鍛冶屋のつれづれ書き         

三木金物 人物

 三木金物は江戸時代中期に始まり、江戸時代終り頃には全国的に見ても大きな地場産業

としてきこえていました。その後先人達は今まで作ってきた鋸・鑿・鉋などの道具の他に、

ショベル・ギムネ・鏝など次々と新しい道具産業を立ち上げ三木金物産業を現在まで

発展させてきました。三木金物で魁をなした人、それぞれの道具で名人といわれた人、

金物産業の発展に貢献した人などまとめたいと思います。

                                                    山本芳博       

 前挽鍛冶山田屋伊右衛門 金物問屋道具屋善七 作屋清右衛門 鋸鍛冶吉田屋利兵衛 曲尺鍛冶壺屋藤兵衛 

鉋鍛冶藤屋治兵衛 鋸鍛冶宮野平次郎 事業家井筒新吉 事業家重松太三郎 鋸鍛冶宮野鉄之助 

金物問屋堀田光雄 ギムネ鍛冶小林元二 チョウナ鍛冶 永井丈太郎 鉋鍛冶 坂田春雄

 

前挽鍛冶 山田屋伊右衛門


 江戸時代三木金物の代表的な製品は前挽鋸でした。その前挽鋸を三木金物の発生期に作ろうと前挽鋸鍛冶の

開業願いを役所に出した人です。元文三年(1738年)伊右衛門は後年道具屋善七として三木で初めて道具問屋

を始めた太兵衛が、木挽き職人として但馬竹田にいた時そこで出会い、二人で前挽の商売をしようと話し合い三木

へ帰ってきた。初めは二人で下町伊右衛門宅で京都から前挽きを仕入れて売っていたが、後に太兵衛は前挽などを

売る道具商に、伊右衛門は前挽を作る前挽鍛冶になった。(道具屋善七父祖行状記)

三木の役所へ前挽鍛冶の開業願いを宝暦十年(1760年)頃から出していますがなかなか許可が下りず、

宝暦十三・十四頃に京都前挽鍛冶仲間へ入り、前挽屋五郎右衛門と大坂屋権右衛門と共に三木で三軒の前挽鍛冶が

誕生しました。三木の道具鍛冶で名前の出た最初の人だろう。

この頃江戸で大火事があり復旧の為前挽鋸が必要になり大いに売れたそうです。三木に道具問屋が出来てからも

前挽鍛冶は自分の売り先があったらしく、三木の問屋にも強い商売をしていた。その後江戸送りなどで三木の

道具問屋の販売力が大きくなり、三軒の前挽鍛冶も大きく生産量を伸ばしています。

 山田屋伊右衛門家は嘉永七年の異国船渡来警衛冥加銀割方帳や天保十五年御冥加銀上納割符内取調帳に載って

いて、明石藩の冥加銀の上納にも応じています。前挽鍛冶として明治になっても続いていました。

 

金物問屋 道具屋善七


 初代太兵衛は下町の山田屋伊右衛門と語らい共同で前挽鋸の店を出したが、後に別れ下町井筒屋善兵衛宅宅を

借りて自分の店を出した。正月お盆は店売りをして後は重い道具類を担いで行商をして周った。息子善七も大きく

なると軽い物を担ぎ丹波・丹後・但馬・宍粟の国を周り商売を習った。善七二十六歳の時宝暦の終り頃中町に

家屋敷を買い金物問屋を始めて大きく商売を伸ばしています。

 天明三年に大坂文殊四郎鍛冶仲間からの訴えにより三木の鋸が大坂市場への搬入が差し止められたが、翌年三木

の鋸鍛冶七軒が大坂文殊四郎仲間へ入り、他の三木の鋸鍛冶がその下株になる事により大坂への三木の鋸の搬入が

認められた。その時道具屋善七が独占して三木の鋸を大坂へ入れていた。

 天明五年には三木の庖丁鍛冶と堺の庖丁鍛冶と同じ様な紛争があったが、庖丁の寸法を変える事で決着し

道具屋善七が大坂への独占販売権を持ち、三木の庖丁鍛冶に新しい寸法の庖丁を作らせて大坂へ入れていた。

三木金物初期発展期には作屋よりも道具屋の方が大きく事業をしていたようです。

後に文化元年江戸打物問屋の引き合いにより作屋と二軒が、江戸送りの問屋になり三木金物の発展に

貢献しましたが、明治維新の変革期を乗り越える事が出来ず明治になる少し前に廃業しています。

 

