鍛冶四代   山本鉋百年史            山本芳博

 私は昭和四十一年に兵庫県立小野工業高校卒業後、古くからの三木の地場産

業であり、家の仕事である鉋鍛冶の仕事に入りました。それから父勝三に鉋

を教えてもらい約五十年が過ぎました。そして平成から令和元年になったこ

の年は、祖父喜市が大正八年に三木町芝町で山本鉋製作所を創業して百年に

なります。山本鉋もいろんなことがありましたが、取引先の問屋さんや地方

の金物屋さんそして鉋を使って下さる大工さんなどの、長い間大勢の人達の

おかげで、喜市・勝三そして私と三代にわたり鉋鍛冶を続ける事が出来まし

た。ありがとうございました。

 現在も同じ芝町で四代目である健介と一緒に仕事をしています。創業百年

を迎えるにあたり山本家と山本鉋の歴史を綴ろうと思い、私の見てきた事感

じた事そして、両親や親戚の人や三木の鉋鍛冶や近所の人など、今まで多く

の人に聞いてきた事と,今まで調べてきた三木の鉋・鉋鍛冶に関する事をま

とめました。

目次

 1.鉋鍛冶以前の山本家

     喜市の父石松

        弟富久治

 2.山本喜市鉋鍛冶創業

     黒川鉋鍛冶

 3.大正時代三木の鉋鍛冶の状況

     この頃の鉋の作業工程

      鉋の地鉄

      上の丸稲荷神社の鞴祭り

 4.田中正一郎を弟子にする

 5.長男博一が仕事に入る

 6.戦争の時代へ

 7.父勝三が鉋鍛冶を継ぐ

 8.三木の鍛冶屋も機械化へ

 9.高度経済成長期

     鉋台屋さんの事

 10.私が鉋鍛冶の仕事に入りました

     昭和40年代鞴祭り

      銘切屋さんの事

      水研屋さんの事

 11.昭和40年代の仕事の状況

 12.使っていた鋼

 13.職場を建て替える

 14.勝三が交通事故で入院する

 15.鉋鍛冶が地鉄の鍛造を始める

 16.鉋鍛冶が錬鉄を探し始める

 17.勝三が金物神社の御番鍛冶を務める

      金物まつりの事

 18.三木の鉋が伝統的工芸品産地の指定を受ける

 19.私が北米工芸士大会に参加する

 20.健介が鉋鍛冶の仕事に入る

       鉋の古式鍛錬

 21.仕事の内容が変わって来た

      現在の山本鉋の製造工程

       山本鉋の鍛冶屋の神様 

1.鉋鍛冶以前の山本家

  山本鉋製作所は私の祖父喜市が創めました。喜市は明治二十三年父石松母

まつの長男として三木町芝町で生まれました。曾祖父石松の仕事は漢方薬を

りながら,妻まつと共にうどん屋をしていたそうです。当時家の前の道路は

戦国時代三木が別所氏の、城下町だった以前から西国への街道で、その後

吉が別所氏を攻めた三木合戦の湯の山街道といい有馬温泉整備した街

道です。江戸時代には参勤交代にも使われました。

 昔から明治大正昭和の淡河や志染から、この辺りの中心地である三木

町への通り道で、人通りも多く当時芝町には三軒のうどん屋があったそうで

す。家は湯の山街道の不断坂の南側にあります。

喜市の父石松

石松は他に仕事として相撲の行司になろうと、大坂相撲の行司木村玉之助

の所へ弟子入りしています。そして修行が終わった後、明治三十年頃に「木

村仙司」の行司銘をもらっています。三木へ帰って来た後秋の祭り時期には

三木だけでなく播磨の各神社の相撲大会行司として走り回っていたそう

です。この頃神社でする相撲の事を「みやず」と呼んでいたそうです,「みや

すもう」の略だろう山本家の屋号は「いいかた」といわれていた、これは

当時行事が呼び出しを兼ねていたのだろう、言う人で「いいかた」となった

と思います。




かなり以前ある芝町のお年寄りに聞きました。その人が病院で待っていた

時、隣のお年寄りと話をしていて芝町の人と知った時、「昔いいかたの行

で相撲を取った事がある」と話したそうです。昔はちょっと知られた人だっ

た様です。石松が漢方薬を入れていた古い引き出し物入れは職場にあり

在庫の鉋刃を入れています。石松の姿は墨絵として掛け軸に残っています、

子である喜市が作ったものだろう。

 三木市石野の御酒神社(みさかじんじゃ)にある、明治三十三年の相撲額

に行司木村仙司の名前が載っています。石松は文久三年の生まれですから

十四歳の時です。三木市の神社の相撲額を探しましたが明治・大正の頃のも

のは無く、木村仙司の名前があるのは石野の御酒神社だけです。 

 地元岩壺神社の明治三十八年の文書には、石松が宮相撲で行司をしていた

記録が残っていますが、相撲額はありません。 平成二十九年九月にある神

戸の人から、西脇市黒田庄の兵主神社の拝殿に大正八年の相撲の額があり、

行司として木村仙司の名前があるとメールがありました。その人が木村仙司

がどこのどんな人かとインターネットで調べると、山本鉋のホームページに

行き着きましたと。私は兵主神社へは何度も行きましたが、拝殿には上がっ

ていなくて相撲額には気が付かず、石松さんが黒田庄の神社まで,相撲の行司

に行っていたと初めて知って驚きました。


 しばらくしてから兵主神社へ行って相撲額を見てきました。豊臣秀吉の時

代に建てられた、古い立派な広い拝殿の真ん中あたりに、一つだけ相撲額が

あり大きな字で木村仙司と書いてありました。大正八年の額ですから、喜市

が鉋鍛冶を始めた年です。約百年経っていますがはっきりと読めます。三木

周辺の神社にはまだ木村仙司の撲額が残っているかもしれないと思って

います。

 喜市の弟冨久治

 喜市の弟に富久治がいました。勉強が好きで三樹高等小学校を卒業後明治

四十一年県立小野中学校入学し大正二年卒業している。学校まで約八kmを

歩いて通った、母親の松は毎日五時に起きて弁当を作ったそうです。小野中

学卒業後は東京の日本大学へ進学しています。東京では華族である杉子爵の

家に書生として、家の用事や家庭教師をながら大学を卒業した。大学卒業

後は逓信省に入っています。この時高等文官試験に合格して入ったと、父の

従兄の三木市助役になった片嶋一夫に聞きました。

 母親松は一度逓信省にいた冨久治に会いに行っています。私が芝町区長の

時老人会の旅行の時ある人に、松ばあさんが逓信省の守衛に山本冨久治に会

いに来た、と言うと田舎のばあさんが何しに来たかと高圧的態度だったが、

