鍛冶屋のつれづれ書き

三木金物歴史年表解説   

 三木金物は江戸時代中期に始まり、江戸時代の終わりころには全国的にみても大きな地場産業

として聞こえていました。その後先人達は今まで作ってきた鋸・鑿・鉋などの道具の他に、ショベル

・鏝・ギムネなど次々と新しい道具産業を立ち上げ、三木金物産業を現在まで発展させてきました。

 三木金物の歴史の中で主な事柄で文書に残っている事や、確実であろう事を集めて

年表にしました             三木金物問屋資料・伝統産業の成立と発展・他より    

                        写真は主に{写真集明治大正昭和三木}より 山本芳博

1679年 延宝七年 延宝の義民

 延宝五年頃より幕府の検地令により天領でいっせいに行われたので、三木も免れず二・三年にわたって

検地が行われた。三木の町人達は代々地子免許の事を申し出たのであるが、課税基準高まで決定されると

いう事で大いに驚き、翌延宝六年に三木町惣代として平田町大庄屋岡村源兵衛と平山町大年寄大西与左右衛門

の二人が江戸に下った。 幕府の役人に請願した結果翌延宝七年に免許をもらう事が出来た。三木の人は後世まで

義民として顕彰しています。この頃の金物の事は分かっていませんが、野道具鍛冶など日用品を作る鍛冶屋しか

いなかったと思われます。

 

1742年 寛保二年 諸式明細帳

 この年の三木町諸色明細帳が残っています。人口や職種などを調べたもので大工百四十軒が一番多く、

樽屋が四十八軒と続き木挽二十八軒も他所稼ぎで普段は三木に居なかったようだ。

紺屋が二十六軒あり形屋が十六軒も紺屋の染め形を作っていたので染め屋関係は多かった。

 鍛冶屋は十二軒で野鍛冶が八軒、鏟鍛冶が一軒あった。あと三軒が何鍛冶か分かりません。

伊賀なほえさんの「近世在郷町の構造と展開」の文に、隣の明石町の享保六年(1721年)

明石町諸商人・諸職人一覧によると明石町の戸数は千九百三軒でその内鍛冶屋は四十七軒です。

同じ頃の寛保二年(1742年)の三木町諸式明細帳には、三木町の軒数は七百八十三軒で鍛冶屋

は十二軒と載っています。

戸数に対する鍛冶屋の割合は明石町で0,024%、三木町は0,015%となっている。明石町は

城下町で侍がいて侍のための刀などの鍛冶屋がいて、そのため鍛冶屋が多かったかもしれない。三木町

の十二軒の鍛冶屋の数は三木町民の道具を作る鍛冶屋だったのだろう。

 この頃はまだ鋸など他所へ売るための道具を作る鍛冶屋は居なかったと思われます。

伝説ではこの五年ほど前に吉田屋利兵衛が三木で初めて鋸鍛冶を始めたらしく、この数年後より出職の

木挽きや大工から居職の鍛冶屋が増えていったようだ。

 

1763年 宝暦十三年 前挽鍛冶創業 道具屋善七金物問屋創業

 下町の山田屋伊右衛門は宝暦十一年に前挽鍛冶の開業願いを役所へ出していたが認められなかった。

宝暦十三年頃になり前挽屋五郎衛門と大坂屋権右衛門と共に京都前挽鍛冶仲間に入り三軒が三木で前挽鍛冶

を始めた。宝暦十年の江戸の大火で大量の材木が必要になり、そのため前挽鋸の需要が伸びて飛ぶ様に売れた。

 同じ頃に道具屋太兵衛が三木で初めての金物仲買問屋を中町で始める。この頃の事は道具屋二代目善七

の書いた父祖行状記でよく分かります。

 

1765年明和二年 作屋清右衛門金物問屋創業

  上町で現在まで二百四十七年続いている作屋清右衛門が金物仲買問屋を始める。道具屋と共に

順調に発展して行き、寛政四年の三木仲買問屋仲間結成には中心的な役割を果たしています。

後には本業の金物仲買の他に家田畑の購入や金融業などいろんな事をして、三木で一番といわれる

富豪になっています。

 

