道具だけではなく大工の使う道具も作っていた
かもしれない。
 しかし隣の明石町の享保六年(1721年)明石町諸商人・諸職人一覧によると明石町の戸数は
千九百三軒でその内鍛冶屋は四十七軒です。同じ様な頃の寛保二年(1742年)の三木町諸式明細帳
には、三木町の軒数は七百八十三軒で鍛冶屋は十二軒と載っています。戸数に対する鍛冶屋の割合は
明石町で2、4%、三木町は1、5%となっている。

  
    寛保二年(1742年)三木町諸職人・諸商人一覧
 

 諸職人

軒数  

諸商人  

軒数  

その他 

軒数 

 大工

 140

質屋 

 18

傀儡師

七組 

 木挽

  26

 木薬屋

  5

 

 56

 樽屋

 48 

小間物屋

 13

造酒屋

 17

 形屋

 16 

 米屋

 18

 

 

 紺屋

 26 

 毛綿屋

 13

 

 

 檜物屋

  4 

 古手屋

 5 

 

 

 鍛冶屋

 12 

 豆腐屋

 17

 

 

 研屋

  1

 材木屋

 2 

 

 

 瓦師

 2 

 干鰯屋

 11

 

 

 左官

 1 

 味噌屋

 16

 

 

 たび屋

 3 

 菓子屋

 3 

 

 

 塗師屋

 1 

 魚屋

 10

 

 

 畳屋

 11 

 

 

 

 

わたくり屋

  2 

 

 

 

 

   計

 293

 

131

 

 24

明石町は城下町で侍がいて侍のための刀などの鍛冶屋がいて、そのため鍛冶屋が多かったかもしれな
いが、三木町の十二軒の鍛冶屋の数は普通の城下町より割合が少なく、この頃はまだ鋸などの道具を
他所へ売るために作る鍛冶屋は居なかったと思われます。
 三木町民の道具を作る鍛冶屋だったのだろう。特に樽屋が四十八軒と多く樽や桶を作る時に使う鏟
を作る鍛冶屋が一軒ありますが、他の鍛冶屋も鏟を作っていたと思います。しかしその六年後の文書に
は鏟・釘・やすりを作る鍛冶屋が出て来ている。この頃から三木で金物の生産が始まったのだろう。

 宝暦十三年(1763)には道具屋太兵衛が明和二年(1765)には作屋清右衛門が金物仲買問屋を
創業した。この頃に山田屋伊右衛門と前挽屋五郎衛門と大坂屋権右衛門が京都前挽鍛冶仲間に入り、
三木で前挽鍛冶を創業している。この年以降になると鋸や庖丁を作る鍛冶屋が開業して三木金物の生産
が多くなって行く。しかしこの頃にはまだ三木には鉋の鍛冶屋は居なかっただろうと思います。
 三木金物問屋資料に寛政四年(1792年)の棚卸帳の定法扣にヤマサン印の鉋の買値が載っている。
“セバ”一寸四分・“中セバ”一寸六分・“広”一寸八分・1寸二分の4種類の鉋が書いてある。この頃
使われていた鉋の寸法なのだろう、今では小鉋の幅のサイズです、やはり現在使われている鉋よりかな
り幅が狭い。
そして寛政五年の問屋資料には鉋の在庫量が載っています。この頃にはもう鋸鍛冶や庖丁鍛冶は多く
いて、鉋を作る鍛冶屋も居たと思われますが、この在庫の鉋が三木で作られたものかどうかは分かりま
せん。

3.三木の鉋の黎明期 
 
 寛政八年(1796)に作屋と道具屋の二軒の金物問屋から三木鋸鍛冶仲間にあてた差し入れ証文
には、大阪から三木へ来た鍛冶屋から鋸・鉋・曲尺を買わないと書いてあるので、この頃には三木で鉋
が作られていた事は確実です。
 この頃までは三木の金物問屋は三木の道具鍛冶から道具を買う約束をしていたのだろう。しかし
三木の金物問屋の販売量が増えてきたので、大坂から来た鍛冶屋からも道具を仕入れたのだろう。
その事を問屋へクレームを入れたため問屋から出た証文だろう。
しかし三木では鉋の生産量は少なく、
 
 金物問屋は他所から来た鍛冶屋や大阪から鉋を仕入れていたのではないかと思います。
文化元年から江戸打物仲間と三木の金物問屋である作屋と道具屋との直接取り引きが始まり、三木の
金物産業が発展して行き道具の生産が増えたと思いますが鉋に関しての資料はありません。
 文化七年(1810)の棚卸帳にはのミ・鉋・釿(ちょうな)の在庫量が九百六十匁六分で、地出来
鉋壱貫三百五十九匁七分と載っています。地出来鉋とは地元で作られた鉋の事だろう、地出来鉋の言葉
が載っているので他所からの鉋もあったはずだ。しかし地出来鉋の方が量が多く三木の問屋の販売する
鉋は、この頃以降はほとんど三木の鉋鍛冶が作るようになって行っただろう。
 
 鑿に関しては寛政八年の差し入れ証文には鑿の言葉がなく、文化元年の棚卸帳にも地出来鉋はあるが
地出来鑿の言葉がなく、在庫量も少ないのでこの時はまだ鑿鍛冶は居なかった可能性が高い。
文化十二年の諸鍛冶連名に中庄鉋と藤佐鉋の二人の名前が出てきます。三木の鉋鍛冶として出て来た
最初の名前です。中庄とは庖丁鍛冶中屋庄兵衛で藤佐とは藤屋佐兵衛の事です。中屋庄兵衛が鉋を
作ったのはこの頃短い時期だけだった様で、鉋鍛冶が少ないので金物問屋の作屋から鉋を作る事を
要請されたのかもしれない。
 藤屋佐兵衛は三木の鉋鍛冶の元祖と言うべき人です。文化十五年にはまだ鉋鍛冶株を持った人は
藤屋佐兵衛だけの様ですが、鉋の需要は増えて来ているので他の鍛冶屋が鉋を作っていたのだろう。