富久治の母だと分かると態度がころりと変わり丁寧になったそうです

う一人の人は松が東京駅に着くと冨久治がタクシーで迎えに来たと、話して

くれました。

 私が小野工業高校へ朝の通学時ある芝町のおばあさんが「あんた山本の息

子か、あんたのお爺さんの弟は毎朝歩いて小野中へ行ったんやで、あんたも

頑張りよ」と言われた事もありました。芝町では多くの人に語り継がれた伝

説の人と云えるかもしれません。


正十三年二月二十六日に岡山出身の荒尾豊子さんと結婚したが、同じ

年の大正十三年四月十六日に肺炎で亡くなっています。以前から富治さん

は結婚生活は短かったと聞いていましたが、たった二ヶ月弱の期間だったと

は。石松・まつの両親も期待してだろうし落胆ぶりが想像できます。

 亡くなってから五十年たった昭和四十九年にその豊子さんからお墓参りが

したいと葉書が来ました。今は札幌の教会の神父さんと結婚していて、主人

の許可をもらっていますと。その手紙に杉爵の事が書いてありました。他

にその頃の事が書いてありましたが、その葉書を無くしてしまった。もう覚

えていません、残念です。

 その時は兄である祖父の喜市はもう亡くなっていて、まだ存命だった兄の

片嶋久一さんを父勝三が呼んで来た事を覚えています。私は話をした記憶は

りませんが、主人の神父さんの仕事を手伝っていたのだろう、家のピアノ

を上手に弾いていました。

 2.山本喜市鉋鍛冶創業

喜市はその頃発展してきた三木金物の鉋鍛冶になろうと思い、三樹尋常

学校を卒業した後明治三十六年に、その頃鉋の名人といわれた三木町新町の

黒川卯太郎に弟子入りした。この時に黒川卯太郎には同じ芝町の横山藤太郎

の他、四・五人が弟子入りしています。同じ新町には他に小山清次郎と藤原

滝蔵という、三木では鉋鍛冶として名の知れた人がいました。新町は鉋鍛冶

の多い町だった様です。その後喜市の弟の久一も明治四十三年鉋鍛冶になる

ために黒川親方に弟子入りしています。


喜市は黒川親方の所で十年ほど修行しています、この時の事はおじいさん

から何も聞いていません。修行が終わった後他の鉋鍛冶へ職人として仕事に

行っています。すぐに独立して鉋鍛冶にならなかったのは、他の鉋の親方の

仕事を覚えるためと、弟の久一が鉋鍛冶として一人前になるまで待ったため

だったと思います。

 そして大正八年に修行の終わった弟久一を先手に山本鉋を創業しました。

職場は家の奥にある離れの東側に炭などの物置と作業場を作った。この時

三木には二十数軒の鉋鍛冶が居た様です。

 黒川鉋鍛冶

 喜市の親方である卯太郎の黒川家は江戸時代の天保年間新町に居た鉋鍛

冶中屋九兵衛から始まっています。九兵衛は鉋だけでなく肥切包丁鍛冶や鍛

(きたえ)鍛冶もしていて、三木の有力な鍛冶屋だった様です。九兵衛は自

分も鍛冶屋をしていながら、鉋や肥切包丁や鍛鍛冶の鍛冶株を持ち職人を雇

って仕事をさせていた。

 卯太郎はその代目です。卯太郎の父は太市郎といい鉋鍛冶にならず刀鍛

冶になっています。鍛鍛冶は玉鋼を沸し何度も折り返し鍛錬をして、鉋鍛冶

や鑿鍛冶の原料の鋼を作る鍛冶屋です。刀鍛冶とほぼ同じ作業です、太市郎

は小さい時からこの仕事を見ていて、刀鍛冶になろうと思ったのだろう。太

市郎は何処で刀鍛冶の修行をしたのか子孫の人に聞きましたがしっていませ

んでした。


太市郎は刀鍛冶として研鑽を積んだ後、当時三木の領主だった明石藩主松平

慶憲(よしのり)に認められ、明石藩御用刀剣鍛冶師なっています。そして

殿様より黒川という姓を賜わり、黒川太市郎利行という刀鍛冶銘で刀を作っ

ています。実戦で使う打刀でなく儀礼用の太刀と言う長い刀です。その後太

市郎は明治四年の廃藩置県後、藩主の上京と共に妻と次男を連れ東京に移住

した。

 太市郎は明治三十年には黒田清右面衛門商店の資料によると、東京都千代

田区で福島幸太郎として金物屋になっています。殿様に貰った黒川という性

で金物屋は遠慮したのだろう。

 卯太郎は祖父九兵衛と共に三木に残り九兵衛に鉋を教えてもらい鉋鍛冶に

なった。卯太郎は祖父中屋九兵衛に鉋を習っていますが、伝統的な和鋼・和

鉄を使った作り方です。明治十三年頃に三木の鋸鍛冶井筒新吉により、三木

に刃物の鋼材料として外国で作られた洋鋼が入って来た。道具の材料として

洋鋼を使い始めたのは日本では三木が最初の様です。


この時鋸・鑿・鉋鍛冶の中で今までどうり、和鋼和鉄で道具を作りますと

いう鍛冶屋もいました。 しかし和鋼和鉄の生産が減って来た事もあり、三

木金物が洋鋼を使う製法に変って行った。この時三木の鍛冶屋は対応を誤り

三木金物の評判が落ちて、販売量が激減してしまった。三木の鍛冶屋が約半

分になってしまったという。

 その原因は不景気になった事もあるが洋鋼使用により、洋鋼に合った

鍛接・鍛造・焼入れが出来ず声価を失墜したためである。鍛接の行程に

おいて大きな違いは玉鋼は沸かし付けにより鉄と鍛接しますが、洋鋼は

接合剤を使って鍛接しないと切れる刃物は出来ません。接合剤を見つけ

最適な温度で鍛接する、これを覚えるのに苦労しただろう。

 この時鍛冶屋も問屋も必死に洋鋼の研究をした事と思いますが、元の状態

に戻るに十年程かかっています、この時洋鋼に対応できない鍛冶屋は廃業し

ていったのだろう。卯太郎も苦労したと思いますが、洋鋼の鉋の製法を確立

しています。その後 卯太郎は三木だけでなく他所からも弟子を受け入れて

いて、修行中に病気で亡くなり黒川家で葬式を出し墓も黒川家の墓所にある

人もいるそうです。


明治四十四年大宮神社の境内に「黒川君の碑」という石碑が弟子達と友人

達によって建てられています。「黒川氏三世の主安政元年二月三木に生まる。

性温厚篤実にして夙に父祖の業を継ぎ・・」の碑文もある立派なものです。

ここには他の鉋鍛冶の親方と、まだ修行中の多くの弟子たちと共に、喜市の

名前も刻まれています。

 卯太郎は多くの鉋鍛冶を育て、その弟子の鉋鍛冶がまた多くの鉋鍛冶を育

ていて、三木の鉋の発展に一番貢献していると思います。卯太郎の子供武四

郎も黒川家四代目の鉋鍛冶になっていますが、大正の終わり頃病気で亡く

なっていて黒川鉋鍛冶は絶えました。

 3.大正時代三木の鉋鍛冶の状況