1770年 明和七年 三木川通船

 東条町上津の舟着場

三木の金物が盛業に向かって行き荷物を運ぶ仕事が多くなると思ったのだろう、芝町の貝屋清七が

四・五石積み通船三十隻で三木川通船を始めている。ところが開業したものの荷物が集まらず実質二・三隻

しか稼動しない状態で冥加金の支払いにさえこと欠き通船業は失敗した。

 1773年安永二年に上下惣年寄福田屋与六郎と銭屋与一左衛門が三木川通船を引き継ぎ成功した。

その後運営上いろんな問題が起こっていますが、塩など三木町に必要な物資の輸送や、三木金物の輸送に

大きく貢献しています。

 舟着場は上津・中津・下津三ヶ所あり中津が役所専用の舟着場で、上津と下津が塩や鉄鋼に金物など

一般流通品の集散地だった。

 

1783年 天明三年 大坂文殊四郎鍛冶仲間より差止訴訟

 これまでも三木産の鋸は大坂へ売られていたが、大坂文殊四郎鍛冶仲間より大坂への差止訴訟により

大坂への搬入が禁止された。翌年天明四年に話がつき、三木町の鋸鍛冶七軒が大坂文殊四郎鍛冶仲間へ加入し、

他の三木の鋸鍛冶は七軒の下株になった。これにより三木の鋸が大坂へ入る事が出来る様になったが、

道具屋善七が大坂への販売は独占していた様です。

 

1785年 天明五年 大坂文殊四郎鍛冶仲間より庖丁差止訴訟

 鋸に続いて三木の庖丁も大坂文殊四郎鍛冶仲間の差止訴訟により大坂へ売る事が出来なくなった。

その後交渉の結果庖丁の寸法を変える事で話がまとまり大坂への搬入が認められたが、やはり道具屋善七が

三木の庖丁の大坂への独占販売権を持っていた様です。

 

1792年 寛政四年 三木金物仲買問屋仲間できる

 三木金物の売れ行きが大きくなると今まで二軒だった金物仲買問屋が、道具屋善七・作屋清右衛門・

紅粉屋源兵衛・今福屋善四郎・嶋屋吉右衛門の五軒になり、この五軒で三木金物仲買問屋仲間が組織された。

 これにより鋸などの価格の協定が結ばれ、いままで道具屋善七が持っていた大坂への独占販売権がなくなった。

これにより三木金物の販売がより大きくなったと思われます。

この頃三十九軒の鋸鍛冶がいた。

 

1796年 寛政八年 作屋道具屋差入証文扣

 作屋と道具屋の2軒の金物問屋から、三木鋸鍛冶仲間にあてた差し入れ証文には大阪から来た鍛冶屋から

鋸・鉋・曲尺を買わないと書いてあるます。この頃は鍛冶屋の力が強く鋸鍛冶仲間が二軒の問屋に苦情を

言ったのだと思います。この証文でもう三木で鉋や曲尺が作られていたことは確実です。しかし三木では鉋

の生産量は少なく、他所から来た鍛冶屋や大阪から鉋を仕入れていたのではないかと思います。

 この頃に壺屋藤兵衛親子により三木で曲尺の生産が始まった。

 

1804年 文化元年 江戸打物問屋仲間と直接取引

 前年緒享和三年に江戸打物問屋仲間の炭屋七左衛門から引き合いがきた。この時鍛冶仲間は江戸積問屋が

二軒になると競争により価格の下落を恐れて、江戸積問屋は一軒にする様に要求した。問屋は値引きの要求は

しない、勘定は毎月晦日に払うなどを約束をした。そして炭屋七左衛門へ道具屋と作屋の二軒が江戸積問屋に

なると返事をして、翌年文化元年から江戸打物問屋仲間十三軒と直接取引が始まった。

 この江戸打物問屋仲間との直接取引により三木金物は販売量が増え大きく発展します。

 

1807年 文化四年 飛脚屋二軒が開業

 この年までは明石町の加茂屋勘兵衛が飛脚をしていて、領主の用事や大阪での諸式相場の取次にあたっていた。

新しく井上屋又兵衛伊と伊勢屋嘉兵衛が飛脚を始めた。三木金物が発達し各地との連絡の仕事が増えた為だろう。

後の文化十一年にはさらに三木十ケ町の年寄より「飛脚人数増加願」が出ていてさらに飛脚が増えている。

 飛脚は文書の取次ぎの他金銭の取次ぎもしていて、もっと後になると金銭の流用や個人的に金物の販売など

を行い、問屋と問題を起こし飛脚屋は問屋に詫証文を書いていますがこの問題は収まらななかった様です。

 