金物問屋 作屋清右衛門


 明和二年に上町で作屋清右衛門として金物問屋を開業した。ついで三木仲買問屋仲間結成には中心的役割を

果たした。天明以来三木金物の発展期は問屋も鍛冶屋に対しそれほど強い立場ではなかったが、文化元年以降

道具屋と共に江戸送り問屋になった後、江戸打物問屋仲間からの前渡金という豊富な資金を持つ様になった。

強い販売力と豊富な資金で力を持った問屋は鍛冶屋を系列化に置いていった。

 江戸との直接取引により三木金物は発展し作屋もそれ以上に発展し、文政六年領主松平氏の三木切手会所開設に

際し井上八郎兵衛と山田屋弥兵衛らと共に、三木町切手方に任ぜられる程の財力を持つ様になった。

幕末には領主明石藩の冥加銀の要求に際し三木町では最高の冥加銀を上納しています。

 作屋は操業以来幕末までの棚卸帳や文書が保管されていて三木近物問屋資料として本になっています。三木金物

の歴史で江戸時代の事はこの本が最重要資料です。作屋は幕末から明治の激動期を乗り越え、明治からは

黒田清右衛門商店として事業を続け現在まで二百四十年以上三木金物問屋で大きな地位を占めています。

 

  鋸鍛冶 吉田屋利兵衛

 
 伝説では秀吉の別所攻めの時山城国伏見へ避難していてそこで鋸鍛冶の技を習得し三木城落城後三木へ帰り下町

で鋸鍛冶を始めたとあります。、また一説には利兵衛は野鍛冶で元文二年(1737年)頃より鋸鍛冶を始めたと

あります。 しかし延享元年(1774年)の諸色明細帳の野鍛冶には利兵衛の名はなく、下町鍛冶伊兵衛の名が

あります。伊兵衛が後に利兵衛を名乗ったのか。

三木金物問屋資料の寛政四年の値段帳の鋸鍛冶三十九軒の最初に吉田屋利兵衛が出て、同じく問屋資料の

文化十三年の諸鍛冶連名には鋸鍛冶七十三名の筆頭に吉田屋利兵衛が出てきます。この頃には鋸鍛冶の名門

として知られていた事が分かります。幕末頃には三木で一番大きな鋸鍛冶になっています。

 

曲尺鍛冶 壺屋籐兵衛  三木町先覚事蹟考より


 壺屋藤兵衛は幕末時代に於ける曲尺の名工にして海内随一の稱ありしもの、藤兵衛の祖父三右衛門の時までは

紺屋を業とせしが、寛政年間一人の行者遍歴して當地に来りし時三右衛門は一夜善根宿をなせしが、當日は恰も

三右衛門の祖先の命日に當りしが夜に入りて雑談に耽りし時行者の曰く、拙は今故ありて諸国を行脚せるが

尺度器の製法を知れり、しかも老齢にして余命幾程もなければ誰かに秘傳を、傳受しおきたる望みを抱けるが

貴下こそ適當なる人なれば教え申すべしといふ。

三右衛門大いに悦び行者に就いて修行せり。行者の滞在する事二ヶ月余にして何れともなく立ち去れり。

之より後三右衛門は専ら曲尺の製造に苦心しその極意を會得せり。三右衛門の息子吉兵衛亦父の業を繼いで熱心に

曲尺製法を研究し、一面亦其販路を擴張せり。吉兵衛の子藤兵衛に至り其製法に一大刷新を加え曲尺の生命とする

角度、目盛及び弾力に至るまで細心の注意を拂い名聲大いに天下に鳴り、

當時番匠にして壺藤の曲尺を所持するものは賃銀高かりしと云う。以って壺藤が曲尺の優秀なることを知るに

足らん。藤兵衛は又多くの子弟を養成し、三木町に於ける曲尺製造のこと最も盛んなることを見るに至れり。

藤兵衛の子伊藤治亦其遺業を繼ぎ家業愈々盛況を極む。後播磨度器株式會社の創立せらるるに及び壺ト印を以って

其商標となす。今尚壺ト印曲尺の代に歓迎さるる所以のもの實に藤兵衛の功に俟つもの甚だ大なりと云うべし。 

 