 明治の終わり頃から大正時代になると三木の金物問屋の販売力が大きくな

り、三木金物の景気が良く、大坂などからもいろんな業種の鍛冶屋や職人が

三木へ来ています。これは江戸時代から大坂や京都には鉋・鋸・鑿などの多

くの道具鍛冶が居て、周りに多くいる職人に直接道具を販売していた。

 しかし明治時代になり鍛冶屋から問屋を通じて金物屋へ道具が流通し、職人

達は金物屋から道具を買う様になってきた。そのため大坂に居た鉋鍛冶も鉋

や鑿などの刃を研ぐ職人達や、他の道具職人たちが、金物産業の発展して来

て金物問屋が多く鍛冶屋も多い三木へ来ています。鉋の生産販売も大きく伸

びた時代で喜市の仕事も順調だった様です。

 江戸時代から明治を通じて、三木の鍛冶屋は金物問屋から鉄や鋼などの原

材料の他、炭などの副資材を支給されて鉋などの道具を作っていた。問屋は

鍛冶屋毎に通(かよい)を持ち、支給した物品の金額と納品された製品の金

額を書き、時々支払った金額を書き留めていた。そして年に二回の節季に

納めた製品と支給された物品と清算していた。

 しかし大正時代に入ると鉋鍛冶は複数の問屋と取引をする様になり、通を

使った取引が出来なくなった。そのため鉋鍛冶が自分で鉄や鋼や炭など材料

を仕入れて鉋など道具を作り、その代金を毎月問屋に請求する現在の形にな

った。しかし鋸や鑿などの鍛冶屋では一軒の問屋と取引をしていた鍛冶屋も

あり、昭和十年代まで通を使っている鍛冶屋があったそうです。

 この頃の鉋鍛冶の作業工程

1.鍛接鍛造 2.焼き鈍し 3.刃すりして鋼直し 4.裏すり 5.ならし

6、側と頭すり 7.甲すり面取り 9.生研ぎ 10.刻印打ち 11、

泥塗り 12.焼き入れ 13.焼き戻し 14.歪取り 15.焼き研ぎ

16.木砥当て 17.油拭き 18.刃研ぎ

 この頃の鉋の作り方は、親方と先手の鎚打ちの鍛接・鍛造作業でほとんど

鉋の形を作っていた。これはこの後の鉋の成形作業の時、鑢や鏟で削る作業

を少なくするためです。鍛造作業の後焼き鈍しをする。次に刃先を鑢(やす

り)で磨り、鋼を見て厚い所を鑢で削り鋼の厚みを揃える。鉋の裏の部分を

を荒砥で削りベト(酸化鉄)を取った後、表面を鏟1で削る。

  次に均し金床の上で鉋の甲から鎚で叩き、均し作業をして裏を作る。その

後側・頭・甲を鑢や鏟で削り鉋の形を整える。 次に裏の鋼の部分を荒砥で

磨り生研ぎをします。これは裏の鋼の表面を荒砥で削り、水焼き入れをした

時に泥が落ちない様にするためです。その後刻印を打って面取をする、そし

て焼き入れです。鉋の鋼の部分の周りを泥を塗ります、これは水に入れて焼

き入れをする時、鉋の表面に蒸気膜を造らずに、泥に水を吸わせて冷却性を

良くするためです。

 炭の火窪()で加熱し焼き入れ温度に加熱した後、水に入れて急冷し焼

き入れをする。次に鉋の鋼の部分を炭火で炙り焼き戻しをした後歪み取りを

する。その後荒砥で裏を磨り焼き研ぎをした後、木砥当て(3)をする。後

は油拭きをすれば鉋鍛冶の仕事は終わりです。

 生研ぎや焼き研ぎに使う荒砥はマクリとナカオと呼ばれる砥石が使われま

す。マクリを使う事が多く鏟の刃研ぎにも使います。この頃の鉋は鉋の表面

を鍛造したそのままで仕上げている鉋も多くあります。 最後の行程である刃

付けは研ぎ屋さんに頼みます、研ぎ屋さんの事を裏押し屋さんとよんでいま

す。その鉋刃は問屋に納め、それを問屋は台屋さんで台打ちをして、地方の

金物屋へ送っていた。鉋刃だけを送る事も多かった。そしてこの頃の鉋の作

り方は、鋼造りと鍛接に接合剤を使う事を除けば、基本的に江戸時代と同じ

です。

 三木の道具産業は問屋主体で効率のため、作業の分業が進み鉋鍛冶が刃研

ぎをする事はなかった。そしてこの頃は鉋鍛冶が直接地方の金物屋さんや大

工と取引をする事はほとんどなく、その為鉋鍛冶が台打ちをする事はなかっ

た様です。黒刃という刃研ぎをしない状態で問屋へ納品する事も

あったようです。

   鉋の地鉄

 鉋の地鉄は明治の頃から現在でも、一般の道具に使われる明治以降製鉄所

で作られた鉄ではなく、江戸時代から明治にかけて主にイギリスで作ら

れた錬鉄()が使われます。錬鉄とは日本古来の鉄である和鉄と同じ様

に、熔解せずに錬って作られた鉄です。その特徴は錬鉄は鍛接性が良く、

軟らかく刃が研ぎ易い事です。明治の初め頃日本で作られた橋や船や錨の

チェンなどに、イギリスで作られた錬鉄を使っている事が多くあります。

その中に鉋に使える錬鉄があります。


大正から昭和にかけて、三木でそのような錬鉄を探してきて鉋の地鉄

して鍛造販売していたのは、金床を作っていた三木金床合資会社や川鉄

工所の前身の光川商店だった昭和年代半ばになると新町の中沢さんが

鉋の地鉄を販売していた。昭和四十年代になると山本鉋では末広町の三村

金太郎こと三村の金ちゃんに地鉄の鍛造をして貰っていた。錬鉄の事を

三木の鉋鍛冶は釜地と云っていた。錬鉄の板材は船のボイラーによく

使われていたのだろう。 


大正から昭和の頃の鉋の地鉄の作り方は、鉋に使える板材やチェンやI形梁材などの錬鉄を大きな金床の上

で、鍛造できる大きさにタガネと大鎚で切断する。それを大きな火窪で加熱する。この頃の工場の写真を見る

加熱する時もうコークス使っていた様だ。荒地が崩れ落ちる寸前まで加熱し、それを三人か四人の大槌を使

う先手を使って鍛造して、酸化鉄などの介在物を錬鉄から叩き出していた。そして、所定の厚みと幅に鍛造し

たものを錬釜地とか錬地金と呼んでいた。この業者の事を地金屋(じがねや)さんと呼んでいて、喜市も仕

事を始めた時から材料は地金屋さんから錬鉄の地鉄を買って鉋を作っていた。

 厚みが1cm位の薄い板の錬鉄は鍛造せず、鉋の地鉄の幅にタガネで切断し、そのまま鉋に鍛接・鍛造し

ていた。この地鉄の事を荒地と呼んでいた。この荒地の方が鍛造代がかからず価格は安かったのでよく使われ

ていた。しかし鉋鍛冶が使う地鉄全てを地金屋さんが探してくる事は出来ず、製鉄所で作るシートバーと呼ば

れる新鉄を使うこともあった様です。この頃鉋の鋼は主に出雲の雲伯鉄鋼会社のヤスキ鋼を使い、他に輸入鋼

であるスタル鋼も使っていました。明治の頃の問屋の通に鉋鍛冶に支給した材料として、釜地とスタル鋼(5)