1815年 文化十二年 諸鍛冶方連名

 問屋資料の諸鍛冶方連名にこの年の鍛冶屋の名前が載っています。、前挽鍛冶三軒・庖丁鍛冶二十軒・鋸鍛冶

六十一軒・やすり鍛冶八軒は分かります。次の項目の内剃刀鍛冶が六軒で鉋鍛冶が中庄と藤佐だろう。

鉋鍛冶の名前が出てきたのは初めてです。庖丁鍛冶の中屋庄兵衛と藤屋佐兵衛だろう、中屋庄兵衛が鉋を

作ったのは短い機関だったようです。笹与と石佐が鑿鍛冶だと思いますがはっきりしません。

 

1828年 文政十一年 曲尺地目切鑿鉋鍛冶控

この鍛冶控には曲尺地二十軒・曲尺目切鍛冶十六軒・鉋鍛冶は藤や金蔵・同治兵衛・東這田吉右衛門・

前田弥三吉・来住や亦兵衛の五軒。鑿鍛冶は来住や伊兵衛・中屋国松・紅粉や善吉・一文字や五郎兵衛・

綿屋国松・かりこ町兵蔵の六軒の鍛冶屋名が載っています。

 

1829年 文政十二年 三木町切手会所

 切手会所として建てられた旧玉置家住宅

 初めの切手会所は文政六年領主館林藩の三木陣屋の役人によって運営され始めた。翌七年に作屋清右衛門・

福田屋八郎兵衛・山田屋弥兵衛に出資と運営を依頼された。しかし三年で破綻し後を、領内の大庄屋達が

受け継いだが二年でまた破綻してしまった。その後文政十二年にまた作屋ら三人と木梨村の大熊市右衛門の

四人の資金で運営され天保十三年の館林藩の領地替えまで続いた。

 現在国登録有形文化財に指定されている玉置家住宅は文政九年に切手会所として建てられた。この事業は

金物で繁栄した三木町の資金を吸収する目的で設立したといわれる。

 

1830年 天保元年 三木金物専売事件

 この頃いろんな藩では地元の物産の専売を行っていた。姫路藩では領内の木綿を江戸で藩が直接販売

に成功して大きな収益を上げていた。館林藩も三木金物の江戸での直接販売を企てた。

 この年に藩の家老の命を受けた江戸伊勢町の伊勢屋清助が専売制の調査のため三木へ来た。三木陣屋の役人

の立会いのもと作屋と道具屋と専売の折衝を行った。作屋と道具屋は専売は難しいと言ったが話は進んで行った。

御産物掛り奉行都築要人の要請により作屋と道具屋が鋸・曲尺・鉋・鑿など金物全般と前挽鍛冶三軒も

前挽鋸各二枚を納めている。

 翌年に北町奉行所で入札が行われて江戸打物問屋仲間へ販売された。翌三年から館林藩は本格的に

専売しようと計画されたがなぜか三木金物専売事業は中止された。

 

1834年 天保五年 金物問屋衆等詫証文扣

 仲買問屋三軒が連名で鉋鍛冶仲間に詫び証文を入れている。三木や東這田村の鍛冶屋が他の鉋鍛治の偽刻印を

作り、それを打った鉋を問屋が仕入れて売ったことの詫び証文。問屋の支配が厳しい時でも鉋鍛治は自分の

刻印を持っていた。現代の鋼と違って熱処理の難しい玉鋼を使っていた当時、鍛治屋の腕により品質に差が有り

腕のいい鍛冶屋の刻印は価値があったのだろう。

 この頃は金物問屋は鍛冶屋に対して大きな力を持っていたので、問屋が偽刻印を作り鍛冶屋に

作らせたのだろう。

 

1835年 天保六年 作屋天保六年棚卸扣

この年の棚卸帳には鍛冶屋の名前がたくさん出てきます。前挽き・鋸・引き回しまで品名が書いてあるので

何鍛治か分かりますが、他の鍛冶屋ははっきりとわかりません。しかし鉋鍛治は、『藤治』こと藤屋治兵衛そして

『這吉』こと東這田吉右衛門は、文政十一年の鍛治控扣に載っているので分かります。他に『中九』こと

中屋九兵衛や『材安』こと材木屋安兵衛や『桶小』の五人は鉋鍛治です。もっといるように思いますが

わかりません。

 またこの年の棚卸帳に初めてきたい鍛治として『吉平』『生野屋』の名前が出てきます。この頃から

きたい鍛冶という鍛冶屋が発生したのではないか。きたい鍛冶という鋼を作る鍛冶屋が出来ると、

それぞれの鍛冶が玉鋼を鍛えて鋼を作る工程が省かれ金物の生産が増えたと思います。

 