4.三木の鉋の発展期

 文政年間になると三木の金物問屋の販売力も強くなり鉋鍛冶も他の道具鍛冶も増えています。三木の
鉋鍛冶の生産量も増えて行ったと思います。文政十一年(1828)の曲尺目切鑿鉋鍛冶扣に鉋鍛冶として
5人の名前が出てきます。
 藤や金蔵・藤や治兵衛・東這田吉衛門・前田弥三吉・来住や亦兵衛この中の藤や治兵衛という人は、
文化十二年の諸鍛冶連名に出た藤や佐兵衛の子供だろう。これ以降鉋鍛治の第一人者として問屋資料の
中に時々出てきます。同じ時の鑿鍛冶扣に中屋国松が載っています、この人は黒川鉋鍛冶系統の初めの
人で中屋九兵衛の父だと思われます。鑿鍛冶も五人名前が出ていて鑿も生産が多くなっていていると
思います。
 
 天保年間になると問屋の力が強くなり鍛冶屋を系列化に置く様な事が多くなり、それが行き過ぎた事
が起こっています。天保五年(1834)に仲買問屋三軒が連名で鉋鍛冶仲間へ仲買問屋衆詫証文扣を入れ
ている。三木町や東這田村の鍛冶屋が他の鉋鍛治の偽刻印を作り、それを打った鉋を問屋が仕入れて
売ったことの詫び証文。
 問屋の支配が厳しい時でも鉋鍛治は自分の刻印を持っていた。現代の鋼と違って熱処理の難しい玉鋼
を使っていた当時、鍛治屋の腕により品質に差が有り腕のいい鍛冶屋の刻印は価値があったのだろう。
そのため問屋は作った鍛冶屋と違う鍛冶屋の刻印を鉋に打って売ったのだろう。
 
 天保六年(1835)の棚卸帳には鍛冶屋の名前がたくさん出てきます。前挽き・鋸・引き回しまで品名
が書いてあるので何鍛治か分かりますが、他の鍛冶屋ははっきりとわかりません。しかし鉋鍛治は、
『藤治』こと藤屋治兵衛そして『這吉』こと東這田吉右衛門は、文政十一年の鍛治控扣に載っている
ので分かります。他に『中九』こと中屋九兵衛や『材安』こと材木屋安兵衛や『桶小』の五人は
鉋鍛治です。もっといるように思いますがわかりません。

 またこの年の棚卸帳に初めて鍛(きたい)鍛治として『吉平』『生野屋』の名前が出てきます。この
鍛鍛冶というのは鋼の原料の玉鋼を鍛えて板状の鋼にする鍛冶屋です。問屋が鍛鍛冶に板状の鋼を作ら
せそれを鉋鍛冶屋に支給し鉋を作らせる。そのためそれぞれの鉋鍛冶が鋼作りの行程が省かれて鉋の生
産効率が良くなったと思います。この鍛鍛冶の出現により鉋だけでなく三木金物全体の生産量が増えた
と思います。
 そして中庄古道具が載っています。これは三木で初めて鉋を作った鍛冶屋として名前の出た中屋庄兵衛
が庖丁鍛冶を廃業して作屋へ道具と鍛冶株を売ったのだろう。
弘化四年(1847年)には天保六年には二軒だった鍛鍛冶は作屋利左衛門・井筒屋源七・生野屋友吉・
材木屋安兵衛の四軒になっている。鋼作り作業の分業化が進み鉋をはじめ、三木の金物の生産量
が増えたと思います。
 
 この頃当時三木の領主だった明石藩の財政状況が悪くなり、藩内からいろんな名目を付けて冥加金を
集めている。この時「諸商売取締り」と称する明石藩の冥加金の要求に鍛鍛冶は一人が銀六十匁を五年間
上納している。材木屋安兵衛は鉋鍛冶もしています、鍛鍛冶と鉋鍛冶の二つの鍛冶株を持っていたようです。
金物仲買問屋はこの頃には大幅に増えて十一軒になっていて、それぞれ
が銀150匁を五年間上納しています。

嘉永二年(1849)に三木の肥切包丁職仲間と金物問屋仲間との間で値上げ交渉がまとまらず、
肥切包丁仲間は加東郡太郎太夫村の善助という人と独占売買の約束をしてしまった。その為に三木の
金物問屋に肥切包丁が入って来なくなり、三木金物仲買問屋衆が鉋鍛冶中屋九兵衛に肥切包丁の製造を
要請した。
 その元手金として九兵衛は金十両を受け取っています。 鉋鍛冶中屋九兵衛が肥切包丁鍛冶株を持ち、
職人を雇って肥切包丁鍛冶の仕事をさせたのだろう。 鍛冶仲間が団結しても資力と販売力のある
問屋仲間が自分たちの意思を通し鍛冶仲間を抑えていった様です。
 
 嘉永七年(1854)頃には問屋の販売量も多くなってきて、棚卸扣の鉋の在庫量が大幅に多くなって
います。嘉永以前と比べると二.三倍位になっています。鉋鍛冶としては、嘉永七年の道具買帳に、
藤屋治兵衛・中屋九兵衛・材木屋安兵衛。東這田杢兵衛ら合わせて六.七人載っています。
 安政四年(1857)正金銀取扱諸商人名前調帳という三木町の人で他所の人と取引をしていた商人
の名簿があります。その名前調帳に鍛鍛冶として池田屋善右衛門と井筒屋久七と共に中屋九兵衛が載
っている。そして同じ年の町諸役人諸仲間歴名にも庖丁仲中屋九兵衛が載っている、これは肥切庖丁
仲間の事だと思います。
 