が載っています。

  上の丸稲荷神社の鞴祭り

 上の丸の稲荷神社は戦国時代三木釜山城主別所長治によって、伏見稲荷神社より勧請されたという古い伝承

のある神社です。江戸時代から鍛冶屋の神様として尊崇されていたと思いますが記録はありません。明治から

大正・昭和とかけて、上の丸の稲荷神社は発展してきた鍛冶屋の神様として、三木町とその周辺の鍛冶屋の

信仰を集めていて、十二月八日の鞴祭りは三木町の大きな祭りだった。

 大正から昭和の頃は、鞴祭りの日は三木の鍛冶屋は朝暗い時から、赤飯と三角切の油揚げとミカンを持ち、

親方は通称「トンビ」と言われるインパネスコート着て、弟子達を連れて上の丸の稲荷神社へお参りに行く。

トンビを着る事が出来るのは親方だけです。先頭の弟子が親方の家の家紋入りの提灯を下げて行った鍛冶屋も

あったそうです。


 人の多い時間には滑原町から稲荷神社へ上がる階段はかなりの人だったそうです。本殿で親方は景気が良

くなるようにと、弟子たちは早く一人前の鍛冶屋になる様にとお参りをした。その後、この周りには鍛冶屋

が奉納した神様の石碑が多く祭られていて、そこへ各鍛冶屋の関係のある石碑へ二・三ケ所お参りをします。

 この時寒ければ寒いほど、来年の景気が良くなるという言い伝えがあり、親方達は寒いほど喜んでいたそ

うです。三木には他にお稲荷様を祭る神社があり、鞴祭りの日には各神社は朝暗いうちから大きな焚火を焚

いて鍛冶屋を迎えていて、鍛冶屋は次々と参拝にまわっていたそうです。

 4.田中正一郎を弟子にする

 喜市の弟の久一も鉋鍛冶として独立する気だったので、喜市は鎚打ちの先手を養成しようと、社町の大門

から大正十一年に田中正一郎を弟子にとった。まだ十一歳の小学4年生だった、三木へ来た後も三樹小学校へ

通っています。正一郎の初めての仕事は当時だった父勝三の子守だったそうです。小学校へ通いながら

の鉋の修行は辛かった事だと思います。

 大正十二年関東大震災が起こりその復興需要により、鉋に限らず三木金物の販売は大きく伸びた。その

ため鉋鍛冶だけでなく鋸や鑿などの鍛冶屋の数も大きく増えています。この頃鉋鍛冶が問屋さんへ鉋を納品

する時は、二十枚ほど鉋をドンゴロスで巻いて肩に担いで持って行っていた。帰りには地金屋さんで一

本約五kgの鉋の地鉄を、三・四本買って帰る事もあった。この頃いつも歩いて用事に行っていたが、

大正十五年に喜市は自転車を買って、弟子たちが面白そうに練習したそうです。

大正の終わり頃親方黒川家の代目当主黒川武四郎が病気で亡くなった時、家中が「親方の家が大変だ」

とパニックになったと正一郎さんが言っていました。その後久市が黒川家へ弟子の指導に行っています。


その後昭和元年に久一は同じ芝町の片嶋家へ養子に行き片嶋鉋製作所を創業しています。久一は三木の

鉋鍛冶がほとんど鍛冶銘を登録商標していなかった頃に、久市という銘を登録商標を取っていたそうです。

片島鉋製作所は次男圭三さんが二代目を継いでいました。

 喜市は喜市という鍛冶銘はありましたが、鉋銘として売れる事はあまりなかったその頃はほとんど問屋

銘か金物屋銘で鉋を作っていた。鍛冶屋銘は作者として端刻印として打つ位だった。

 昭和二・三年頃ある金物問屋さんの注文でヤスキの五分(15mm)角の鋼を薄く鍛造して鉋を作る事に

なった。鉋の評判はよく注文は多くなったが、鋼の鍛造に時間がかかり今までと同じ様に鉋の枚数が作れな

くなった。今まで取引していた問屋さんの仕事も断るほどで、鉋の価格はそれほど高くなく、正一郎さんは

これでいいのかと心配したそうです。

 昭和三年美嚢郡工業懇談会会員名簿によると,、三木には六十六軒の鉋鍛冶が居た。この時が三木で

鉋鍛冶が一番多い軒数の時ですがその後、昭和年頃昭和の大不況といわれる不景気になってきた。

 鉋鍛冶に限らず鋸・鑿などの鍛冶屋も仕事がなく、三木で鎚音がしなくなってしまった。若い職人たちも

する事がなく昼間に街へ遊びに行く状態だった。山本鉋には県と広島県からの弟子と正一郎と三人の弟

子が居ましたが激しい不景気に二人の弟子は鍛冶屋を諦め故郷へ帰って行き、弟子は正一郎一人になりま

した。その頃山本鉋は一ケ月に一週間程しか仕事がなかったそうです。それでも他所の鍛冶屋に比べると

事があった方で鉋に限らず多くの鍛冶屋がこの時に廃業して三木の鍛冶屋の軒数もかなり減っています。

  5.長男博一が仕事に入る

 職場は喜市と正一郎二人で仕事をしていたが、この頃喜市は体の調子が悪く、それほど仕事が出来なく

なっていて正一郎が主に仕事をしていた。喜市が仕事の出来ない時、鉋の鍛接鍛造作業は正一郎が横座をし

て、先手鎚打ち専門の職人に来てもらい鍛接作業をしていた。一枚鍛接して何円と決まっていたそうです。

「打ち屋」という職人で、一人で鍛冶屋をしている所へ来ていた。鋸・鉋・鑿などの鍛接・鍛造作業専門の

職人で三木には江戸時代から居ました。

 打ち屋は朝から夕方まで大槌を振り続ける事が出来るタフな人で、初めて正一郎が打ち屋を使って横座と

して鍛接仕事をした時、横座である正一郎が先にバテてしまったそうです。そして昭和九年に喜市の長男

博一が三樹尋常小学校を卒業して親の後を継ぐべく鉋鍛冶の仕事に入りました。喜市と正一郎の喜ぶ姿が

想像できます。

 正一郎は後年子供の頃から終戦後頃までの自分の半生を、「終始一貫」という本にまとめています

鍛冶屋が本を書くのはあまり聞いた事がありませんが、大正昭和の鉋鍛冶の事が分かる貴重な資料です。

その中に喜市は真面目で正直で口数は少なく、自分の作った鉋もあまり自慢する事は少なかった様です。

そのため鉋の値段は普通より安かったそのため問屋も買いやすかったと。そのためお金儲けも出来なかった

様で、家の家計は苦しかった。

 この頃家の都合で借金があり、長男博一は早く仕事を覚えて早く借金を返したいと、必死に仕事にをした

そうです。正一郎も鉋の全てが出来る一人前になり、博一を先手に朝早くから夕方遅くまで仕事をしていた。

 ある時喜市が「一生懸命仕事をしてくれるのは嬉しいが、ちょっと博一を働かせすぎと違うか、わしは

お前をこんなに働かせた覚えはないんがや」といったそうです。終始一貫に載っています。

 昭和十年に上の丸稲荷神社の横に三木金物神社が創建されています。この神社は大正十二年西脇大木町に

創建された天目一(あまのまひとつ)神社の祭神を勧請されたものです。この天一目神社が出来る時、三木の

金物関係の事業者が大勢寄付をしています。三木にも鍛冶屋の神様を祀ろうという気運が高まり創建されまし

た。三木金物神社には鍛冶の神である天目一箇命(あまのまひとつのみこと)製鋼の神である金山毘古命

(かなやまひこのみこと)鋳物の神である伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)の三神が祀られてい