1845年 弘化四年 明石藩諸商売取締

この年から明石藩は半知と呼ばれる藩士の知行を半分にする藩政引締めが行われており、その一貫として

領内の商人・職人・鍛冶屋に対し「諸商売取締り」を行った。それに対し鍛鍛冶作屋利左衛門・井筒屋源七・

生野屋結友吉・材木屋安兵衛の四名は明石藩に商売継続の嘆願を行った結果、冥加金を一人が銀六十匁を

五年間上納している。金物仲買問屋仲間は十一軒がそれぞれ銀150匁を五年間上納している。

 材木屋安兵衛は鉋鍛冶もしています、きたい鍛冶と鉋鍛冶の二つの鍛冶株を持っていたようです。

 

1849年 嘉永二年 中屋九兵衛差入証文

 鉋鍛冶中屋九兵衛は三木金物仲買問屋衆から、新たに肥切包丁職を始める元手金として金十両を受け取って

います。これは、三木には以前から肥切包丁職の鍛冶屋がいて三木の金物問屋へ製品を納めていたが、

加東郡太郎太夫村の善助という人が、三木の肥切包丁職人と独占売買の約束をした為に、三木の金物問屋に

肥切包丁が入ってこなくなり、金物問屋衆が九兵衛に肥切包丁の製造を要請した事です。

 これは問屋の強い販売力と資金力による鍛冶仲間への干渉ともいえます。

 

1854年 嘉永七年 作屋嘉永七年棚卸扣

この年の棚卸帳を見ると鉋の在庫量が大幅に多くなっています。嘉永以前と比べると二.三倍位になっています。

問屋の販売量も多くなっていると思われます。

道具買帳に鉋鍛冶としては、藤屋治兵衛・中屋九兵衛。材木屋安兵衛。東這田杢兵衛ら合わせて六.七人

載っています。鑿鍛冶は笹屋与兵衛・綿屋四郎兵衛・横谷屋市左衛門他にもいる様に思いますが分かりません。

 

1857年 安政四年 正金銀取扱諸商人名前調帳

 この調帳は他地区と取引があった人の名簿です。金物関係では金物問屋が十三軒・金物荷売が五軒・

鍛鍛冶が三軒・前挽鍛冶が三軒載っています。金物問屋や荷売や前挽鍛冶は他所へ金物を売っているので、

金銭をやり取りしているので当然ですが、三木の鍛冶屋の材料の鋼を作っている鍛鍛冶が載っているのは、

原料の玉鋼を大坂の鉄問屋から買っていたからだろう。金物問屋が十三軒と多くなり三木金物の流通ルートが

拡大して、鍛冶屋も多くなり三木町も繁栄しています。

 

1868年 明治元年 鍛冶職株取締訴訟扣

 明治新政府になり旧来の株仲間制度から鑑札を付与する制度になりました。そのためだろう混乱が起こり

紛争解決のため兵庫津裁判所へ諸鍛冶職株取締役の三人が訴訟を起しています。

 

 明治初年頃

 幕末の安政年間には十三軒が営業していた三木町の金物問屋は、明治の初め頃には作屋清右衛門・

道具屋太兵衛・井筒屋惣助・井筒屋宇兵衛の四軒になってしまった。三木で初めて金物問屋を始めた

道具屋善七も、この変革期を乗り越える事が出来ずに廃業した。

鉋鍛治の有名な親方として黒川・小山・藤原・がいました。江戸期に比べ人が代わっているようです。

小山系統の小山清次郎が明治元年に創業しているが親方が分からない。

この頃はきたい鍛冶は増井佐吉・原・中本・井筒屋・加賀源の五軒ありました。井筒屋は井筒新吉さんで

加賀源は加賀から来た鉄砲鍛冶だった。この頃から鍛冶屋が作業していた刃付けを専門の業者に外注し始める。

 この頃に元鋸鍛冶の吉永新右衛門が二十五歳で鋸目立業を始めた。

 

1971年 明治三年 三木で鏝が作られる

 嘉永二年生まれの岩佐六助は幕末の頃東京の鏝鍛冶山吉へ弟子入りして鏝製造技術を学んだ。その後

修行した後三木へ帰りこの年に鏝鍛冶を始める。現在日本で作られるほとんどの鏝は三木で作られますが、

その元祖は岩佐六助です。

 他の資料では日露戦争前後上町の岩佐豊吉が元祖だとあります。

 