 このように九兵衛は鉋鍛冶と鍛鍛冶と庖丁鍛冶の株を持っていて、人を雇って大きく仕事をしていた
様です。慶応二年には新町宿老という新町の行政を代表する役に就いています。そしてこの頃には息子
の太市郎は明石藩主松平候の知遇を得、黒川という姓をもらい明石藩御用刀剣鍛冶師刀匠銘「東播住人
源利行」として高名な人になっていました。

 この頃鉋鍛冶は原材料の鋼や和鉄を問屋から支給されて鉋を作っていた。普通の和鉄はシマという鋼
の部分を含む鉄が多い。民具や建築金物に使う和鉄はシマがあっても使えますが、鉋など刃物に使う
地鉄はシマがあると焼入れした後、シマが硬くて刃研ぎをする時荒削りする鏟がかからない。そのため
刃研ぎが出来ないので問屋は刃物用の地鉄はシマのない和鉄を注文していたと思います。
 
 江戸時代の鉋は今と比べて幅も小さく厚みも薄く、地鉄の質もバサバサのもろい感じの和鉄を使って
いるものが多い。鑿は今の鉄と同じ様に太くしっかりとした和鉄を使っています。これは鑿が叩いたり
捻ったりして使うため地鉄に強度が要求されるためだろう。鉋は台に仕込んで使うため鉋刃に強度は
必要がないためだろう。しかし鋼は介在物の少ないいい玉鋼を使っているものが多い。

5.三木の鉋の変革期

 明治元年(1868)には中屋九兵衛は鍛冶職株取締役という役についていて三人の同役と共に鍛冶
職株取締役訴状を奉行所に出しています。内容は鍛冶株を持っていない人が鍛冶屋をしているので
取り締まって欲しいという訴状です。
 明治初年頃の鉋鍛冶屋の状況は有名な親方として黒川・小山・藤原・がいました。江戸期に比べ人が
代わっているようです。小山系統の小山清次郎が明治元年に創業しているが親方が分からない。
藤屋冶兵衛の子が藤原という親方でその後を藤原滝蔵が継いだと思われますが断定出来ません。

 明治三年には材木屋安兵衛の弟子であろうと思われる材木屋吉兵衛が、広田家に養子に入り広田重吉
として鉋鍛冶を創業する。岡崎伊之助を鉋鍛冶の親方に育てていますが、後に鉋から鋸に業種が変ったようです。
 この頃から鍛冶屋が作業していた刃付けを専門の業者に外注し始める。 この頃はきたい鍛冶は増井佐吉
・原・中本・井筒屋・加賀源の五軒ありました。井筒屋は井筒新吉 さんで加賀源は加賀から来た
鉄砲鍛冶だった。
 
 明治七年(1874)に明治政府により「府県物産表」が作られていてそれによると、三木町の所属
する飾磨県の鉋の生産量は97743挺・新潟県は8263挺・大阪府は39176挺・愛知県は
25350挺・東京都は7995挺です。
 鋸・鑿・鉋曲尺などの本職用大工道具の生産量は、三木の所属する飾磨県が一番多かった。もうこの
頃から三木は鋸・鑿・鉋などの本職用道具の生産量は日本一の産地だったのだ。しかし剃刀の生産量が
載っていない、作られていたはずだが。
 この頃はまだ新潟県の鉋の生産は少なかった、東京には鉋鍛冶も多くいてもっと生産量は多いと思っ
たが。大坂が多いのは分かりますが、愛知県がこれほど多いのは意外です。
 
 三木の鉋の生産量約10万挺で鉋鍛冶の軒数を考えると、一軒で親方と弟子と二人で一日約十五挺作
り年間ざっと4000から5000挺として十五軒から二十軒位だろう。
 明治になって以降維新の混乱で落ち込んだ三木金物の販売量も、年を追う毎に回復し明治十三年
(1880)に一番多くなっています。
 この年に鋸鍛冶の井筒新吉が伏見稲荷神社参拝の帰途、神戸市兵庫区島上町を通っていると輸入陸揚げ
された板鋼が目に付いた。鋸鍛冶だった氏は閃くものがありそれを買って持ち帰り鋸を打ったという。
これが三木での洋鋼の使用の始まり。これは全国的に見ても早かったと思われます。

 三木金物は明治以降この年に最高の生産と販売をして好景気になったが、この年以降洋鋼使用の金物
の販売が落ちてしまう。多くの鍛冶屋は洋鋼を使ったが、洋鋼への対応を誤ったのだろう明治十七・
十八年頃になると販売不振になって行き、明治十三年に比べ販売量は15%くらいに激減している。
三木の鍛冶屋や職人が半分くらいになってしまった。
 
 その原因は不景気になった事もあるが洋鋼使用により、洋鋼に合った鍛接・鍛造・焼入れが出来ず
声価を失墜したためである。鍛接の行程において大きな違いは玉鋼は沸かし付けにより鉄と鍛接しますが、
洋鋼は接合剤を使って鍛接しないと切れる刃物は出来ません。接合剤を見つけ最適な温度で鍛接する、
これを覚えるのに苦労しただろう。一度失った信頼を取り戻すのは難しく元に戻るのに十年近くかかっている。
 この頃の鉋鍛冶の状況は分かりませんが、各鍛冶は問屋とも必死に洋鋼の研究した事が想像されます。
そして洋鋼に対応できない鍛冶屋は辞めていったと思われます。
 