ます。


十二月八日の鞴祭りには隣の上ノ丸稲荷神社と共に、大勢の鍛冶屋の親方職人で賑わっていました。昭和

二十三年からは神事の他に、鋸・鑿・鉋・小刀・鏝の経験豊かな鍛冶屋が御番鍛冶師として、火入れ式を五

業種順番に行っています。火入れ式とは昔の装束を着た親方と弟子が親方の横座の鎚と、弟子である先手の

大槌を使って、鞴と火窪で赤めた鉄と鋼を鍛接鍛造する古式鍛錬を神様に奉納する神事です

私の父勝三は昭和十一年に三樹尋常小学校を卒業すると家の仕事には入らず神戸の昆布問屋へ奉公に

行っています。数年後には親戚の紹介で三菱重工へ入っています。昭和十三年には三男順三が同じ小学校卒

業の後家の仕事に入っています。この年には正一郎は喜市の二女きぬゑと結婚しています。この頃には博

一の腕も上がり三人で一日三十枚の鉋を仕上げ、注文も切れず鉋の評判もよく喜市も満足していたと思います。

 6.戦争の時代へ

 しかし戦争の時代になり、昭和十四年博一は徴兵により呉海兵団へ出征していった。昭和十七年には父

勝三が海軍へ十八年には順三が陸軍へ出征して行った。山本鉋は正一郎一人になり仕事はあまり出来

なかっただろう。十九年になると戦争が激しくなり、三木の鉋鍛冶の職人が減り材料の入手も困難になって

来たので、鉋鍛冶の組合が一つになり大同工業という会社を作った。

鉋鍛冶の親方も職人もみんなが、大きな五つの職場に別れて仕事をすることになった。それぞれが

鍛冶屋の大将という形で仕事をしていた人が、集まって仕事をするのですからいろいろと問題があった

様です。その大同工業の鉋は残っていますがあまりいい出来ではありません。

 戦争が激しくなり長男博一は海軍の第二水雷戦隊旗艦神通の砲手として乗っていたが、昭和十七年に

ソロモン海戦で戦死し、昭和二十年には三男順三がフィリピンのルソン島で戦死してしまった。喜市にす

れば山本鉋を継ぐ息子二人が戦死してしまった事は、当時の事ですから態度に出さなかったと思いますが、

ショックは大きかったと思います。


長男博一の事は「終始一貫」や近所の人に聞いて一生懸命仕事をしていた事は知っていました。順

の事はほとんど聞いた事はなかった。古い本を整理していると「鍛冶業に必要なる鐵鋼の知識」という

昭和十五年発行の熱処理の本が出てきた。山本順造と署名があります。順造は正一郎さんに鉋の仕事を

教えてもらいながら熱処理の本で勉強していた。順造さんも鉋鍛冶として努力していたのだ。昭和二十年

には正一郎も出征して行き山本鉋には仕事をする人が誰も居なくなっていしまった。

 私は三木金物が通産省の伝統的工芸品の産地指定を受ける時、指定の条件が三木の鉋鍛冶が過去百年間

十数軒以上居た事なので、三木の鉋鍛冶の系図を調べました.昭和の初め頃の鉋鍛冶の名簿を参考に、

子孫の人に電話したり会ってして話を聞きました。太平洋戦争で多くの鉋鍛冶が亡くなっています。

 三木市三津田の農家の長男が米作りの他に鉋鍛冶もしようと、三木市御坂の鉋鍛冶で修行中に結婚した。

その後新妻に子供が出来たと知ってから出征して間もなく戦死しました。子供の顔を見る事が出来なかっ

たそうです。御坂の元鉋鍛冶に聞きました。

 淡河の鉋鍛冶は志染町中の鉋鍛冶に弟子入りした後、独立し弟を先手に鉋鍛冶を始めた、その時親方は

弟子を連れて来て、職場の金床や火窪作りを手伝ってくれたそうです。しかし鉋鍛冶を始めて二年後出征

して戦死してしまった。家族の人はその職場を永くそのままにしていたそうです。私が話を聞きに行くと

おばあさんが一段下のガレージを指さして、「そこで仕事をしてたんや」と話してくれました。

 この二人の事が特に印象に残っています。しかし一家で三人が出征し二人も亡くなっている家は少ない

と思います。

7.父勝三が鉋鍛冶を継ぐ

山本家で鉋鍛冶を目指していた兄弟が亡くなってしまったので、山本家全体の希望だろう、終戦後

勝三が山本鉋を継ぐ事になってしまった。戦争は生きて帰って来た人も、人の運命をいろんな形に変えて

います。当時父は三菱重工に勤めていて、戦争へ行く前に母君子とは結婚の約束をしていた。父は終戦後

家へ帰って来た後昭和二十一年に母と結婚をしています。そして昭和二十二年に私が生まれました。

 母子家庭で育って来た母君子は、自分の母「さだ」と共に、三木へ来て山本の家の隣の借家に住んだ。

山本家へ来てから母は私を含めの妹弟四人の子を育て、山本家の家事全般もし、鉋鍛冶の帳面仕事もし鉋

の油拭きなど補助作業もしていた。祖母さだも勝三の母まさも手伝っていますが、母は大変苦労した事と

思います。


長男博一か三男順三が生きて帰って来ていたら、父勝三は鉋鍛冶にならずその頃働いていた三菱重工の

サラリーマンで母の家のあった明石に住んで居ただろう。私も私の妹・弟も明石で育ち私は鉋鍛冶になら

ず違う人生を送っていただろう。私は勝三はサラリーマンの方が向いているなと思った時もありました。

終戦になり家に帰って来た勝三は正一郎に鉋を教えてもらい弟茂も一緒に仕事をしています。

昭昭和二十二年三木利器工匠具工業共同組合が設立された時に鉋鍛冶の多くは組合内の鉋部会に

所属していた。その中に事業部があり鉋の地鉄の共同購入を行っていた。これは鉋の材料である地鉄

が錬鉄と言う現在生産されていない鉄を使っているからです。事業部は主に三木の鉄屋さんから錬鉄

を共同購入したり、地金屋さんから鍛造した錬鉄を買ったりしていた。他に錬鉄があると聞けば何処

へでも探しに行っていました。そして各鉋鍛冶に配給をしていました。

 この時共同購入する錬鉄は、探す費用に購入費そして各鉋鍛冶に分ける費用に、鉋部会の利益も入れた

金額で各鉋鍛冶に販売していた。共同購入した錬鉄は各鉋鍛冶が地鉄の鍛造屋さんで鉋の地鉄に鍛造して

もらっていた。 

8、三木の鍛冶屋も機械化に

この頃に三木の鍛冶屋にも作業の機械化が進んできて、山本鉋も榎本さんという機械鍛冶により、スプ

リングハンマーや電動研磨砥石を設置した。家の仕事場の鍛接炉も燃料が炭からコークスになり、スプリン

グハンマーや電動研磨機の設置により、生産量が1,5倍から2倍に増えています。勝三は「頭が良くて仕事

の覚えも早く、手を取って教えなくても、鍛接・火造り・ならし・ひずみ・仕上げと一通りは立派に覚え込

み万事に秀でていました」と終始一貫に載っています。


喜市も正一郎も勝三は鉋鍛冶の親方として一人前になったと感じた昭和二十五年に正一郎は独立し栄町

で田中鉋製作所を創業した。そして正一郎は長男と次男を鉋鍛冶に育て、職人を五・六人使う鉋の大きな事

業所になっています。そして横山邦男・堂本勘吉・岡村清ら三人の鉋鍛冶を育てています。

 勝三は三木に帰って来て仕事を始めたが、尋常小学校を出てから神戸に居たため。周りの人はあまり

知らなかったそうです。山本鉋は博一と誰もが思っていたためだろう。その後勝三は弟茂と職人二人を

使って仕事をしています。終戦後の復興期三木のどこの鍛冶屋も景気が良くて三木も発展して行った。

 しかし本職ではないブローカーの様な問屋もあって、集金に行っても先延ばしされる事もあった。

その時気が強く短気な父は口喧嘩をして集金出来ない事もあった。そのためそんな問屋へは母が集金に

行っていた、バスに乗り吉川へも行っていたそうです。

 戦後全国どこの金物屋さんは道具は売れるのに、売る品物が入ってこない状態だったので、三木へ直接

道具を買いに来る金物屋さんもあった。山本鉋にも京都から三軒の金物屋が直接買いに来ていた。その

中には今も二代にわたり取引している金物屋さんもあります。

勝三は昭和三十年に湯の山街道不断坂にあった自宅の、古い藁屋を取り壊し二階建ての家を新築した。

古い藁屋の時台風が来ると家の周りに屋根の藁が飛び散り、それを掃除するのが情けなかったと父は

言っていました。しかし鍛冶屋を初めて十年もせずに家を新築するとは、ある親戚の人は大丈夫かと