1874年 明治七年 府県物産表

 

飾磨県

新潟県

大阪府

東京都

  92860挺

 

 16389挺

1586挺

126016挺

19516挺

76159挺

46460挺

97743挺

8263挺

39176挺

7995挺

小刀

 3877本

 84935本

 56694本

35290本

鉇(生反り)

 

 

124986挺

 

庖丁

4481挺

82709挺

 

 

35199本

 

9576本

6606本

前挽き

   5278挺

 

 

 

尺金(曲尺)

  22065挺

 

 

 

 

10360挺

 

 

 

 

316900本

 

剃刀

 

 

103056挺

 

28100本

 

121380本

 

 

 

4200本

 

吹子

 

 

1431挺

 

玄翁

 

 

 

7710挺

鋏          

10265挺

1415挺

34500挺

3223挺

 

この年の「府県物産表」によると鋸・鑿・鉋・曲尺などの本職用道具のの生産量は三木の所属する飾磨県が

一番多かった。もうこの頃から三木は鋸・鑿・鉋などの本職用道具の生産は日本一の産地だったのだ。しかし

剃刀の生産量が載っていない。

には大阪・東京・新潟・京都などが金物の生産が多かった。三条・与板の属する新潟県は本職用道具の生産は

それほど多くないがチョウナが一番多く、小刀・庖丁も多い。大阪は小刀・剃刀・錐などの民生用金物の

生産は多く、鍛冶屋の道具である吹子の生産も多い。

 

1880年 明治十三年 洋鋼の使用が始まる

 井筒新吉は伏見稲荷神社参拝の帰り、神戸市兵庫島上町を通っていると陸揚げされた板鋼が目についた。

鋸鍛冶だった氏はたちまち閃くものがあり乞うて持ち帰り鋸を打ったという。仕上がりの美しさ焼入れの容易さ、

氏はこれを直接大坂へ持参したという。洋鋼使用の初めです、日本で洋鋼で金物を作ったのはで最初だと

思われます。この年以降洋鋼で金物が作られる事が多くなる。

 井筒新吉はこの後いろんな金物事業を起しています。

 

1885年 明治十八年頃 極端な不景気になる

 明治十三年以降三木ではほとんどの金物が洋鋼で作られようになったが、洋鋼の研究をあまりせずに製品を

作った為、クレームが殺到し金物が売れず極端な不景気になってしまう。

 明治十三年に四百戸あった鍛冶屋が半分になるほどで、これ以降洋鋼に対応できた鍛冶屋が残っていった

のだろう。洋鋼への切り替え時期には日本のどこの産地でも起こった様です。

 

1889年 明治二十二年 町村制により三木町になる

 明治二十六年外人の設計により建てられた町役場

この年に町村制による三木町になり選挙により黒田仁佐衛門が初代三木町長になっています。

 

明治の中頃 鋸の油焼入れが始まる

 鋸の油焼き入れに関してはいろいろと言われていて本当の事は分かりませんが、明治十一年頃

前田町の井上由松の弟が始めたという説、同じ前田町の羽田源之助が始めたという説。

宮野平次郎が明治二十四・五年頃京都伏見の鋸鍛冶谷口清兵衛に、弟子入りして修得したという説が

三木ではいわれています。

「日本の鋸」の作者吉川金次は明治二十四・五年頃に始まったと言っています。

                                  (明治以後の三木金物)

 

1895年 明治二十八年 三木金物組合商会

 この頃は日清戦争後の不景気で三木金物は販売不振になり鍛冶職人の中には三木町を出て職を求めなければ

ならない状況になっていた。金物問屋の人は何か事業を起さないと思っていたところ、姫路の第十連隊から

円匙等の軍需品の製造をしないかと問い合わせがきた。

 これを契機に金物問屋数軒が出資して三木金物組合商会を設立し円匙等の軍需品の製造販売を始めた。

初め製造技術修得に苦労をしたがだんだん業績を上げた。 日露戦争後は重松太三郎が社長になり、

ショベルの製造を目指し九州の炭鉱から北海道の炭鉱まで販路を広げ、ショベルは三木大きな

金物産業のひとつになりました。地球工業と名を変えています。

地球工業は三木で初めて機械を導入した会社です。

 昭和初年頃の地球工業

 