江戸末期から明治にかけて三木は曲尺の大産地でした。その曲尺は藤兵衛の祖父から始まり藤兵衛が名工として

名を高め、弟子を養成して産地として栄えました。その子孫は播磨度器会社を創立し大正元年には社員が60人を

越える会社になっています。その少し前の明治の終わり頃に度器である曲尺の検査制度ができ、三木に

兵庫県度量衡検査所が出来ています。

大正の中期に度器会社で異変があり社員の大半が山科の会社へ移ってしまい、三木での生産は終わった様です。

鍛冶屋の作った金物が度器であるので検査し合格しないと売る事が出来ない、

作る人と売る人がうまく行かなかった様です。残念な事です。(明治以後の三木金物)

 

鉋鍛冶 藤屋治兵衛


 三木金物問屋資料の中に文化七年(1810年)に地出来鉋という言葉が出てきます。これは地元で出来た鉋と

いう意味だろう。しかし三木で鉋が作られていたが数は少なかったと思われます。

そして文化十二年(1815年)に藤佐と中庄いう鉋鍛冶が出てきます。三木の鉋鍛冶として名前の分かる

最初の人です。中庄は中屋庄兵衛という包丁鍛冶でこの後鉋鍛冶として出てきません、まだこの頃三木に鉋鍛冶は

少なく問屋の要請により一時的に鉋を作ったのかもしれない。藤佐はたぶん藤屋佐兵衛与いう名前だったのだろう、

三木の鉋鍛冶の元祖というべき人です。

その十三年後の文政十一年に藤屋治兵衛が出てきます、たぶん佐兵衛の子供だろう。以後幕末まで三木の鉋鍛冶

の第一人者だったのだろう、天保六年・嘉永七年の棚卸帳に鉋鍛冶の始めに名前が出てきます。下町に住んでいました。

明治の初め頃有名な鉋鍛冶は黒川・小山・藤原という親方がいた。治兵衛の名前が出てきてから明治の元年頃で

約四十年経っています。治兵衛が藤原という親方で60歳以上過ぎてまだ鉋鍛冶をしていたと言うのは考え難く、

藤原という鉋鍛冶と藤屋治兵衛が親子だと思われますが、はっきりしません。

藤原滝蔵という明治から大正頃の鉋鍛冶の子孫の家に、明治十二年の県の物産展のメダルが残っています。

藤原滝蔵の親方が藤原という親方で明治十二年のメダルは藤原親方がもらったものではないか、そのメダルが

弟子の藤原滝蔵に伝ったものだろう。こう考えるとうまく繋がるのですが。

 

鋸鍛冶 宮野平次郎     宮野平次郎伝 山田宗作


 宮野平次郎は本名元吉といい幕末の弘化四年三木町で生まれた。家代々の鋸鍛冶で元吉が父の名平次郎を継いだ

時はすでに五代目だったという。元吉は幕末多端の折に成長して父の技たる鋸製造に従事したが、刀剣製作には

青年時代から憧れと研究心を抱いていた。しかしそれを実現するまでに鋸の製造に精魂を打ち込む事が第一義と

考えた。その為遂に意を決して京都伏見の鋸鍛冶谷口清兵衛に弟子入りした。

それは伏見鋸鍛冶の焼入れを学ぶためであった。修行後帰郷した元吉はさらに研究工夫を加え作った鋸は追々

名声が上がって行き、彼のもとに弟子入りする人が日に月に増加した。以後宮野平次郎は鋸鍛冶として播州のみ

ならず全国的に見ても名工として知られている。

明治十一年三十歳の頃より刀剣製作の道にも入っていったものと思われ、明治十七年神戸湊川神社御用鍛冶師を

拝命し神剣一振りを奉納している。刀匠仲間では備前輔高と交友があり教えられる所があったらしい。有栖川宮家

お抱えの刀匠桜井正次に相州伝の鍛法を伝授してもらい、相州伝の皆焼を会得した。明治三十六年第五回内国勧業

博覧会に日本刀を出品して大判の褒状を貰っている。刀銘は宮野義定。老境に入った晩年まで刀剣の勢作は続けて

いたという。子の吉太郎も平次郎として鋸を作り国次として刀剣を作っています。孫の胤吉も吉太郎から受け継ぎ

鋸と刀と同じ道に進んだが、時期が日支事変太平洋戦争のために刀剣の製作は祖父や父より多かった様です。

 