 明治十四年に鉋鍛冶の小山清治郎と石井真吉と平井鐵蔵が金物問屋仲間へ盟約書を出している。私達は
西洋鋼と鐵を使いませんという盟約です。この時今までの和鋼和鉄派と洋鋼派に別れて鉋を作ったのだろう、
しかしこの三人がいつまで和鋼和鉄で鉋を作っていたかは分かりません。そんなに永く和鋼和鉄を使っていた
とは思えません、時代は洋鋼洋鐵の時代になってきています。鋸鍛冶の同じ盟約書が残っているので幾人かの
鋸鍛冶が出したのだろう。
 
 三木金物問屋資料の明治三十年の東国帳に取引先として東京都千代田区神田町で黒川太市郎は
福島幸太郎として載っています。明石藩御用刀剣鍛冶師だった太市郎は版籍奉還の後殿様に付いて行き、
東京に住んだそこで道具屋をしていたようです、殿様に貰った姓で商売をするのを控えたのだろう。
鍛冶屋はしていなかったと思われます。
 東日本の刃物産地である会津は、日本古来の玉鋼から洋鋼に切り変える時期が遅れていた。明治
三十一年にもう洋鋼に変わっていた三木へ研修の為、会津の鍛冶屋藤井重正が来て数ヶ月居たそうです。
この頃まで鉋は鉋刃だけ地方へ出荷し使う大工がそれを台打ちしていた。
 
 黒田商店に明治三十三年の藤原滝蔵の通が残っています。その中に支給されたものとしてスタル鋼と
釜地が載っています。この頃の鉋は角棒のスタル鋼を鍛造して鋼にし、釜地を鍛造して鉋の地鉄にしていた。
もう和鉄を使っていないのは和鉄の生産量が減り価格も高くなったためだろう。
 明治三十五年(1902)頃に徳永順太郎が三木で初めて鉋台打ち業を始める。この頃より問屋が鉋鍛冶屋から
鉋を仕入れ、台屋で台打ちをして地方へ出荷する様になった。
 明治三十六年の鍛冶屋名簿が黒田古文書にありました。鉋鍛冶は二十三軒あり黒川卯太郎が筆頭に名前が載っています
 
黒川卯太郎 小山清治郎 藤原滝蔵 吉田栄吉 増井浅吉 岩井作二郎 小谷寅蔵 山田兵太郎 
 平井鉄之助 山田定吉 藤永作太郎 井筒合名会社 中本覚蔵 青田仙太郎 中西卯之助 木下梅三郎
 上掘藤蔵 井上文吉  田中米三郎 田中熊次郎 杉山伊之助 森本音吉 藤田彦三郎」 
 
 二十四軒の鉋鍛冶が載っています、昭和三年の名簿と比べると十軒ほどが続いているようです。
 これまでは押金のない一枚鉋が日本で使われていたが、鉋で板を削る時一枚鉋では逆目を止めるのは
難しく、明治三十八年(1905))頃から逆目の止めやすい押金の付いた二枚鉋が考案され使われ始める。
これにより鉋の丈が長くなる。

6.三木の鉋の繁栄期
 
 明治四十四年(1911)に「黒川君の碑」が建てられた。この石碑は三木の鉋鍛治の中で一番長い歴史
を持つ、黒川家の当主黒川卯太郎の弟子たちと、友人たちによって三木の大宮神社に建てられた石碑
です。碑文には卯太郎の業績が刻まれ台座には弟子達の名前が、玉垣と花生けには友人と鉋鍛冶の
親方衆の名前が刻まれています。
 黒川卯太郎は明治二十三年に魚住福三郎を弟子に採った後多くの弟子を育てています。分かっている
だけで十八人の弟子を育て、明治四十五年に魚住福三郎が親方になって魚住鉋製作所を開業した後、
弟子の約半数の九人が親方になっています。その後その親方達が弟子を育て三木の鉋鍛冶の中で大きな
割合を占めています。
 
 この頃鉄道で全国へ行ける様になり三木の金物問屋が積極的に出張販売に行く様になった。それに
連れて強い販売力を持って行き、そして金物の生産が多くなり三木の金物産業はますます発展して
行った。その為だろう大坂からは鉋鍛冶の金沢伊之助や刃研ぎ職人や鞴作り職人の亀井幸左衛門など
の金物関係職人が三木へ多く来ています。
 大正四年(1915)年には鉋鍛冶の軒数は21軒だった。これは「三木金物の変遷を語る座談会」
で横山藤太郎さんの言葉で残っています。これ以降大正年間は鉋鍛冶の軒数は多くなり生産量も増えて
行きます。
 
 大正の中頃より鍛冶屋と問屋との取引形態が変わってきた。それまでは金物問屋から原材料を支給
されて鉋を作りそれを問屋に納め半年で決済する取引形態だった。それが変わってきて鉋鍛冶が地金屋
(じがねや)や鉄鋼商から原材料の錬鉄や鋼を購入して鉋を作るようになった。鉋の地鉄が和鉄から
同じような性質の錬鉄に変わったのは何時か分かりませんが大正の頃には錬鉄を使っていたようです。
 地金屋さんは金床を作っていた三木金床合資会社や光川鉄工所の前身の光川商店です。鉋に使える
錬鉄を探して来て鉋の地鉄の幅と厚みに鍛造していました。その鉋の地鉄に使う錬鉄の事を錬釜地とか
錬地金と呼んでいました。大正から昭和にかけて地金屋さんは三軒くらいで鉋鍛冶に錬鉄が行き渡らず
シートバーと呼ばれる新鉄で鉋を作っていた。
 
 大正八年に電気の動力線が入り同じ大正八年に兵庫県工業試験所三木分所も出来た。研磨砥石を使う
鍛冶屋も現れ、この頃に鉋鍛冶の荒田さんが機械ハンマーを入れたそうです。 
大正十二年(1923)に関東大震災が起こり、大震災による家屋の再建需要で鉋の注文が多くなり
好景気になる。鉋鍛冶に限らず鍛冶屋の独立開業が相次ぎ、鉋鍛冶の軒数も増えて多くなる。大正の頃
三木の鉋鍛冶の名人として世に知られていたのは岡田三郎と魚住福三郎です。
 