2002年 明治三十五年 鉋台打・鑿柄付の始まり

 以前は道具を使う大工が鉋の台打ちや鑿の柄付けを行っていたが、三木で台や柄を付けて

問屋が販売する様になった。鉋台打ちは徳永順太郎が始めて、鑿の柄付け下町の神沢が始めた。

 それまでは鉋は押金のない一枚台で使っていたが、この頃から押金の付いた二枚台に変わって行く。

 

明治の終り頃 ギムネが伝わる

 ギムネは明治初年にドイツから輸入された後堺で作られていたが、この頃堺の人和中益治郎が中町で

ギムネ工場を開いた。その後和中氏の弟子がギムネ鍛冶を開いたが長続きしなかった。

 堺の内海で修行した久米五郎が大正八年に加佐でギムネ鍛冶を開業した。その後ギムネ鍛冶は久米五郎の

弟子が続き、現在日本のギムネの90%以上を占める様になったのは小林元二の努力が一番多きい。

 

明治の終り頃 肥後守が考案される

 いろんな説がありますが明治の終り頃金物商重松太三郎が熊本よりナイフを持ち帰り、村上貞治が尾を付け

使いやすい形に改良した。初めは鋼を割り込み鍛接した高級品だったが後に全鋼製の子供の使える

普及品になった。

 大正七年に東京の水谷兄弟商会から十万丁の大量注文があった時、みんながしり込みする中永尾重次が引き受け

契約どうり納品する事が出来た。水谷商会はこの肥後守を全国に売り子を派遣して使い方の実物宣伝で売り1ケ月

に1万丁を売ったという。こんな事が五・六年続き肥後守は三木の大きな産業になりました。(肥後守博物館)

事業名として洋刀と呼ばれていました。

 子供向けの安価な刃物なので問屋側からの要望で粗製乱造になりやすく、組合を作り品質を保持する様にした。

そして明治四十三年に肥後守の登録商標を取り、肥後守組合員のみ肥後守と刻印が打てる様にした。

 現在は肥後守カネ駒さんの永尾さんだけが肥後守を打つ事が出来ます。

 

2010年 明治四十三年 この頃の金物問屋

 明治四十五年の黒田清右衛門商店

明治初年は四軒だった金物問屋は明治三十年には十六軒になり明治四十三年には四十四軒に増えている。

明治の頃四国の阿波の人が金物を地方へ出張販売に行っていた。その金物の仕入れに毎年ある時期に三木へ

現金を持って大量に買いに来ていた。阿波どんと呼ばれる人達で阿波どんのする事を真似て金物問屋が

増えていったといわれる。

それまでの金物問屋は居ながらにして他所からの注文を待つ事業形態を、西日本を主に出張販売に出る

様になった。これは交通機関の発達により地方へ行きやすくなった事も理由です。

 

大正の中頃 原材料の仕入れが変わってきた

 それまで金物問屋から鉄・鋼・炭などの原材料を支給されて鍛冶屋は鋸や鉋などを作ってきた。この頃から

鉄・鋼などの原材料を取り扱う業者が出来てきて、鍛冶屋が鉄・鋼は業者から購入しそれぞれの金物を作る

様になってきた。鍛冶屋から鉄鋼業者になった人もいます。

        

大塚町に鑿鍛冶が多くなる

 明治の終り頃から昭和の初め頃にかけて大塚町で鑿鍛冶が大勢開業している。宮脇喜八と磯野松兵衛の二人

が天保年間に大塚町で鑿鍛冶を開業した後大塚町で弟子が増えていったらしい。三木金物問屋資料の天保六年

の棚卸帳に載っている大つかノミとは宮脇喜八か磯野松兵衛のどちらかだろう。

大正十三年に発会した三木小鑿組合の名簿によると会員七十六名中大塚のメンバーは三十五名を占めている。

昭和三年の美嚢郡商工懇談会の小鑿の部のメンバー九十五名中四十一名が大塚の人です。

       

 他所から三木へ鍛冶職人が多く来ている

以前から大阪など大きな街では鍛冶屋が作った道具を直接大工などが買っていたが、多くの種類の道具を

売る金物屋が出来ると、大工など職人は金物屋で買う様になってきた。そのため金物屋への販売網を持つ

三木の金物問屋の販売は伸びて行ったが、大阪など大きな街の鍛冶屋は仕事が少なくなり、三木へ来る金物職人

が多くなったのではないか。

 明治の終りから大正にかけて大阪を中心に鍛冶職人や金物関係職人が多く三木へ来ている。特殊鑿の高橋一門・

鉋鍛冶の金沢伊乃助や広田信太郎などの鍛冶屋の他に鉋研ぎの藤田や鞴作りの幸左衛門などの職人も来ています。

 

