鍛冶屋のつれづれ書き

        三木城と城下町   
                
                 山本芳博

 別所氏が三木城主だった頃の三木の事は、秀吉の三木攻めにより三木の寺や神社が焼かれ三木城も立て替えられ、

三木には当時の記録がほとんど残っていません。そのためその頃の三木の事がほとんど分かっていません。

そこで他の地域の当時の記録から三木の状態を考えてみました。

 古代から都から西への街道は山陽道の他に、六甲山系の北の今でいう湯の山街道があり、昔から志染にあった

屯倉への重要な街道だった。途中の有馬温泉は「嶋の大臣」蘇我氏が開いたという伝説がある。飛鳥時代になり

朝鮮を統一し強大になった新羅に備えるため、蘇我氏が辺要国壱岐や出雲への道を整備したといわれる。

 その時志染にあった屯倉から西への道を作ったらしい。(10)その志染屯倉から西の三木は北の丹波・但馬へ

の道と西へ山陽道への分岐があっただろう。そこには町があった可能性がある。伝説ではその街道にある三木には、

鎌倉時代から別所氏が拠点を持っていたといわれる。


 
その後足利尊氏が後醍醐天皇に呼応して鎌倉幕府に反旗を翻した時、赤松円心と共に別所氏も参加し鎌倉幕府を

滅ぼした。その功により別所氏は三木を領していたと思われる。南北朝時代の歴応二年(1339年)南朝方の新田

義貞の一族、金谷経氏が丹生山に城郭を構え山陰の中道を支塞ぐ、その後北朝方が志染の住吉山の志染軍陣に集結し

南朝方を排除した。この時別所氏も参陣しただろう、三木を通る今の湯山街道は昔も重要な街道だった事が分かる。


 嘉吉元年(1441年)播磨・備前・美作の守護赤松満祐が、室町幕府六代将軍足利義教を暗殺した後、別所氏
の所属する備前・播磨の守護赤松家は山名氏に滅ぼされる。この嘉吉の乱により別所氏は滅亡する。


 その後応仁元年(1467年)応仁の乱が始まり赤松一族は旧家来衆を率い山名領の播磨に攻め入り、旧領を

回復し赤松家当主赤松政則は播磨・美作・備前三ケ国の守護に任ぜられた。この時まだ別所氏は出て来ていません。

 文明十五年(1483年)播磨守護職赤松政則は山名軍と生野の真弓峠の戦で敗走する。播磨は再び山名領になり

播磨国人は分裂し、政則は播磨守護職を解かれる。次の年別所則治は政則と共に将軍東山相公に播磨守護職復帰を

請願し公許される。この年から別所則治が当時の文書に出てきて、播磨守護赤松政則を補佐する重要な立場に

なっている。

 文明十八年(1486年)には別所則治は東播磨守護代的な役に就いていて、三木に居たものだと思われます。

明応元年(1492年)別所則治が三木に城を築いたといわれる。この城が完成した時則治は三木城から北の美嚢

川を渡った所の跡部に別所家の菩提寺の清宝山常蓮寺を建てた。永い間別所家菩提寺がどこか分かりませんでしたが、

香川県に住む別所家子孫の伝わる「仏性山文書」により分かりました。また北東の鬼門に当たる平井山に

観世音菩薩を祀る陣中守護のお寺を建てたといわれる。則治の建てた三木城は今の上の丸公園と歴史料館のある

辺りの丘城です。
  

黒田家文書「三木町御免許大意録」によると「応仁元年三木ニて御築之御城、東播八郡之太守、弐拾四万石御城下

之当時、十ケ町与成候ハ、」とあります。城が出来たのは応仁元年ではありませんが、三木城が出来た頃から十の町

があったらしい。(13)

 しかし別所家が大きくなった長治公の時代には「下モ五ケ町之の惣名中嶋ト申、以前ハ外様侍屋敷外ト掘筋三木町人

家多ク、川向イ寺院ハ南山手、平山ハ城上ト申、惣名往古之町名壱ケ町ニあらす、川向イハ往還人家有、今田畑と

成テ字名新宿・高町、又釈迦堂の古跡有り」とある。長治公の時代は川向うの町を入れると十以上の町があった事になる。

 


 
跡部にあった常蓮寺

 三木城は何度も攻められていて、享禄三年(1530年)依藤・浦上勢により一時三木城落城するがすぐに

取り返しています。その後天文八年(1539年)別所村治が城主の時、尼子勢が播磨へ攻めて来て播磨の赤松

勢は全て尼子に下ったが、三木の別所氏だけが抵抗した。そのため三木城を尼子軍が三月と十一月二回包囲攻撃

するも別所・播磨勢が撃退する。次の天文九年に尼子は毛利を三万もの軍勢で攻めているらしい。そうすると

三木城を攻めた時には二万位のの軍勢が来ていたのだろう、それでも尼子勢を撃退しています。

 別所村治・安治・長治と変わったが、長治の頃の戦國時代の三木の城下町はかなりの人が住んでいたらしい。こ

の頃三木城城下町は三木金物誌には戦國時代「中国地方ではの東の三木と西の周防の山口が繁栄していた」と文書

に残っているそうです。(1)


