鍛冶屋のつれづれ書き

          明治十年芝町の住人          

 岩壺神社の古文書の中に明治十年岩壺神社祭典費竝觗力入費割帳があり、明治十年にに芝町に住んでいる人の名簿がありました。 

 



 




伍長 粂木清吉     伍長 泉傳次郎    伍長 藤本垚兵衛   伍長 稲見總梧郎    伍長 小坂栄七        

   松尾 け        蓬莱九兵衛      藤原         粂音松         高津清兵衛      城戸岩右衛門

   殿界精右衛門      大河内還与      渋谷垚助       朝比奈作松       岩崎三左衛門     藤本

   小林岩吉        大原村右衛門     加古梅太郎      井口袷蔵        近井利右衛門     竹川熊蔵

   大西種吉        白木源吉       藤原         野田兼太郎       藤本利兵衛      福田代蔵

   今井幸吉        伊勢音吉       藤岡常太郎      佐野重蔵        島田松蔵       廣田蔵吉

   北井籐七        山本芳兵衛      香田右禄       大原垚代松       井口辰蔵       吉見平吉

   長谷川藤助       巖本仲蔵       岡本         福田長太郎       玉井熊太郎      吉田

   芦原為吉                   大山市之助      正木梅太郎                  山城宗十郎

                          河合せい       泉保之助


 明治十年の岩壺神社の祭典費の帳簿に各町村の氏子の名前が載っています。芝町の戸数は五十二軒で私の四代前の山本芳兵衛さんの名前もあります。

芝町の名簿です。伍長とは江戸時代五人組の長の事を明治になり伍長と呼んでいたらしい、明治十年でも伍長と言う言葉が残っていた。

 大河内還与の名前もあります。江戸時代から心光寺の住職でお寺で寺子屋をしていた。明治になり大塚と府内地区の小学校である不断校の教師になり、

その後三樹小学校が出来た時も教師になっています。三樹小学校百年史には明治九年に教師として載っていますから明治十年も教師をしていたと思われます。


 福田長太郎の福田家は出雲の出で、戦国時代別所長治の家臣として加東郡福田の砦を守っていてたが、別所氏滅亡後芝町へ来ています。
江戸時代中期以降は三木町上下十ケ町の上五ケ町の惣年寄を永く務めた家です。 

城戸岩右衛門は瓦師で江戸時代文政の頃までは、隣の大塚町で仕事をしていたが、天保の終わり頃に芝町へ移住して来ています。城戸酒店の先祖です。

 竹川熊蔵は明治の初め頃から金物を作っていて、現在包丁の三木刃物製作所の竹川家の先祖です。
藤本垚兵衛は江戸時代鳥羽屋喜兵衛という商人で芝町では知られた人だった。明治になり藤本という性になったが明治十年に亡くなっています。
この名簿が出来た年です、子孫の事は分かりません


 
最後の山城宗十郎は三樹小学校建設当時の戸長として名前が載っています。建設されたのが明治八年ですから、ちょうど時期が合います。

山城宗十郎は芝町の代表者である戸長だったのだろう。


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株)ミヤケの建物が明治五年(1873年)に鍛冶屋米蔵によって建てられた。芝町の建物で分かっている中で一番古く大きいものだ。しかしこの割帳

には米蔵という名前はありません。蓬莱九兵衛は心光寺参道の西側に昭和の頃まで住んでいた。私の子供の頃はおばあさんが駄菓子屋さんをしていた。
その後金物問屋をしていたが、今はお子には住んだいません。先祖は武士だった様です。

 明治十年から令和二年まで百四十三年になりますが、当時から現在まで芝町に住んでいる家は十軒もない様です。これは平山町や大塚町と違って、

田圃を持つ農家が少ない事もあるのだろう。