1923年 大正十二年 関東大震災が起こる

 大震災の後家屋の復興需要により道具の注文が多くなり三木金物は好景気になる。鍛冶屋の独立開業が相次ぎ

鍛冶屋の軒数も多くなって行く。

 

1828年 昭和三年 鍛冶屋の軒数が多くなる

 この頃工業関係業者が集まった美嚢郡工業懇談会という組織がありその名簿によると鋸鍛冶二百三軒・

高級鋸のスタル鍛冶が三十一軒・特製鋸鍛冶が二十二軒で合計二百五十六軒の鋸鍛冶がいました。

 鑿鍛冶は大鑿鍛冶が七十六軒・小鑿鍛冶が九十五軒で合計百七十一軒です。鉋鍛冶は六十八軒いました。

玉鋼で鋸を作る鍛冶屋がまだ宮野鉄之助と五百蔵安兵衛と二人いました。

この年以降厳しい不景気になって行き鍛冶屋の軒数も減って行きます。

 

1830年 昭和五年 昭和の大不況

 昭和四年ニューヨークのウォール街の証券取引所の大暴落に始まった世界恐慌は日本にも波及した。日本も

株式は下がり中小企業が多く倒産し失業者があふれ、不景気になり三木の事業者も減って行きます。

 三木の鍛冶屋は一月に一週間仕事があればいい方だった。「終始一貫」田中正一郎

 

1835年 昭和十年 金物神社創建

 

三木には以前から上の丸の稲荷神社が鍛冶屋に尊崇されていて、十二月八日の鞴祭りの日には朝暗いうちから

大勢の鍛冶屋のお参りがあり賑わっていました。三木にも鍛冶屋の神である天目一命を祀る神社を作ろうと気運が

高まり、西脇の大木町の天目一神社から分祀して昭和十年に三木金物神社が創建されました。

祭神は鍛冶の神である天目一箇命(あまのまひとつのみこと)と製鋼の神である金山毘古命(かなやまひこのみこと)

と鋳物の神である伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)の三神が合祀されています。

 

昭和十四・十五年頃 満州国へ輸出が多くなる

満州国へ多く輸出していた堀田商店の昭和十一年頃の初荷

 昭和八年満州国建国以来満州への輸出の努力はされていたが成果はなかった。昭和十年岡田栄次商店の岡田英次は

満州の人の使う道具であるサーフル鋸や南京鉋を作って、満州で売ると評判がよく売れ始めた。すると三木から三十軒

以上の問屋が満州へ進出したので過当競争になり、粗悪品も出回るなど三木金物としても厳しい状況になった。

そこで相談して満州国への輸出は五軒の問屋が選抜された。

 それ以後は満州への輸出は順調に発展して行き、昭和十四年からは東南アジアへも輸出が多くなり、最盛期の

昭和十四年・十五年頃の三木金物は満州景気といわれる好景気になった。

 この頃は三木の生産額の半分を輸出していたという。

 

1943年 昭和十八年 大同工業設立

 大同第二工場で作られた鉋

戦争の影響が厳しくなって鉋鍛冶に原材料が手に入り難くなり、鉋鍛冶が集まって大同工業という会社を作った。

大きな作業場数ケ所で仕事をしましたが、今まで親方として鉋を作っていた人が集まって仕事をしたのでいろいろ

と問題があった様です。やがて、終戦と同時に大同工業は解散し鉋鍛冶はまた各自の職場で仕事を始めました。

 

1946年 昭和二十二年 三木利器工匠具工業協同組合設立

 鋸を除く他の道具製造業者集まり三木利器工匠具工業共同組合を四月一日に設立した。理事長はなぜか卸問屋の

黒田清右衛門さんで三年後昭和二十五年にギムネの小林元二が就任しています。その頃の組合員数は三百九十二人です。

 