 当時のキリスト教の宣教師の残した文書には、周防の山口には一万人そして、上杉謙信の城下町府内や北条氏の小

田原には六千人の人が居たという。大きな戦国大名の城下町はかなり繁栄していた。それから考えると三木の城下

町にも二・三千人の人が居たかもしれない。住んでいたのはほとんど商人や職人で、武士は重臣だけだった。兵農

分離以前の大名の家来は領地で農業もしていた。

 城下町に住んでいた武士は、上杉氏や北条氏などの戦国大大名でも重臣は二十人ほどで、大名当主と領国の重要

な決定や争い事の評定が多くもたれていた、そのため城下に住んでいた。2) すると三木の別所氏の場合は十人弱

だったかもしれない。しかし地域によって家臣団の城下への集住はかなり早くから行われていた様だが(3)三木城

の場合はどうだったか分かっていません。


 
「戦国の城」の本には戦国城下町のすぐ外に寺院を配置している事が多かったと書かれています。これは敵に攻

められた時迎え撃つ砦とするためだったと。三木の城下町を考えると、本要寺・光明寺・晴龍寺・善福寺・称念寺

が城下の西にありますが、別所氏の時代に建っていたのは本要寺に晴龍寺に称念寺の三寺です。本要寺は城下町の

中になる様でし、それに少しづつ離れて建っているので、敵に対する防衛拠点にはならないと思います。

  三木城の城下町では商人は領国内の商業の中心地として活動し、また城主より戦のため鎧兜や槍刀の材料の革や

鉄や銑鉄などを購入を依頼されていただろう。いろんな物資調達のため、他国との取引のため他国商人の往来もあ

り、宿場としての機能もあっただろう。


 天正初年伊予丸串城主西園寺宣久は参宮のための上洛にさいし、姫路の小寺官兵衛の要害を出発して、六神荒神

を経て三木に入り丹波屋に宿した。翌日は三本松を経て生瀬に向かったとその道中記にみえる。中国往還として

三木街道が繁盛していたことが知れる。(12)

 戦国時代の大名である武田氏・今川氏・後北条氏・織田氏・長曾我部氏は多くの職人を支配しています。(9)

各大名により職種が違いますがほとんどの大名が支配した職人がいます。鍛冶・刀鍛冶・番匠(大工)・革作・

石切・大鋸・杣・紺屋・塗師・金山衆・木地屋・鋳物師はほとんどの大名が支配しています。他に柄巻師・桶造・

紙漉・金具師・銀師・瓦師・陰陽師・医師は半数ほどの大名が支配しています。別所氏も多くの職人を支配して

いたと思います。

 三木市大手町正入寺門前の三木城図

 また別所氏は木工職を優遇し大工もかなり居たようですが記録にはありません。この頃に播磨のお寺が檜皮葺き

から瓦葺きに変わり始めて、大和の国の瓦大工橘氏一門の二代目橘吉重が播磨に来て、文明十四年(1482年)に

一乗寺の瓦を作っている。そして天文四年(1535年)この年から大和西京住人瓦大工清川國次が「三木住人瓦

大工橘朝臣國次作」として、播磨一円の多くのお寺で瓦を作り始めます。

 三木城主別所氏の木工職優遇策により大工が多く住み、大工のつながりを考えて國次が三木に住んだのだろう。

國次より先に播磨に来ていた、二代目橘吉重は何処に住んでいたか分かっていませんが、もしかすると三木に

住んでいたかもしれない。


 他に職人として 特に戦の為の刀や槍と作る鍛冶屋や、甲冑・弓矢を作る職人そして鋳物師が居たはずだ。これら

の職人は別所家のお抱えとして家臣に管理された所に住んでいたと思います。戦に必要な武器類を作る鍛冶屋に対

しては居住の制限や村落からの分離が行われた。さらに特定人へ技術伝承、秘密漏洩防止の問題から婚姻の制限

などの人身的制約が強制されていた。(4) これは戦国大名北条氏の家来由比氏の鍛冶屋支配の状況ですが、

別所氏もそんなに変わなかっただろう。

 長治の時代には姫路の芥田鋳物師は小寺政職より播磨惣菅職に任ぜられ播磨の鋳物仕事をすべて行っていた。

この時芥田鋳物師の職人二郎四郎が別所氏の鋳物師になっています。芥鋳物師からの抗議にもかかわらず、
二郎四郎は別所氏の鋳物師としての領地の仕事を独占しています。二郎四郎は別所氏が秀吉との戦になると神吉城や、
三木城にも籠城しています。(5)同じ様な立場の鍛冶屋や商人も籠城したかもしれない。 


 二つの本から考えると三木城下町には、別所氏安治・長治の時代には少なくとも千や二千の職人や商人とその家族

が居たと思われます。そして秀吉文書には大宮神社の下辺りにには宮前町があり、他に山下・惣町と呼ばれる町域

があった事がうかがえます。(6)

