鍛冶屋のつれづれ書き
          三木大工                 山本芳博

 三木大工とは江戸時代三木上下十町に集住していた大工の事です。三木に集団として大工が何時頃から居たのか
よく分かっていませんが、応仁二年(1468年)に大和の瓦大工が播磨の社寺に瓦を作っています。そして文明
十四年(1482年)に大和の瓦大工橘一族が三木へ移住して来ています。
 瓦大工橘氏が三木に移住して来たのは、その頃すでに三木に大工の集団が住んでいて、仕事の繋がりを考えて
三木に住んだのだろうといわれています。その後別所則治が三木に釜山城を築き城下に木工職を保護し集めて、
より大工が多くなったといわれています。この頃加佐に心光寺や大塚に極楽寺が創建されています。
 そして別所則治により跡部に別所家の菩提寺常蓮寺が建てられています。三木の大工が建てた事は想像できます。
戦国時代の頃には別所氏により楽市楽座が設定され、職人の保護政策により大工や鍛冶屋も、増えていったものと
思いますが資料は残っていません。
 
 別所氏が滅んだ後秀吉は三木の町の復興のため、三木に住んでいた人を戻そうとした。そのため別所氏時代と
同じ地子の優遇や免除したので、人が集まり家も建てられ三木の町は復興しました。この時以前住んでいた大工も
戻って来たが、それ以外の大工も来たと思います。
 関ヶ原合戦の後三木は姫路藩家老伊木氏の領地になった。家臣も住んだので大工の仕事もあったと思います。
しかし元和三年(1617年)に三木は明石藩の領地になった。その頃明石に城はなく、城と城下町がない間は明石
藩士の多くは三木に住んでいましたが、明石に城下町が出来ると藩士は全て三木を出て行った。その時明石へ出て
行った大工も多かったと思います。その時大工に限らず鍛冶屋や諸商人の多くも三木を出て行った可能性が高い。
しかし三木の上下十ケ町は地子免除の特権があり、まだ多くの大工は三木に住んで他所へ出稼ぎに行っていた。
 

 「三木大工と日原大工」によると出稼ぎで記録に残って早いのは、市川町鶴居にある猿田彦神社の明暦三年
(1657年)の棟札に「大工三木藤原姓木村清右衛門家次」が一番早いそうですが、もっと早くから出稼ぎ出てい
と思います。「近世在郷町の構造と展開」には美嚢郡大谷山大谿寺縁起写に寛永六年(1629年)に「不動堂
当郡三木住宮田理兵衛藤原重次」。三木町中町光明寺の棟札には寛文元年(1661年)大工衆として「高木村
源兵衛・長兵衛・下町七兵衛・甚右衛門・善七・□太夫・長兵衛・六兵衛・永太夫・三助」の名が書かれていて
三木大工は当然ですが地元美嚢郡のお寺も建てています。
 1600年代後半には三木大工は播州各地へ出て行っている。万治三年(1660年)神河町神野の熊野神社
本殿を、(味木)郡中嶋町の大工が建てている。貞享二年(1685年)には加西市畑の高峰神社の建設に三木
から大工三人と木挽二人が工事に参加している。元禄十年(1697年)には広峯神社本殿修理に、三木大工
棟梁近藤源兵衛と大工岡本忠兵衛吉次が行っている。
 1700年代になると播磨だけでなく丹波や畿内但馬へも仕事に出かけている。正徳五年(1715年)には
有馬郡西末村の天満神社の棟札に柴町(芝町)大工藤原峰治の名が残っている。享保三年(1718年)には京都
丹波の大福光寺の、元文五年(1740年)には同じく京都丹波の大山祇神社、明和八年(1771年)には京都
の醍醐寺五重塔のそれぞれ修理を行っている。
 