1948年 昭和二十三年 火入れ式始まる 三木鋸工業協同組合設立

昭和二十五年御番鍛冶師の鋸鍛冶池町伊之助

 この年の十二月八日のふいご祭の日に、金物神社に御番鍛治司が古式鍛錬を奉納する火入れ式が始まりました。

最初の御番鍛冶師は鋸鍛治の吉永清太郎さんと鑿鍛治の鈴木周一郎さんが務めました。鉋鍛冶は昭和二十四年の

神吉代一郎さんが初めです。

 鋸の事業者ばかりが集まり三木鋸工業共同組合を設立した。組合員は三百六十名です。

この頃になると戦後の復興で道具の需要が大きくなり、生産力を上げる為どこの鍛冶屋も競ってベルトハンマー

や研磨砥石を設備し始めた。設備をした鍛冶屋の生産量は1,5倍から2倍になりました。

 

1951年 昭和二十七年 第一回金物見本市開催 故重松太三郎氏表彰される

 三木の鍛冶屋や事業者の作る鋸・鑿・鉋などの大工道具や作業工具。・建築金物など一同に展示する

第一回金物見本市が三樹小学校講堂で開催された。十月十五日から五日間三木の秋祭りにあわせて、全国の

金物販売業者四百五十二名を招待し、松茸狩りに商談に五日間におよんだという。

その後も第17回からは金物振興展そして金物フェアーと、名前を変えながら規模が大きくなり

現在は全国から人の集まる三木市の大イベントになっている。

 大正十年頃の重松氏(兵庫の100人)より

この年の四月兵庫県は独立日本を記念して、郷土産業に尽した功労者として県下の十二氏を県庁に於いて表彰した。

この中に故重松太三郎氏が推輓されています。氏は金物商をしながら三木でショベル産業を興しタバコ庖丁を始め、

肥後守の魁をなし三木金物の発展に多大な貢献をした人です。

 

1953年 昭和二十九年 三木市誕生

三樹小学校講堂で行われた祝賀式

 三木町は志染村・別所村・細川村・口吉川村の四村と合併し三木市となった。

八月には市長選挙が行われて小林利八氏が当選して初代三木市長になりました。

 

1916年 昭和三十六年 三木金物便覧

 この年に三木市役所商工課が発行した三木金物便覧に三木の金物関係業者の名前が載っています。

何十人の会社もあれば一人の業者もありますが、金物問屋が二百九軒・鋸鍛冶が三百一軒・鉋鍛冶が四十軒・

鑿鍛冶が七十九軒ギムネ鍛冶が三十一軒・鏝鍛冶が五十七軒・鎌鍛冶が四十三軒・ナイフ(肥後守)が二十軒・

小刀鍛冶が十六軒ありました。

 他に鍛冶屋が外注する業者として鉋台屋が三十二軒・鑿柄屋が三十八軒・鋸目立屋が九十四軒・

水研屋が29軒あり、まだ他に剃刀・鋏など業者の全ての数は一千八十二軒あります。

すごい数です。昔からいつも三木市は金物産業で成り立っていました。

 

1976年 昭和五十一年 金物資料館開設

 玄関前には「村の鍛冶屋」の歌碑があります。

 三木市立金物資料館は小林恒美氏の寄付金により建設された。伝統ある三木金物の紹介、鍛冶の伝統技術を

後世へ伝えるため、三木の金物に間する古い資料や、三木の鍛冶職人の使っていた道具を作る古い道具など。

そして前挽鋸や鉋や鑿などの道具を収集・展示・保存をしています。

 前庭では毎年2月の第二日曜日に砂鉄を使ったたたら操業が行われ、毎月第一日曜日には古式鍛錬技術保存会

による鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の古式鍛錬の実演が行われている。

 

1976年 昭和六十一年 三木工業協同組合誕生

 今までは多くの事業者のあった鋸鍛冶は三木鋸工業組合を作って活動していた。他の道具製造業者は

三木利器工匠具工業共同組合に所属していたが、年々事業者の数が減ってきたのでこの年に二つの組合は

合併して三木工業共同組合が発足した。

 

1997年 平成八年 播州三木打刃物が伝統的工芸品産業の指定を受ける

 昔から三木で作られている鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の五業種が、播州三木打刃物として当時の通商産業省の

認定する伝統的工芸品産地の、指定を受けるための作業を平成五・六年頃から始めた。百年以上産地として

続いている事を調べ、昔作られたそれぞれの道具を探し、現在と昔の製造工程を調べて申請書類を作る。

 通産省へ申請書類を出した後三木へ各業種の現地調査があり、その後「播州三木打刃物」として

伝統的工芸品産業の産地指定を受ける事が出来ました。同時に12名の伝統工芸士が誕生しました。