 岡田三郎はシートバーに当時珍しかったスェーデン鋼を使って三木の鉋鍛冶として初めて名を知られる
様になった。作った鉋は三木の鉋鍛冶と同じ様に問屋銘で作っていたが、端刻印に三郎撰という刻印を
打っていたのだろう。使った大工に三郎撰の鉋は切れると名を知られる様になって行った。しかし「三郎撰」
の印はある問屋に登録商標を取られてしまった。岡田三郎がその問屋に抗議をすると、岡田三郎は」三郎撰」
の刻印は使う事は出来たが岡田三郎が亡くなると「三郎撰」は問屋のものになってしまった。宮本文治は
岡田三郎から三郎撰の名を貰ったが使う事は出来ず「二代三郎」で鉋を作った。
親族ばかり五人の鉋鍛冶を育てています。    (宮本雅夫)

7.昭和の大不況 

 昭和三年美嚢郡工業懇談会会員 鉋  六十六軒

 参等 三宅幾次郎
 準会員 岩居作太郎 井上徳三郎  井上龔市  長谷川儀助  堀田栄治郎  蓬莱房治 
     奥田浅吉  岡田三郎  井村松治  吉岡次郎吉 多田勇治  河井龍市  
     金澤伊之助 黒川卯太郎 山口庄太郎  山妥兵太郎  前田万之助  今井栄治
     吉井寅田老  横山由松 米村四郎  米村弥一郎  藤田安治  本岡善之助 
     森本音市  杉山伊之助  井上徳治郎  魚住徳三郎 上石多一郎 藤原瀧蔵
     福嶋秀一  藤田藤太郎  小山清太郎  荒田亀三郎  青田千太郎  木下為次郎
     岸本重三郎  白髭米吉  重松熊三郎 井元義雄  広田芳雄  荒木光蔵  
     今井忠治  井上鶴松  片嶋久吉  藤原仙太郎  荒田竹治郎  平井石松 
     平井鐵之助 津村伊太郎  ニ杉吉之助  西垣雄治 山中兵太郎 横山藤太郎 
     大野大吉  山本喜市  岡田元次郎 中西喜太郎 中西勘之助  薮西正市  
     衣笠幸三郎  瀧本熊蔵  鈴本武八  石田寅八  久保田久吉  井本芳雄

 昭和四年(1929)頃から景気が悪くなって来たが、昭和四年鉋鍛冶の軒数が八十七軒と一番多く
なった。その後昭和五年から昭和の大不況と言われる厳しい不景気になり、鉋に限らず道具の注文は
極端に少なくなり鍛冶屋の数も減り始める。一ヶ月に一週間仕事があればいい方だといわれるほどで、
鉋鍛冶も鉋鍛冶を目指した職人達もこの年以降少なくなっていった。
 
 三木の鍛冶屋は昔から上の丸に鎮座する稲荷神社を尊崇して祀っていた。大正十二年に西脇市大木町
に鍛冶屋の神様天目一箇命(アマノマヒトツメノミコト)を祀る天目一神社が創建された。三木にも
鍛冶屋の神様を祀ろうという話になり昭和十年(1935)に天目一箇命《アメノマヒトツノミコト》(鍛冶の祖神)、
金山毘古命《カナヤマヒコノミコト》(製鉄の祖神)、伊斯許理度売命《イシコリドメノミコト》(鑄物の祖神)の三神を
天目一神社から分祀して上ノ丸に金物神社が創建された。隣の上ノ丸稲荷神社と共に十二月八日のふいご祭
は、三木町の一大行事として夜明けから大勢の鍛冶屋が参拝していた。
 昭和十四年頃から三木金物は満州への輸出が多くなり、満州景気と呼ばれるほど三木の景気は良く
なったが、支那鉋は作っていなかった三木の鉋鍛冶はあまり影響は無かった様です。
この頃新町には中沢さんという地金屋さんがいて、鉋の地鉄に使えるチェンを探してきて鍛造し鉋
の地鉄として売っていました。昭和十四年(1939)には鉋鍛冶の軒数は55軒だった。
 
 昭和十六年に第二次世界大戦が始まった後、昭和十八年に戦争の影響が厳しくなって鉋鍛冶に
原材料が手に入り難くなり、鉋鍛冶が集まって大同工業という会社を作った。大きな鉋鍛冶の作業場
数ケ所で仕事をしましたが、今まで親方として鉋を作っていた人が集まって仕事をしたのでいろいろ
問題があった様です。やがて、昭和20年終戦と同時に大同工業は解散し鉋鍛冶はまた各自の職場で
仕事を始めました。

8.三木の鉋が機械化へ

 昭和二十一年(1946)頃戦争が終わり世の中が落ち着いてくると戦後の復興で鉋の需要が大きく
なり、他所から三木へ直接道具を買いに来るほどになってきた。今までの大槌による鍛接や鑢や鏟に
よる仕上げから、生産力を上げる為鉋鍛冶は競ってベルトハンマーや研磨砥石を設備し始めた。
設備をした鉋鍛冶の生産量は1,5倍から2倍になった。
 
 昭昭和二十二年三木利器工匠具工業共同組合が設立された時に鉋鍛冶の多くは組合内の鉋部会に
所属していた。その中に事業部があり鉋の地鉄の共同購入を行っていた。これは鉋の材料である地鉄
が錬鉄と言う現在生産されていない鉄を使っているからです。事業部は三木の鉄屋さんから錬鉄を
共同購入したり、地金屋さんから錬鉄を買ったり、錬鉄があると聞けば何処へでも探しに行っていま
した。そして各鉋鍛冶に配給をしていました。
 