 

事業家 井筒新吉


 井筒新吉、弘化四年三木町に生る。幼より鋸鍛冶をび學び後鍛鋼業(きたい鍛冶)を始む。當時に於ける

三木金物は和鐵を以ってのみ製作し来れるが、明治十年頃洋鐵の輸入せらるるを見て、之を原料とし鋸、前挽等

の製作を始めたるに製作の容易にして多量製産をなし得るにより自然價格の低廉なるを致瀬利。時人始めは洋鐵

などで作れる刃物が切れるものかと一笑に附し去りしも、時代の推移は年を追うて洋鐵原料の使用を促進し今は

全く之のみを用いるに至れり。氏が衆に率先して洋鐵使用の途を拓き三木金物の製造に、

一種の革命を齎らしたるの功績は三木金物史上に特筆すべきなり。明治33年逝去す。(三木町先覚事蹟考)

明治十三年井筒新吉は当時三木の鍛冶屋が崇敬していた京都伏見の稲荷神社からの帰りに神戸市兵庫島上町で

輸入された板鋼を見た。鋸鍛冶だった氏は閃くものがあり輸入された板鋼を買って鋸に打ったという。玉鋼に

比べ作業の容易さに仕上がりもきれい、この鋸を三木の問屋に売らずに大阪の金物屋へ持ち込んだらしい。

日本古来からの玉鋼から洋鋼に変えて金物を作ったのは、井筒新吉が三木だけではなく日本でも初めてではないか。

(明治以後の三木金物)

しかしその後三木の鍛冶屋も洋鋼に切り替えて金物を作りましたが、玉鋼と洋鋼の違いにより焼き入れなどの

熱処理も違い、作った金物にすごくクレームが来ました。四・五年後には販売量が二割位に落ち込み職人が

半分位になってしまった。三木の鍛冶屋も努力して以前と同じ性能の金物を作る様になりましたが、元の販売量

に戻るのに約十年かかっている。この様な玉鋼から洋鋼への切り替える時日本中どこでも起こった様です。

その後金物問屋をしながら鍛鋼業の後、七・八十人の職工を抱える会社で鋸・鉋・鑿などを作り自分の問屋

で売っていた。重松太三郎の三木金物組合商会や煙草庖丁の三栄商会にも参加し三木金物の発展に貢献しています。

 

事業家 重松太三郎


 安政三年に三木で生まれた。大阪へ丁稚奉公した後家業の金物問屋を継いだ。

大阪電灯株式会社は明治二十一年十二月大阪の富豪鴻池善右衛門他十九名の発起により設立された。

金物商だった太三郎は同業者の石田・井筒・吉井らと共に電灯事業に参加した。事業はうまくゆかなかった

みたいですが、片田舎の三木から大阪へ電灯事業に参加するという大きな志しを持った人です。

明治二十八年三木金物組合商会で陸軍向けの円匙の製造は成功したが、日露戦争の後軍需品の注文は

なくなり当時あまり日本で作られていないショベルの製造を目指した。ショベルの製造はうまく行かず

重松太三郎が会社を継いだ。ショベルの焼入れの後の磨き作業が手作業なので時間がかかった。

太三郎はショベルの磨き作業に石油発動機を回したバフを使い能率を上げる事に成功した。その後自信の

あるショベルを九州の炭鉱へ、売り込みを目指したが形が悪く相手にされなかった。そこで鉱夫の助言

を受けて改良し九州一円へ販路を開拓する事が出来た。その後北海道の炭鉱を走り回り北海道へも販売に

成功した。

 その後第一次世界大戦中の大正六年にはロシアから三ケ月で10万丁のショベルの注文を受けると

俄か作りの工場を建て6百名の工員を集めて二ケ月半で納品する事が出来た。大正時代には三木で一番

大きな会社になっています。

また明治三十年には三栄商会を設立し堺から浸炭技術者を招き煙草庖丁や紙断庖丁の製造。そして

明治三十九年頃には熊本から肥後の守ナイフの原型を持ち帰り肥後の守の魁をなした

大正十年に出張先の大阪で亡くなった、六十六歳だった。。

この様に重松太三郎は三木に新しい金物産業を立ち上げ三木町の発展に大きく貢献した。その功績により

兵庫県が昭和二十七年四月に独立日本を記念して、郷土産業に尽くした功労者として県下の十二氏を

県庁において表彰した時、その中に三木町出身の故重松太三郎氏が推輓されています。

また昭和四十二年兵庫県教育委員会が「郷土百人の先覚者」の本を発行しています。政治・産業・文化の

各分野で郷土に尽した人として百人が載っていますが、三木市からはただ一人産業の分野で

重松太三郎氏が載っています。

 