心配したそうです。経済が大きく伸びる時期だった事もありますがが、父は努力したと思います。

勝三は昭和三十年代に「鉄心一如彦六」という銘の登録商標を取っています。また勝三郎という鍛冶銘

を持ち勝三郎という銘の鉋を作っています。

 .高度経済成長期

昭和三十六年頃日本が高度経済成長期になると山本鉋の販売量も増えてきて、生産量を増やすため山本

使っている職場の奥の畑に新しい職場を建てた。そこに古い職場からスプリングハンマーを移動し、

研磨台を設置して仕事を始めた。私は子供の頃から祖父や父に、鍛冶屋になるんだと言われて育ってきた

のだろう、鍛冶屋になるものと思っていた様です。

この頃三木では金物問屋も鍛冶屋も長男は家の仕事を継ぐのが普通だった。私は小学6年生の卒業文集に

鍛冶屋になると書いています。私は小学生の頃時々山本鉋へ来ていた職人の長谷田さんが、鉋の最終仕上げ

の木砥当てをして濡れた鉋を、布で拭いて油を塗っていた事を覚えています。長谷田さんに鉋のいろんな

事を教えてもらいました。 

 鉋台屋さんの事

 鉋の台打ちをする台屋の事ですが、江戸時代から明治を通じてほとんどの大工は、鉋刃は買っても台用の

樫材は自分で準備をし、台打ちも自分でしてをして鉋を使っていたと思います。この頃の台は押金のない一

枚台だったが、明治三十年半ば頃に押金の付いた二枚台が考案された。東京や大阪や地方の大きな街では台

屋が居たかもしれませんが、三木では明治三十五年に徳永順太郎が台打ち業を始めました。

 しかし大正・昭和と鉋鍛冶が増えて、鉋の生産は増えていますが、台屋はあまり増えていません。全国的

に見ても自分で台打ちする大工が多かったのだろう。三木の台屋でも地方で習ってきた台屋もいます。

昭和五年には十軒の台屋が居ました。

 終戦後からは台屋も増えて行き昭和二十六年二十二軒、昭和三十六年には三十二軒の台屋がいました。

昭和五十年代には台屋は二十七軒になっていますが、職人を使う台屋も増えてきて台打ちする量は増えてい

ると思います。この頃になると鉋台をV治字形に掘る専用機など、台屋さんも機械化が進んできた。

 しかし三木で生産される鉋全てを三木の台屋が台打ちしていたのではありません。鉋刃だけ

地方へ送る事も多かった。

 山本鉋では私が仕事に入った頃は神明町の稲岡さんで台打ちをしていました。広い職場で数人の職人さん

が台打ちをしていて、その横に仕上がった台を井桁状に積み上げていた。台屋として大きな事業所でした。

その後長い間垂穂の山中さんに台打ちを頼んでいましたが、山中さんが仕事を辞めた後、大開町の仁村さん

に台打ちをして貰っています。

 しかし三木の台屋さんは私と同じ世代の人ばかりで、まだ仕事は出来ると思いますが、息子健介の時代に

なると三木に台屋さんが居なくなるかもしれない。台屋さんが出来る事を祈るばかりです。

 台屋は冬に伐採され鉋の台用に製材された樫の木を、冬に仕入れ原木置き場で乾燥させる。この時原木が

割れない様にしなければならない。初めは急激に乾燥しない様に、むしろやシートをを掛けたり、乾燥させ

る位置を変えたりします。乾燥される条件が早過ぎると、一階で静かに作業していると二階の乾燥室から、

ピシッと原木の割れる音がするそうです。台屋は台を掘るだけでなく原木を割れない様に枯らす技術も必要

です.。鉋台原木一寸角の断面あたり一年ほどかかり、寸八の原木では三年弱乾燥させると歪まない鉋台に

なります。しかしあまり寒い地域では樫の原木を乾燥させる事は難しいそうです。

 鉋台の原木である樫の木の状況も厳しくなっています。鉋台用の樫の木を販売している製材所には以前

から、樫の木を集めて製材所へ持ち込み人が居たそうです。そんな人が少なくなり樫の木が集まらなくなり、

製材所の人が集めにまわっているそうです。そんな樫の木を扱う製材所が日本で少なくなって来ています。

原木の樫の木はまだ日本の山には、いくらでも生えていると思いますが。

 10.私が鉋鍛冶の仕事に入りました。

 昭和四十一年に私小野工業高校卒業後、家業である鉋製造の仕事に入りました。当時山本鉋へ来ていた

職人さんは、長谷田さんと広田さんで二人で先手作業全般をし、勝三が午前中鍛接作業をして午後から焼き

入れ作業をしていました。焼き入れは炭焼き入れで時間がかかっていました。私は父の鍛接作業の補助と

職人さんの先手作業の補助など初めは作業を見て覚えるくらいでした。

 家の仕事に入ってからすぐに従兄である、田中鉋製作所の満太郎さんに誘われて三木の鍛冶屋の若い人達

の集まりである、三木金物研究会に入りました。毎週回集会をして鍛冶屋の仕事に関する事を、先輩から

聞いたりみんなで勉強しました。時々三木にあった兵庫県工業試験所の、久留島さんに講師に来てもらい鋼

の熱処理の勉強をしました。この会員には小さい鍛冶屋から三木市有数の企業に育てた人もいます。同年代

の人も多くいて、勉強も出来て飲んだり旅行もした楽しい会だった。


昭和四十五年八月に山本鉋の創業者である祖父喜市が亡くなりました。八十二歳だった。喜市は私が子供

の頃からもう仕事はしていなくて、していたのは刃研ぎ屋さんから仕上がって来た鉋刃を油拭きする事と、

台屋さんから仕上がった台打ち鉋を油拭きして仕上げる事位だった。相撲が好きでテレビで大相撲中継が始ま

れば、テレビの前で座りっきりだった。時々娘婿正一郎の田中鉋鉋製作所へ行けば職人達に親方の師匠と言わ

れ、また田中鉋製作所が新工場を新築した時、そこの風呂の一番風呂に入れてもらった。一度田中家へ行けば

一週間ほど居て、子供たちにお爺ちゃんと大事され喜んでいました。

 終戦後京都から金物屋さんが鉋を直接買いに来ていましたが、世の中が落ち着いた後父は京都の金物屋さん

へ鉋を売りに行っていた。私が車の免許を取った後二人で二ケ月に一回、京都の金物屋さんや台屋さんへ出張

販売に行っていました。よく鉋を買ってくれる谷口勇次郎さんという台屋さんが居ました。評判のいい鉋があ

ると見せてくれました。大坂の鉋鍛冶が作った倭小鎚という鉋で、よく見ると裏の鋼の部分に小さいクモ(7)

が少し付いていました。「この鉋クモがついているな」というと、谷口さんは「使った大工が切れるという鉋

が評判のいい鉋や」と。納得です。

 この鉋鍛冶は焼きの入る最低の温度で焼き入れをしていたのだろう、今思うと焼き入れの上手な鉋鍛冶で

した。この頃街の台屋さんは機械は平面を削る鉋盤と丸鋸盤だけで、後は鑿を使い手堀で鉋台を掘っていま

した。掘っていたのは普通口台で半包み台は、手間がかかるのだろう掘っていなかった。

 昭和四十年代の鞴祭り

 私が仕事に入った昭和四十年代初め頃の山本鉋の鞴祭りは、前日の十二月七日に職場の大掃除をします。

埃を被らない様にハンマーや機械などに古布を被せる。裏の藪から竹を切って来て上の方だけササを残し

他は切り払う、長い竹のササで職場の天井から周りの壁の埃を落とします。職場の中は埃で霧がかかった様

暗くなり、時間がたって落ちた埃を掃き取る。顔まで埃で黒くなります。十二月八日の朝早くから母が赤飯

を炊く。朝6時頃父と一緒に職場の神棚と庭の御剣社に、赤飯と三角に切った油揚げとミカンを奉った後、

同じ様に赤飯と油揚げとみかんを持って上の丸の稲荷神社へ行く。

 もう大勢の鍛冶屋さんがお詣りに来ていてにぎやかです。本殿でお参りした後、横や後ろの周りに幾つも

ある小さい祠へお詣りに行きます。各鍛冶屋に関係のある祠へ行きますが私の家は三本松稲荷に祖父の親方

黒川家が祀った黒川大明{福}神など三・四ケ所周ります。次にすぐ横の三木金物神社にもお参りをします。

その後氏神である岩壺神社と大塚町の戎神社へお参りしてから帰ります。 
 八時頃になると職人さんが来て母の料理で父とお酒を飲み始めました。私は主な得意先の金物問屋さんへ