  昭和二十三年この年の十二月八日のふいご祭の日に、金物神社で御番鍛治司が古式鍛錬を奉納する
火入れ式が始まりました。鋸鍛治の吉永清太郎さんと鑿鍛治の鈴木周一郎さんが最初です。鉋鍛冶
は昭和二十四年の神吉代一郎さんが初めです。このふいご祭りの火入れ式は現在も続いていて、古式
に各道具の鍛接・鍛造作業を再現する古式鍛錬は、民俗鍛冶技術の継承という意味もあり全国的に
見ても貴重な行事です。 
 戦後三木の鉋鍛冶の名人として有名になったのが魚住福三郎の弟子の坂田春雄です。鉋に自分の銘
を入れる事が少なかった頃に、東郷0号という特殊元素多い硬い鋼で作った鉋に、自分の銘を入れて
売り出しました。これで世の中に知れましたが他に玉鋼の研究家としても知られています。息子の
憲治と共に坂田の鉋として一時代を築きました。
 
  鉋鍛冶は自分の銘の鉋を作っていたが自分の銘では売れず、問屋の売る都合でほとんど問屋銘で
作っていた。問屋の販売力により三木の道具産業は発展したが鍛冶屋として名を残した人は少ない。
これは三木の道具鍛冶のすべてにいえると思います。
 広田長冶という鉋鍛冶がいました。昭和四・五十年頃には問屋や鉋鍛冶の一部の人には名人だと
知られていましたが、自分の名前で鉋を作る事は少なく世に知られる事はありませんでした。

9.三木の鉋の高度成長期
 
昭和三十三年鉋鍛冶名簿  四十三軒

 井本製作所 魚住福三郎鉋 井本刃物 岡田薫 森本喜市 神吉代一郎 今井忠次 片嶋圭三 
 田中正一郎 内藤利雄 魚住常三 藤原精機 廣田長治 多田俊次 井村松治 神吉義郎 
 平井勇之助 内藤修 上山武夫 山田寛治 岡田栄之助 小林嘉市 鴨川梅吉 岩居定一 山本喜市
 横山由松 ニ杉種雄 長池真治 ニ杉廣行 中野武雄 妹尾秀雄 武田秀市 坂田春雄 
 中川寛三 中西三明 中西尚三 荒田繁次郎 今井栄治 宮本文治 山口房太郎 藪西敬一 小林啓二

 昭和三十年代に入ると高度経済成長により鉋の需要も多くなり、魚住鉋製作所や井本刃物や井本
製作所など多くの職人を使って機械で鉋を作る会社が出来て、鉋の生産量は大幅に増えています。
それまでは鉋鍛冶が鉋刃だけを問屋へ納めて問屋が台打ち包装していたが、大きな事業所は自社で
台打ち包装をして販売する様になる。
 
 三木の鉋は大きく発展したがそれは三木の金物問屋の力が大きい。しかしほとんどの鉋の銘は
問屋銘か小売屋の銘で売られていた。それら鉋はよく売れる価格帯で販売される為鍛冶屋の価格は
そんなに高くはなかった。そのため切れ味や仕上げに手をかける事が出来なかった。その結果三木の
鉋鍛冶で名を残した人は少ない、岡田三郎くらいだろう。
 この頃坂田春雄が硬い鋼で作った鉋に、自分の銘を入れて飛び切り価格の高い鉋を作った。独特の
銘切りと仕上げの鉋で、全国的に知られる様になり息子憲治と共に一時代を築いた。

 その後昭和四十年 代になると鉋鍛冶も生産量を上げるため鍛接鍛造はコークス炉から重油炉へ、
焼入れは炭焼入れから鉛焼入れへと変わって行く。しかしあくまでも昔からの鉋の作り方の炭で鍛接・
鍛造し、鞴で炭焼き入れする鉋鍛冶もいました。
 
 昭和49年のオイルショックの頃に三木の鉋鍛冶の生産額は8億343万円と、最高になりました
がこの後軒数はだんだん減って行きました。それは電気カンナが普及した事が一番大きく、その後
プレハブ住宅も普及し始め、鉋を使う仕事が減ってきて鉋鍛冶も減って行きます。そして鉋鍛冶が
減って来ると錬鉄の需要が少なくなり、今まで錬鉄を探していた業者が扱わなくなり鉋鍛冶の
集まりである鉋部会が探しに行くようになった。

昭和五十年頃になると神吉義良が天下の名工千代鶴是秀の弟子千代貞鶴貞秀として有名になりま
した。現在は二代目ですが三木の代表的鍛冶屋として知られています。これまで錬鉄を鍛造して鉋
の地鉄にする業者が居たがその地鉄の鍛造をする職人が少なくなって来たので、昭和五十四年
(1979)に三木利器組合の鉋部会が地鉄の鍛造場を持ち地鉄の鍛造をする事になった。吉永鋼鐵
さん倉庫でエアーハンマーを借りて鍛造場を作り、この年以降鉋鍛冶は自分の使う地鉄は自分で鍛造
することになった。

 しかし、吉永鋼鐵さんの倉庫での鍛造場も騒音と振動で立ち退きを迫られ、昭和五十五年に兵庫県
工業指導所のエアーハンマーの横に鉋部会がコークス加熱炉を寄付して地鉄の鍛造場を確保する。
この工業指導所の鍛造場もエアーハンマーの振動が精密機器に悪影響があると、平成元年
(1989)ここも立ち退く事になる。部会員の常三郎かんなの鍛造棟に指導所から払い下げを
受けたエアーハンマーと、コークス加熱炉を設置して地鉄の鍛造場を作る。 