 三木に住む三木大工は「大太子講」という職組織を持っていた。惣代は六人いて滑原町・上町・下町・明石町・
新町から出ている、これらの町に大工が多かったのだろう。この組織は職法を持ち三木大工を統制していた。
もしかすると大太子講が何処へ出稼ぎに行くか調整していたかもしれない。
これら三木大工の出稼ぎの状況は宝蔵文書に載っている、文化十三年(1816年)の職人定宿帳によって
かなり分かっています。定宿の所在地は播磨・摂津・山城・丹波・但馬に及び、資料の残っている明石町・新町・
中町の三町だけで二十六人の大工がいる。三木町十町では六・七十人の出稼ぎ大工が居たと推測される。これら
丹波但馬の三木大工の定宿は地元の大工仕事の仲介者でもあり、三木大工は手間仕事だけでなくは地元の大工を
差し置いて、堂宮の仕事を請け負っている事もある。
 

 寛延四年(1751年)に丹波天田郡副谷村の八幡社は三木西村大工茂兵衛が、宝暦三年(1753年)に
神河町高朝田の八幡神社を、黒田源左衛門重永と同名甚四良永次が建てている。明和二年(1764年)に
知井庄の知井八幡社は三木住人室田利兵衛が建てている。これらの出稼ぎ大工は毎年正月に住んでいる町年寄に
届けを出している。組頭に町の事は頼んでいるが、どうしても帰らなければならない御用が出来ればすぐに帰り
御用を務めますと。
 大工には大工仲間の決まりがあるがそれ以上に三木上下十町の御用が優先しています。これは三木町十町が
地子免許地の特権があり領主や幕府に地子や諸役の負担はないが、各町が各自で治安の維持や行き倒れ人の世話
などしなければならない為町の御用があります。町の御用の方が負担が少なく三木町に多くの大工が集まった
理由の一つです。
 寛文頃(1670年頃)になると畿内および近江に住む大工は著しく多くなって行く、しかし大工工事は減少
いて行った。そのため大工同士の紛糾が多くなり、幕府は中井役所に畿内と近江の大工を統制を命じた。その為
大工は職域が限定され施主は自由に大工を選べなくなった。三木町は畿内の外でなので中井役所の統制を受けず、
三木大工は畿内の近くに居ながら、畿内の何処でも仕事をする事が出来た。
 畿内大工にとって周りの大工と摩擦を避けるため三木大工と仕事をしたのだろう。畿内の大工が定宿を持ち
三木大工の引き受け人になっていた様だ。三木大工は中井役所の統制を受けないという事は中井家による、
「役動員」や「上納金」が無くそれも三木に大工が集まった理由です。
 

 三木に多くの大工が集まったのは三木十町が地子免許地という特権があり、畿内の外なので中井役所の統制を
受けず、建築需要の多い畿内に近かったためだろう。
 寛保二年(1742年)の三木町諸式明細帳には百四十人の大工が居た。これらは全て出稼ぎに行っていた。
しかし文化年間になると出稼ぎ大工は減っている。これは宝暦の終わり頃から三木で大工道具の問屋が出来、
その後道具の生産が始まり大工が鍛冶屋になった人が出てきたためだろう。出稼ぎ大工に関して「丹波通い
すりゃ雪降りかかる、帰りりゃ妻子が泣きかかる」という言葉が残っています。出稼ぎのつらさから居職の
鍛冶屋へ変った人が多かったのだろう。
 

 三木大工が出稼ぎに行く時三木の大工道具を持って行き、他地方で三木の道具を宣伝して、三木の道具が
有名になったと云われています。しかし三木に金物問屋が出来た明暦から明和の頃までは三木に道具鍛冶は
あまり居なかったと思います。1700年代前半頃三木の鍛冶屋の割合は全戸数の1,5%で隣の明石町の
鍛冶屋の割合は2,5%です。明石町は侍のための鍛冶屋が居たので鍛冶屋が多かったかもしれないが、
三木町の鍛冶屋は多くないので、当時の三木町で他所へ道具を売る鍛冶屋はあまり居なかったと思う。
 