鋸鍛冶宮野鉄之助 遠藤四方斎朝也 栄光より


 のこぎり鍛冶の名工として知られる遠藤朝也氏は明治三十四年七月二十五日、三木町福井に生まれる。本名を

政一郎といい号を四方斎朝也という。地元の三樹小学校を卒業後、家業ののこぎり鍛冶を見習い、大坂で目立て

修行を終えたのち、三木に帰って初代宮野鉄之助に弟子入りし、昭和十三年二月、その技量を認められて二代目

宮野鉄之助を襲名した。

また刀剣鍛冶修行も重ね昭和16年十一月、神奈川県相武台座間日本刀鍛錬協会会員として栗原彦三郎の唱道

に参加、同十七年四月帝国美術展日本刀部新作展覧会においてその審査員に就任した。

 道十七年九月、大阪陸軍造兵廠造刀の刀匠を拝命して終戦の二十年八月まで軍刀製作に励んだ。その間同十九年

十一月、兵庫県日本刀鍛錬協会作刀技術主任として造刀後輩指導にあたるなど、戦時中は作刀一筋に生きたが戦争

も終り平和な時代になったので再びのこぎりの製造に従事した。

氏は古くからの伝承技術を守り、たたら製鉄法で玉鋼を作りその玉鋼でのこぎりを鍛えて製造工程を記録文や

映画に残すなど、三木金物の歴史に大きく貢献した一人である。

 現在三木の刀匠として、昭和四十八年九月伊勢神宮遷宮を記念して鍛え上げた新刀一振りを、

同神宮に奉納するなど彼の功績は大きい。 

 

鉄之助さんの弟子の小野の広瀬儀一さんの話です。戦争中鉄之助さんは神戸の湊川神社で日本刀を作っていま

した。そこへ広瀬さんは学徒動員で派遣されて刀作りの仕事を手伝に行っていました。その時広瀬さんは鉄之助

さんに玉鋼の事を教えてもらったそうです。終戦後広瀬さんは小野で刃物店をしながら玉鋼の刃物を作っていま

した。いいものが出来ると鉄之助さんに見せに行ったそうです、

「ええものが出来たな、しかし玉鋼はいつもいいものが出来ないから難しい。玉鋼は商売にならへんで」と

言われました。それでも広瀬さんは研究して腕を上げれば出来るだろうと作って来ましたが、やはり出来は安定

しなかったそうです。「鉄之助さんが言っていたとうりやった」と聞きました。

鉋の取引があったので行ったら玉鋼の事をよく聞きました。

 

金物問屋 堀田光雄 自伝「商道ひと筋六十七年」より


 明治三十五年久留美村大村の生まれ平田小学校卒業後、三木金物問屋の老舗黒田清右柄門商店へ丁稚奉公

に入った。数年後出張販売に出る頃になり、今までの得意先を周り商売を覚えた後、東北・北海道へ新しく

得意先を開拓し多きな販売実績を挙げた。その後昭和五年堀田光雄商店として独立し、すぐに満州国への

輸出を目指した。満州国にはすでにアメリカやドイツの道具が入っていたが、現地の人の使う形の道具を

試作し、それを広い満州国へ売り込み大きな成功を収めた。

 戦争中は一時事業は休業を余儀なくされましたが、三木町が政府へ戦闘機を四機献納する時には、

個人で一機献納しています。戦後昭和二十二年の三木町町長選挙に立候補して当選し、二期半ばまで

町長の職にあり久留美村との合併を実現させています。後昭和二十五年設立した東洋金物株式会社

が破産の危機の時、町長を辞任し東洋金物再建に取り組む。

 東洋金物の事業内容を今までの金物の取り扱いから改め、左官道具・左官機械・左官材料の販売に切り換え、

金物商から建材商への売り込みを図った。金物関係とは違い左官関係品の卸問屋はない状態で、折からの

建築ブームもあり東洋金物は発展した。そして昭和三十九年に長男に社長職を譲った。

その後集めていた美術品を三木市に寄付する為自費一億円で昭和五十七年美術館を建て、収集した美術品と

共に「堀光美術館」として三木市へ寄贈した。

この堀光美術館寄贈の功績の他に金物商社として三木金物産業の発展と、町長として三木行政に対する貢献により、

昭和五十七年三木市で初めての三木市名誉市民の称号を贈られました。 

 