 戦国時代の城下町は城主館を中心とした家臣団と直属商人・鍛冶屋の屋敷方なる部分と、直接支配を受けない市

場の二元構造で、前者は城主と主従関係だが後者は自由な関係である。(7)この事から考えると、三木城下町では

今の大手町が三木城本丸から東への台地と、二位谷川の崖の間にあり、ここが準城内の家臣団と直属商人・鍛冶屋

の住む地域だったかもしれない。そしてここは三木城が敵に攻められた時、城下町や周りの住民を略奪から守り、

保護するための避難場所だったのだろう。(8)


 
別所氏と同じ赤松一族の小寺氏の御着城は山陽道と城下町を城内に取り込んだ惣構の城だった。長治の時代信長

の家臣荒木村重の摂津の有岡城は、城の部分が百五十メートル四方位だが城下町を入れた惣構は、東西約八百メー

トル・南北千七百メートルもあった。(2)織田家は百姓と侍ははっきりと分かれていて、侍はすべて城下に住んで

居たため城下町は広かったのだろう。

 三木城と美嚢川の間が中嶋丸 
 

 別所氏時代に湯の山街道が三木城のどの辺りを通っていたのか考えると、三木城絵図では美嚢川を渡り加佐

に街道が通っていたとなっている。しかし享保十四年(1729年 )三木宝蔵文書の「加佐町平田町対大村

用水相論訴状控」には、「加佐町之内新宿懸りと申ハ、(中略)往古不残御田地ニ而御座候所、三木城主別所

小三郎様御知行之節、右新宿侍屋敷ニ被成候所、」(6)とあり、三木城の対岸の加佐には別所長治の時代に

侍屋敷が出来たが、他は田だけで街はなく街道は通っていなかった事になる。


 黒田家文書三木町御免許大意録によると、「下モ五ケ町之の惣名ハ中嶋ト申、以前ハ外様侍屋敷外ト堀筋三木町人

家多ク川向イ寺院ハ南山手、平山ハ城上ト申、惣名往古之町名拾ケ町ニあらす、川向イハ往還人家有、今田畑と

成テ字名新宿・高町、又釈迦堂の古跡有り」とある。長治公の時代は川向うの町を入れると十以上の町があった

事になり、往還とは街道ではなく住んでいる人たちの人の通る道だったのか。

 中嶋丸には侍屋敷と町人家があった様だ、侍屋敷と町人町は堀で分けられていたのだろう。中嶋丸の本丸と
西の丸の真下辺りは今の滑原商店街ですが、そこが三木城滑原遺跡として発掘されました。そして石積み遺跡が
出て来ました、侍屋敷の土居跡の様です。この侍屋敷は別所氏時代以降のもので、その下から巴紋の瓦も出土し
同じ所に別所氏時代の、侍屋敷があった事が分かりました。

 
  
これは江戸時代中期に書かれた播磨城攻図の三木城の図です。三木城と美嚢川の間に今と同じ様に通り
が二つあります。城よりに侍屋敷があり川沿いに商人や職人の城下町の、湯の山街道があったのだろう。
 
 中嶋丸に城下町があれば湯の山街道は美嚢川に突き当たった後、川沿いに三木城の下の中嶋丸を通り川下の、

大宮神社下の宮前町(6)へ続いていたのか。すると別所氏時代から現在までと同じ所を通っていた事になる。

すると三木城は湯の山街道を城下に取り込んだ惣構の城だった事になる。

 秀吉と戦になった時、別所氏配下の武士と共に総篭りとして、別所方の武士の他、職人や商人などの家族や
浄土真宗の門徒など7千五百人が籠城した。城の区域は東と北は二位谷川、西は美嚢川を境に、南は雲龍寺の
南の谷に囲まれた地域で約四百五十メートルから五百メートル四方の区域だっただろう。


 
三木城の東から北に流れる二位谷川は、大塚町と芝町の堺で急に西へ向きを変えます。昭和7年の大庄屋池の

決壊による大水害の時、二井谷川の土手に石垣が現れたとある人に聞きました。昔ある時の城主により川の水が、

南から水が当たる所を石垣で高くして川の流れを西へ流し、三木城の堀代わりにしたと思います。もう一つの

目的は芝町の街道まで二位谷川の水のが来ない様にしたのだろう。

 この頃の城の建物にはまだ瓦はほとんど使われていいそうですが、三木城を発掘すると大量の瓦片が出土しま

した。これは別所氏が保護した瓦師が居たからだと思います。

 天正十二年(1584年)「播州三木郡大塚町住人うつみ甚九郎甚八両作」銘の瓦が大阪城三の丸跡から出土し

ている。この二人は清川國次の息子です。この時には大塚町という町があり瓦師甚六・亀千代兄弟が住んで

いた。すると國次が三木へ来た時から大塚町に住んでいたかもしれない。

 

 

1, 三木金物誌

2, 戦国の城

3, 封建都市

4, 戦国大名の鍛冶屋支配

5、芥文書

6、近世在郷町の構造と展開

7、戦国城下町の構造

8、中世後期戦国時代における城の機能と民衆

9、異郷を結ぶ商人と職人

10、志染ミヤケの歴史的位置をめぐる基礎的考察 

11、三木市の史跡と神社仏閣

12、三木市史
13,
黒田家文書 三木町御免許大意録