重箱に入った赤飯と油揚げとみかんを持って回ります。問屋さんの所には鍛冶屋さんが来るのは分かって

いるので赤飯など置く所は準備してありました。家へ帰ってしばらくすると職人さん達は,すき焼き用の肉と

ミカンの土産を持って帰って行きました。

 こんな鞴祭りの行事もお酒の好きな長谷田さんが山本鉋を辞めると、広田さんはお酒を飲まないので職人さ

んたちが家でお酒を飲む事もなくなりました。しかし鞴祭りで赤飯を焚きミカンを持って、上の丸稲荷神社と

金物神社へお参りする事は昭和五十年代までしていたと思います。

  銘切屋さんの事

 鉋刃には銘があり刻印を打つか鏨(タガネ)で銘を切ります。明治から大正・昭和と金物問屋は地方の金物

屋さんから指定された銘の鉋の注文があれば、鉋鍛冶から無印で買った鉋刃に問屋の番頭や店員が銘を切って

いた。三木の金物問屋へ仕事に入ると、銘切の練習をさせられたそうです。終戦後から銘切は鉋鍛冶の仕事に

なり、私が仕事に入った頃には銘切屋さんという専門の職人が居ました。


昼頃に私が焼き入れ前の銘切する鉋を持って銘切屋さんへ行き、前日持って行き銘切出来た鉋を持って帰る。

それを父が焼き入れをする。ほぼ毎日でした。私が仕事に入った頃銘切屋さんは宮前町の広田さんへ行ってい

ました。他に前田町の斎藤さんは深い鏨の迫力ある銘切でした。その後芝町の前川さんへ行っていましたが、

前川さんが仕事を辞めた後、元問屋の酒巻さんに頼んでいました。その酒巻さんも銘切が出来なくなり、鉋の

銘切屋さんが居なくなってしまった。今はもう三木の鉋鍛冶は自分の作った鉋の銘切はを各自しています。

 今山本鉋の銘切は健介がしています。

 水研屋さんの事

 水研屋さんとは刃研ぎ屋さんの事です。鉋の刃研ぎ屋さんの事を裏押屋さんとも言います。三木の鉋鍛冶は

刃研ぎまでする事はありません。鉋の刃付けにはただ研いで刃を付けるのではなく、裏出しという裏出し鎚で

刃の地鉄の部分を叩いて、刃を起こす作業が必要です。時間もかかり特殊な技術が必要で、そのため裏押屋

さんという専門の刃研屋さんに頼みます。

 私が仕事に入った頃から滝井水研さんに頼んでいましたが、滝井さんが仕事を辞めた後は藤田水研さんに

頼んでいます。刃付けの状況ですが、昭和四十年代半ばまでは、角刃(8)を取らず完全に刃を付けず、中砥

で研いだボヤ取りの状態で問屋さんへ納めていました。その後から角刃を取りきっちり刃を付け、合せ砥石で

仕上げる本刃付けの研ぎに変わってきた。しかし大工さんが使うには裏の刃の部分を金盤で磨き、

きっちりと刃を付ける必要があります。

 11.この頃の山本鉋の仕事の状況

 昭和四十年代頃の父の鍛接鍛造作業はコークス炉で錬鉄の地鉄を加熱し、スプリングハンマーで地鉄の先の

鉋になる部分をを叩きシキ(9)を作る。鋼に接合剤を付けてシキにのせてコークス炉に入れて加熱する。

鍛接温度になると炉から出し金床の上で小鎚でノタ打ち(10)をする。その後スプリングハンマーで鍛接・

鍛造し鉋の形にすると、鉋の長さに丸い頭の形のタガネで叩きそして折る。

 その地鉄を加熱せずにそのままシキを作る事もありました。父は手際よくは加熱してから1回の鍛造で鉋

の形にしていた。私はこのタガネで頭を切る形の、鍛接鍛造はした事はありません。その後しばらくしてか

らプレス機を入れて、鉋の形に形抜きする現在の作業工程になりました。


父は仕事に入った頃から横座仕事である鍛接作業と焼き入れ作業を主にしていた。先手作業はあまり

してこなかったのだろう、そのため先手作業はあまりうまくなかった。しかし鍛接・鍛造作業は上手だった。

鉋の幅は仕上りとほぼ同じ位にベト穴(11)は少なく、オチ1とヌケ1を仕上がり鉋と同じ様に作

り、後の先手作業の時間がかからない様に鍛接鍛造作業をしていた。

 まれに厚みの厚い鉋が出来ると長谷田さんは手がかかるので「生まれの悪い鉋や」と言っていました。

長谷田さんは先手作業は上手だった、特にバフ14での裏透きは上手でした。昔の職人で使っている道具

直しは休みの日に来てしている事もありました。私が小学生の頃から居て、休みの日にはよく遊びに連れて行

ってくれました。しかし私が仕事に入って二・三年後何かの都合で山本鉋を辞めてしまいました。

12、使っていた鋼

使っていた鋼はほとんどヤスキの青紙1号で、白紙鋼は炭素鋼なので安く見られるので使わなかった。

同じ青一号鋼でも炭素量の少ない鋼と多い鋼の、「青」と「カタ」と分けて二種類使っていた。問屋さんが地

方の金物屋さんから言われたのだろう、問屋さんから鉋鍛冶へもう少し永切れする鋼で、鉋を作って欲しいと

いう要望があった。それで青紙1号鋼より多く特殊元素のタングステンの入った鋼が欲しいと、三木の鋼屋さ

んへ言うと、ツバメ鋼という鋼が出来て見本的に鉋鍛冶は使い始めた。鍛接鍛造は青鋼と同じ様に出来たが、

バフは硬くて先手作業はちょっと時間がかかった。

 この鋼の鉋はよく切れると評判はよく、父はこのツバメ鋼をかなり購入しました。ところが大量に購入した

ツバメ鋼は、前のツバメ鋼よりもタングステンなどの特殊元素が多かったのだろう、研ぎ屋さんへ出すと硬く

て刃が付かないと言われほとんど鋼屋さんへ返品してしまいました。研屋さんが言うには五十枚に一枚あって

も分かると。あの頃は硬い鋼は焼き戻し温度を上げるという対応は手間がかかるので出来なかった。

 残ったツバメ鋼の鉋は小野の金物屋さんが定期的に買ってくれました、後で聞くと小野の地場産業である

算盤材料の、黒檀を削るのにいいと算盤屋さんが使っていたそうです。

 ある時問屋さんから東郷零号の鋼で鉋を作って欲しいいわれ、東郷零号鋼の鉋を作る事になった。その鋼の

厚みは厚く重油炉で加熱し二本合わせてハンマーで鍛造する。東郷鋼は硬く何度も鍛造しなければならず時間

がかかります。その上鍛接温度は低くしなければならず、手間と時間かかりスコ物1出る。価格もそれほ

ど高くなく東郷零号鋼の鉋を作るのは止めました。その後タングステンなどの特殊元素が青1号鋼よりも多い、

特別刃物鋼という鋼が出来て鉋鍛冶が使い始めた。鍛接温度に気を遣う鋼ですが青鋼より永切れ性能がよく、

高級鉋に使っています。

 いつ頃だったか覚えていませんが、父がお前の鍛冶銘を考えたが「鉄心斎芳楽」はどうだというので、

それに決めました。登録商標も取りました、そして鉄心斎芳楽という鉋も作りましたが、その頃は鍛冶屋銘

の鉋はあまり売れませんでした。

13.職場を建て替える

昭和四十年代後半になると注文の数が多くなりその頃に、喜市が鉋鍛冶を始めた古い木造の職場を鉄骨

の職場に建て替えました。そこに新しいスプリングハンマーや重油炉による鍛接・鍛造設備を設置した。

き入れ炭焼入れをしていましたが、重油で加熱する鉛浴炉による焼入れに変わりました。その頃から勝三

が午前中2時間鍛接・鍛造した後、私が昼まで2時間鍛接・鍛造作業をするようになった。

 父が焼き入れ作業をする時は、私が泥塗りや泥落しの補助作業をしながら見ていて、焼入れ作業を覚えて

行きました。この頃職人の廣田さんと父と私の三人で仕事をしていましたが、注文が多く朝7時から遅く

なると夕方6時頃まで、一日分の仕事が終わるまでしていた。


鉋の先手仕事の成形作業で鉋の甲を削るのは時間がかかります。鉋鍛冶の大きな事業所は形鍛造をしたり、

フライス盤で削っていました。小さい鍛冶屋は普通の研磨機や円筒状砥石で削っていました、山本鉋は

普通の研磨や円筒状研磨の専用機で削っていました、しかし能率が上がらず昭和四十八年水冷式の自動

研磨盤を購入しました。型に固定して削るので鉋のヌケ(12)とオチ(13)は同じになります。厚い鉋

から削って行き重さを揃えれば厚みをほぼ同じになります。

 モーターは十馬力もあり楽になりましたが、鉋の形を作る時厚くてもいいと思い、鍛造作業が少し雑に

なってしまった感じです。永く使ってきましたが水冷のため錆がひどくなり今は廃棄してありません。

現在の甲の成形作業は昔に帰り研磨砥石で削っています。

14.勝三が交通事故で入院する