ギムネ鍛冶 小林元二


 小林元二は、大正11年兵役を終えて帰郷してからは丸孔のボート(ギムネ)がこれからのは需要があると考え、

叔父が職人として勤めていた加佐の久米五郎の工場へ見習い職人として入った。その後、約半年間の技術修得後

叔父と独立し大正十二年に自宅裏でボート製造を始めた。

 短い修行期間での未熟な技能ゆえ手作業で行っている作業の機械化に挑み、百折の後木屑のはけのよいスムーズ

に深孔のあくギムネの均一機械量産化に成功された。手作業が未熟なるが故に機械化への努力が種々の創見を招き、

不屈のものを養うのであろう。(明治以後の三木金物)

ギムネ業界は昭和43年には21軒の業者で5.3億円の売り上げだったが、昭和60年には業者8軒で

27.7億円です。設備の出来る業者が残って行き現在は3社ですが、ほとんど小林ギムネから代わった

スターエムがギムネを作っている様です。全国的に見ても大きなシェアーを占めていると思われます。

三木利器工匠具工業共同組合理事長など役職を務められましたが、金物資料館の建設にも深い関心を

持っておられました。昭和四十九年に逝去されましたがその後、社業を継いだ小林恒美氏は金物資料館建設資金

として三千万円を三木市に寄付しています。そして昭和五十一年に三木市内外の金物資料を集めて、

三木金物神社横に三木市立金物資料館は開館しました。

 

チョウナ鍛冶 永井丈太郎


 明治二十三年(1890年)に三木で生まれた。十歳の時大阪のチョウナ鍛冶へ弟子に入り修行した後、

大正元年二十二歳の時にに大阪で独立した。その後大正三年に三木へ帰りチョウナ鍛冶を始めた。

昭和四十九年「郷土のよさを見直そう」の井本由一さんの記事に「七十三年間鎚の柄を握ってきました。正月と

盆と祭り以外は三日の続けて休んだ事はおまへん。用事のある時は別ですけど。病気でっか盲腸をいっぺんやっただけです。」

年が経つほどにチョウナの名工として知られ「ひょうたん丈」の刻印のチョウナは有名です。永井丈太郎さんが仕事を辞めた後

チョウナを作る道具類は、三木金物資料館に寄贈されて展示されています。チョウナの昔の作り方の道具類は大変貴重だと思います。

 

鉋鍛冶 坂田春雄


 大正元年の生まれ、鍛冶屋になろうと2・3軒の鉋鍛冶や鑿鍛冶へ仕事に行っていたらしい。その後三木の鉋鍛冶として

長い伝統を持つ黒川卯太郎の一番弟子である、魚住福三郎に弟子入りし修行の後独立した。作った鉋にはほとんど自分の銘を

入れていた。鉋鍛冶屋は問屋の銘で鉋を作ることが普通だった頃、自分の銘を入れた鉋だけを作ったのは坂田春雄が初めてだった。

 東郷0号などの硬い特殊鋼を使った鉋が多かったが、玉鋼の研究家としても知られています。戦前の三木の鉋鍛冶としては

岡田三郎が知られていますが、戦後三木の鉋鍛冶の名工としてシンボル的な存在です。鉋鍛冶は普通自分で銘切りはしない

ものですが、息子の憲冶さんが鉋鍛冶になると作った鉋に自分で銘切りをしました。特徴ある個性的な銘切りで、

坂田鉋の名を高めましたが憲冶さんも亡くなり坂田鉋は絶えました。

 春雄さんは強い個性で自分の仕事に自負があり鉋の価格もどんどん上げて行った。他の三木の鉋鍛冶の鉋の価格もそれに

つられて上がって行った一面もあります。