 しかしその後金物問屋も増え道具鍛冶が多く出来た文化文政の頃には、出稼ぎする三木大工は減っています。
その頃は出稼ぎに出た三木大工が三木の道具の良さを、周りの大工に言っていたと思います。しかしその事は
三木の道具の評判に対する影響は少ないと思います
 三木大工は日原と名のる大工は居ないが藤原の性を持つ人が多い。明暦三年猿田彦神社の藤原姓木村清右衛門
家次・正徳五年天満神社の柴町大工藤原峰治など他にもいます。そして藤原朝臣と名のる大工もいます。神河町
高朝田の大歳神社本殿を建てた藤原朝臣黒田源左衛門重永弥、天保三年(1832年)神河町南小田の八幡神社
木橋を建てた藤原朝臣大工利兵エ定行など。
 日原大工の当主が藤原とか藤原朝臣と名のっているので、これらの藤原大工は日原大工の弟子にあたる人では
ないかと思いますが、はっきりとは分かりません。
 

三木大工主な建築事例

明暦三年(1657年) 市川町鶴居   猿田彦神社   大工三木藤原姓木村清右衛門家次
万治元年 (1660年)   市川町新野    熊野神社本殿  大工播州三木郡中嶋町 藤□□
貞享二年(1685年) 加西市畑    高峰神社    三木から大工三人木挽二人
元禄十年(1697年)     広峯神社本殿修理   三木大工棟梁近藤源兵衛 大工岡本忠兵衛吉次
正徳五年(1715年) 有馬郡西末村  天満神社    柴町大工 藤原峰治
享保三年(1718年) 京都丹波    大福光寺  修理 
享保四年(1719年) 三木宿原    常厳寺    當村大工棟梁 藤原八兵衛 藤原平兵衛 藤原権兵衛
享保五年(1720年) 加西市上道山町 地蔵堂宮殿  大工三木郡細川庄佐野住 藤原氏重兵衛
享保八年 (1723年) 神河町猪篠   大歳神社御宮  大工播磨国美嚢郡三木町 六左衛門
享保十四年(1729年)  神河町本村    市原神社稲荷社  大工播磨國美嚢郡三木町滑原町 黒田源左衛門
元文三年(1738年)  神河町新野   熊野神社本殿厨子 三木町滑町黒田庄右衛門 黒田市右衛門
元文五年(1740年)  京都丹波   大山祇神社  修理

延享2年1745年) 加西市横田町  大歳神社天神社  大工三木高木村主 又四郎
延享4年(1747年) 神河町南小田  八幡神社本殿  大工三木滑町之住黒田源左衛門 
                            三木細川之住 黒田氏甚四郎 彫物師黒田氏重永

寛延四年 (1751年)  丹波副谷村    八幡宮        三木西村大工茂兵衛
寛延五年(1752年) 丹波天田郡副谷村 八幡社    三木西村大工茂兵衛
宝暦三年(1753年) 神河町高朝田  大歳神社本殿  大工三木住藤原朝臣黒田源左衛門重永
                                   同名甚四良永次
宝暦五年(1755年  小野   住吉神社       三木大工 善兵衛 平七 平右衛門 惣平衛
                            三木高木大工 仁平衛 三木大村大工 庄右衛門
明和二年(1764年) 知井庄    知井八幡社   三木住人室田利兵衛
明和八年 (
1770年)    京都       醍醐寺五重塔

寛政十年(1798年) 神河町淵   大歳神社薬師堂  大工三木郡細川庄中村久馬三郎

寛政十二年(1800年) 神河町中村 法楽寺天堂    大工三木郡細川中村中井利兵衛 
文化二年(1805年) 養父郡建屋村 杜内神社     三木住人伊兵衛 弟子 
文化四年(1807年) 神河町宮野  立岩神社拝殿   宮野村大工二人 美嚢郡西村北井籐兵衛
                                  同村藤原甚右衛門
文政六年(1823年) 神河町高朝田 大歳神社八王子社 宮野村大工 美嚢郡久留美跡部邑住
                                  大工藤原利兵衛定行

天保三年(1832年) 神河町南小田 八幡神社木橋   藤原朝臣大工利兵エ定行

嘉永元年(1848年) 神河町宮野  立岩神社内陣   美嚢郡跡部村乃住人大工藤原利兵衛定行
  
  参考文献 「三木大工と日原大工」「近世在方集住大工の研究」「近世在郷町の構造と展開」