 平成三年頃には鉋部会が山陽電車の小さい鉄橋を全部買い取り各鉋鍛冶に三トンほど配給しました。
平成十年頃には長野県で鉄道から道路に使われていた鉄橋の錬鉄部分を買い、二回に亘って計六トン
ほど各鉋鍛冶に配給する事業を行う。その後尾道の屑鉄業者からチェンを購入し二回に亘り配給しました。

 毎年11月に行われる金物祭りの金物びっくり市は金物問屋の即売市ですが、平成三年頃より金物
フェアーといわれる鍛冶屋の即売市も開かれる様になった。この頃より金物びっくり市も金物フェアー
も県内だけでなく、広く他府県からも来場者が来る様になり三木金物まつりは金物関係では全国的な
イベントになっています。 
 鉋鍛冶も金物フェアーには鉋部会で出店していましたが、各事業者毎に出店する様になり現在では
各鉋鍛冶毎に出店しています。道具を使う人達に鍛冶屋の事を知ってもらうのに良いイベントです。
 
 平成八年には三木の鉋は鋸・鑿・鏝・小刀と共に「播州三木打刃物」として、通産省の伝統的工芸
品の産地指定を受けました。そして鉋鍛冶も五人の伝統工芸士が誕生しました。
平成十年を過ぎ鉋の販売量が減って来るといままで問屋銘の鉋よりも、鍛冶屋銘で作る鉋の方が多く
なって来て、鉋を使う人に鉋鍛冶屋が認知される様になってきた。鉋を使う人が作った人を分かる事が
普通の事だと思います。


  10.三木の鉋人物
  
  藤屋佐兵衛・治兵衛
  三木金物問屋資料の中に文化七年(1810年)に地出来鉋という言葉が出てきます。これは地元で出来た鉋と
いう意味だろう。しかし三木で鉋が作られていたが数は少なかったと思われます。
そして文化十二年(1815年)に藤佐と中庄いう鉋鍛冶が出てきます。三木の鉋鍛冶として名前の分かる
最初の人です。中庄は中屋庄兵衛という包丁鍛冶でこの後鉋鍛冶として出てきません、まだこの頃三木に鉋鍛冶は
少なく問屋の要請により一時的に鉋を作ったのかもしれない。藤佐はたぶん藤屋佐兵衛与いう名前だったのだろう、
三木の鉋鍛冶の元祖というべき人です。
 
 その十三年後の文政十一年に藤屋治兵衛が出てきます、たぶん佐兵衛の子供だろう。以後幕末まで三木の鉋鍛冶
の第一人者だったのだろう、天保六年・嘉永七年の棚卸帳に鉋鍛冶の筆頭に名前が出てきます。下町に住んでいました。
明治の初め頃有名な鉋鍛冶は黒川・小山・藤原という親方がいた。治兵衛の名前が出てきてから明治の元年頃で
約四十年経っています。治兵衛が藤原という親方で60歳以上過ぎてまだ鉋鍛冶をしていたと言うのは考え難く、
藤原という鉋鍛冶と藤屋治兵衛が親子だと思われますが、はっきりしません。
 
 藤原滝蔵という明治から大正頃の鉋鍛冶の子孫の家に、明治十二年の県の物産展のメダルが残っています。
藤原滝蔵の親方が藤原という親方で明治十二年のメダルは藤原親方がもらったものではないか、そのメダルが
弟子の藤原滝蔵に伝ったものだろう。こう考えるとうまく繋がるのですが。

黒川鉋鍛冶
   中屋九兵衛
 文政十一年の作屋の棚卸帳の曲尺目切鑿鉋鍛冶扣に鑿鍛冶の中屋国松が大坂から来た鑿鍛冶として載っています。
この人が黒川鉋鍛冶の初めだと思いますが断定は出来ません。六年後の天保六年作屋の棚卸帳に中屋九兵衛の名前が出て
きます。国松の子共で鉋鍛冶になっています。九兵衛は鍛冶屋としてかなり力があった様です。

 嘉永二年(1849)に三木の肥切包丁職仲間と金物問屋仲間との間で値上げ交渉がまとまらず、肥切包丁仲間は
加東郡太郎太夫村の善助という人と独占売買の約束をしてしまった。 その為に三木の金物問屋に肥切包丁が入って来なくなり
、三木金物仲買問屋衆が鉋鍛冶中屋九兵衛に肥切包丁の製造を要請した。その元手金として九兵衛は金十両を受け取っています。

 嘉永七年の道具買帳の道具買帳に鉋鍛冶として藤屋治兵衛・中屋九兵衛・材木屋安兵衛。東這田杢兵衛ら合わせて
六.七人載っています。この時九兵衛共に中屋嘉兵衛。中屋熊吉が載っています、この人は九兵衛の弟子として
中屋の銘をもらい鉋鍛冶になった人かもしれない。
 安政四年(1857)正金銀取扱諸商人名前調帳に鍛鍛冶として載っていて鍛鍛冶もしていた。この様に九兵衛は
鉋鍛冶と鍛鍛冶と庖丁鍛冶の株を持っていて、人を雇って大きく仕事をしていた。慶応二年には新町宿老という
新町の行政を代表する役に就いています。そして明治元年(1868)には中屋九兵衛は鍛冶職株取締役と
いう役についていています。天保十五年と嘉永七年の領主である明石藩の冥加金の要求にも応じています。
 この様に九兵衛は鍛冶仲間だけでなく新町の役もして三木町でも相当な有力者だったと思われます。

   黒川太市郎
九兵衛の子共太市郎は文政十一年の生まれ、何時頃からか分かりませんが刀鍛冶になろうと思ったらしい。
何処かの刀鍛冶へ修行に行ったと思われますが分かっていません。名が知られてきて明石藩の殿様に知遇を得明石藩
御用刀剣鍛冶師になり多くの刀を作っています。刀剣鍛冶名は東播住人源利行といい黒川という姓は殿様より賜った
ものだと思われます。明治になり廃藩置県により殿様は東京へ行く事になり、太市郎は鍛冶屋から明石藩御用刀剣
鍛冶師として引き立てて貰った恩を感じていたのだろう、妻と次男を連れて東京へ行ってしまった。
 東京神田千代田町に住み金物屋をしていた様です。(黒田商店東国帳)鍛冶屋はしていなかったと思います。

   黒川卯太郎
 太市郎の長男卯太郎は明治五年十八歳で父と別れた後、祖父九兵衛と共に鉋鍛冶を継いだ。明治十三年に
井筒新吉により洋鋼が入って来て、今までの和鋼和鉄による刃物の製造方法が変わってしまった。今までの作り方
で作った刃物が悪くて三木の刃物の評判を落とし四・五年後には売れ行きが二割ほどになってしまった。
 
 三木の鍛冶屋や職人が半分になったという。卯太郎も苦労したと思いますが洋鋼での鉋の作り方を確立し、
明治二十二年には魚住福三郎を始めて弟子にしています。その後次々に弟子をとり大勢の鉋鍛冶を育てています。
三木だけでなく他所からも弟子に来ていて、ある時他所から来た人が病気になり亡くなり、黒川家で葬式を出し
墓地も黒川家にある人も居るそうです。
 
 明治四十四年大宮神社に「黒川君の碑」という石碑が弟子達と友人達によって建てられています。「黒川氏
三世の主安政元年二月三木に生まる。性温厚篤実にして夙に父祖の業を継ぎ・・・」の碑文もある立派なものです。
卯太郎の長男武四郎も鉋鍛冶になりましたが、大正の終わり頃病気で亡くなり黒川鉋鍛冶は終わりました。しかし
卯太郎の弟子がまた弟子を育て、三木の鉋鍛冶では黒川系統の鉋鍛冶が一番多かった。

岡田三郎
 岡田三郎は小山清次郎の弟子で明治十二年生まれで、明治42年に鉋鍛冶を開業しています。大正から
昭和にかけて三木を代表する鉋鍛冶です。岡田三郎は地鉄にシートバー、鋼はスェーデン鋼を使い、三木で
初めて鉋鍛冶として名前を知られるようになった。作った鉋は三木の鉋鍛冶と同じ様に問屋銘で作っていたが、
端刻印として小さい「三郎撰」という刻印を打っていたのだろう。
 
 大工に「三郎撰」の鉋は切れると名を知られる様になって行った。しかし「三郎撰」の印はある金物問屋に登録商標を
取られてしまった。岡田三郎がその問屋に抗議をすると岡田三郎は「三郎撰」の刻印は使う事が出来たが、
岡田三郎が亡くなると問屋のものになってしまった。

 坂田春雄・憲治
 坂田春雄は大正元年の生まれ、鍛冶屋になろうと2・3軒の鉋鍛冶や鑿鍛冶へ仕事に行っていたらしい。その後三木の
鉋鍛冶として長い伝統を持つ黒川卯太郎の一番弟子である、魚住福三郎に弟子入りし修行の後独立した。作った鉋には
ほとんど自分の銘を入れていた。鉋鍛冶屋は問屋の銘で鉋を作ることが普通だった頃、自分の銘を入れた鉋だけを作ったのは
坂田春雄が初めてだった。
 
 東郷0号などの硬い特殊鋼を使った鉋が多かったが、玉鋼の研究家としても知られています。戦前の三木の鉋鍛冶としては
岡田三郎が知られていますが、戦後三木の鉋鍛冶の名工としてシンボル的な存在です。息子の憲冶さんが鉋鍛冶になりましたが、
作った鉋に自分で銘切りをしました。特徴ある個性的な銘切りで坂田鉋の名を高め一時代を築いたが、その後憲冶さんも亡くなり
坂田鉋は絶えました。
 春雄さんは強い個性で自分の仕事に自負があり鉋の価格もどんどん上げて行った。他の三木の鉋鍛冶の鉋の価格もそれに
つられて上がって行った市民もあります。

 千代鶴貞秀
神吉義良は明治四十一年生まれ、鉋鍛冶の兄に鉋を習い鉋鍛冶として仕事をしていましたが、ある時大坂で天下の
名工といわれる千代鶴是秀の鉋に出会います。その鉋に魅せられて弟子入りを志願します。通い弟子として認められ
腕を磨いた後、三木に戻って仕事をしながら、師のもとに通い精進し続けて十八年後「千代鶴貞秀」の号を受けました。
 子の岩雄は十六才に父に弟子入りした後、平成二年に二代目千代鶴貞秀を襲名し、平成八年には播州三木打刃物の鉋の
伝統工芸士となる。現在は三代目を養成中。

  10.三木の鉋資料

            鉋鍛冶
明治の始め頃      十五~二十軒
大正四年        二十一軒
昭和四年        八十七軒
昭和十四年       五十五軒
昭和二十六年      三十二軒
高度成長期S45からオイルショックS48             鉋の生産額
昭和四十九年      二十六軒              80450万円
昭和五十年       三十軒    台屋二十七軒     62668万円
昭和五十一年                        70828万円
昭和五十三年      二十八軒   台屋二十七軒     49529万円
昭和六十三年                        39042万円
平成十六年        八軒               27587万円
平成二十二年       六軒    台屋五軒        6364万円 

  
   
参考文献 三木金物問屋資料 三木町略史 伝統産業の発展と成立 三木史談
        大工道具の歴史 近世在郷町の構造と展開 終始一貫