昭和四十九年父が交通事故を起こし突然入院してしまい、私と広田さんで全ての作業をする事になって

しまった。父の焼き入れ作業は以前から見ていましたが、自分で初めてする焼き入れ作業は、焼き入れ炉の

バーナーの調整が難しく焼き入れ温度が一定しなかった。初めて焼入れする時はクモ(7)が付かない様に

どうしても焼き入れ温度は高くなるものです。難しかったがある人に「焼き入れは難しいやろ」と言われたが、

「そうでもないよ」と強がりを言った記憶があります。

 鍛接作業では普通の形の鉋は出来ましたが、頭の浅い特別製の鉋の注文では鍛接作業で時頭が薄くなってし

まった。退院してきた父はその問屋さんで「あの時の鉋は山本の鉋と違うで」と言われたが「見本の鉋が薄か

ったんやろ」とうまくカバーしてくれました。父の入院がきっかけで仕事の全てをする事になり、その時は思

いませんでしたが、今考えれば鉋鍛冶として一人前になったと思います。そして私は昭和五十二に山田由美

と結婚し夫婦になりました。


父は昭和五十年五月から昭和五十九年四月まで三木工匠具工業協同組合の副理事長をしています。山本鉋の

様な小さい事業所の人がする役職ではありませんが、金鹿理事長に頼まれて受けています。母は「背伸びして

付き合いしたらあかん」と言っていました。仕事の途中に背広に着替え、組合の用事で出かけることが多く

なり、仕事が遅れる事もありました。父は組織の中で付き合いをする事はそんなにいやではなかった様です。

 いろんな行事の時の挨拶の原稿を紙に書いて置いていました。ある時それをお前が挨拶をする時参考にしろ

と、くれましたがあれは何処へ行ったか。

 ある事業所から超硬合金を使った鉋を作ってくれと頼まれました。建築用壁材の軽量発砲コンクリートを削

るのに使いますと。原料の超硬合金は近くで作っている所を探すと、加西市にシルバーロイというメーカー

があると聞いて行って来ました。社長と話をしていると同じ小野工業高校卒業の一年先輩だと分かりました。

 二十四歳の時に超硬合金の会社を作るとはすごい人です。見本的に超硬の刃を作ってもらいました。現在

この会社は超硬合金の世界では日本有数の会社になっています。後は鉋身のフライス加工とロウ付けしてくれ

る所を探して超硬刃の鉋を作りました。この時感じたのはいろんな仕事をする時、自分の出来ない作業を頼め

る事業所を探し知っておく事でした。  

15.鉋鍛冶が地鉄の鍛造を始める

この頃になると鉋の地鉄の鍛造をしていた鍛冶屋さんも廃業してしまった。そのため鉋鍛冶の集まりである

三木利器組合鉋部会が、鍛造設備を持ち鉋鍛冶自身が地鉄の鍛造をする事になった。重い錬鉄を大きなコーク

ス炉で溶ける少し前まで加熱し、エアーハンマーで鍛造するのはきつい仕事です。初めて地鉄の鍛造に行った

時父は用事で行けず、私と廣田さんで行きました。地鉄の鍛造温度がはっきりと分からずに鍛造しました、

温度が少し低かった様です。

 それを見ていたある鉋鍛冶さんが鉋部会の集会で父に「山本の息子は鉄の鍛造温度はちょっと低かったで」

と言ったそうです。その時父は「みんな鉋になっとるがいな」と言ってくれました。チェン1の鍛造は少

し温度が低くても、出来た鉋に影響はありませんが地鉄を薄く鍛造出来ません。そのため家での鍛接鍛造作業

の時シキ作りに手間がかかり能率が悪くなます。

しかしあまりの暑さときつい仕事にビックリしたのか、廣田さんに「この仕事は出来ない」と言われました。

しかし錬鉄から地鉄に鍛造しないと鉋は作れません。それからは父と二人で地鉄の鍛造に行きました。真夏

でも9時から昼1時間休んで4時まで鍛造し、後片づけて掃除をし鍛造した400kg以上の鉄を持って帰り

鉄置き場に運ぶ。夕食の後すぐ寝てしまいました。きつい仕事だった、現在は鉄の鍛造は半日で、夏にはしま

せんすが、きつい仕事に変わりはありません。

 父はかなり以前地鉄の鍛造をしてくれる鍛冶屋さんに、地鉄の刃幅と厚みを指定して鍛造してもらっていた。

鍛造作業の能率がいいからです、サイズが違うときつく言う事もあったそうです。しかし自分が鍛造すると、

きつい仕事に「人にはサイズを指定したが自分が鍛造すると、サイズの事まで体と気がまわらんな」と言って

いました。その後仕事に来ていた廣田さんも高齢により山本鉋を辞めて父と二人で仕事をしていましたが、

だんだんと私のする仕事が多くなっていった。


以前は鉋鍛冶の中ではお互いを通称で呼んでいました。父は勝三ですから「勝っちゃん」、片島圭三さんは

「圭ちゃん」と言う様に。昔「廣田のちょうやん」と呼ばれる廣田長治さんという鉋の名人が居ました。あま

り知られていませんでしたが、知る人は知っていました。私が仕事に入った頃、ある問屋さんへ行くと「ちょ

うやんの鉋はよう切れる言うで、お前も頑張れよ」と。しかし「ちょうやん」の鉋は丁寧に作るために数が出

来ず価格は少し高かった。そのため問屋さんがあまり扱わず名を残す事はなかった。

 ある時父がその長治さんに自分のしている鉋の鍛接鍛造に関する事を、チラッと聞いてそれを私に話しまし

た。その時感じたのは、そんな鍛接鍛造ではキズ物ばかりが出来ると思いましたが、今はその鍛接鍛造を参考

に、青紙スーパー鋼や犬首鋼などの特殊鋼鉋の高級品を作っています。

  16鉋鍛冶が錬鉄を探し始める

 昭和五十年代半ば頃までは、鉋の地鉄である錬鉄は地元の鉄材料屋さんが探して来てくれていました。しか

し錬鉄が日本に少なくなってきた事と、鉋鍛冶が減り錬鉄の売れる量が少なくなり、鉄材料屋さんが錬鉄を扱

わなくなってしまった。そのため鉋鍛冶の集まりである鉋部会が、自分の使う錬鉄を探しに行く様になった。

 どこからか錬鉄があると情報が入ると鉋部会で、現地に行って鉋に使えるかどうか検査します。錬鉄の断面

を研磨かサンダーで削り、シマ1)がるかないか調べます。鉋に使えると判断した錬鉄を共同購入します。

使えると判断して購入した錬鉄でも多少はシマで出て使えない錬鉄もあります。

 私が父に代わり鉋部会の活動に加わってから、昭和六十六年山陽電鉄須磨の鉄橋や淡路島のチェン・平成

十四年には長野の鉄橋に大阪港のチェン。平成十八年には大坂の三越百貨店解体現場の錬鉄の双頭レール、

最後は平成十九年には尾道の屑鉄屋さんからチェンを鉋部会で共同購入しました。尾道の業者にはまだ大量の

錬鉄のチェンがありました。この業者にこのチェンはまた買いに来るから、売らないで置いてくれと頼みまし

たが、数年後問い合わせるともうありませんでした。屑鉄の相場が上がったので売ってしまった様です。


錬鉄探しは楽しみだった。錬鉄の質は千差万別今度はどんな鉄だろうかと、チェンを検査すると薄いシマが

ある。みんなで買うか買わないか相談し、買ってシマがあまり出なかったら良かったなと。シマが多く出たら

ミスったなと。

 船の錨を吊るチェンは古くなると新しいチェンと交換します。古いチェンは魚の養殖生け簀を固定するのに

使われるそうです。そのための古いチェンを扱っている業者さんが、以前大阪港近くにありそこでチェンを買

った事もあります。その業者が居なくなりましたが、生け簀用のチェンを扱う業者はいると思いますが分らな

い状況です。そのため鉋部会は錬鉄を探して来ましたが、現在はどこにも錬鉄はありません。

 しかし山本鉋には釜地やチェンなどの錬鉄の在庫は、充分ではありませんが今のところ困る事はありません。

もっともこの頃錬鉄の使う量が減ってきている事もありますが。

 17。勝三が金物神社の御番鍛冶を務める

 昭和六十一年に勝三は三木金物神社の鞴祭りの火入れ式に、御番鍛冶師として鉋の古式鍛錬を奉納していま

す。父は同世代の鉋鍛冶と違って終戦後から鉋鍛冶になっているので、仕事で古式鍛錬の形の鉋の鍛接鍛造は

していません。しかし鉋部会での古式鍛錬の練習はよくしていました。横座仕事の基本はスプリングハンマー

での仕事と同じですからスムーズな火入れ式でした。先手の宮本さんと山口さんは大鎚打ちの経験者だった事

もあります。そして父は昭和六十四年には兵庫県技能顕功賞を受賞しています。あの頃は受賞者の仕事の展示

会が神戸サンボーホールで開催されていた。


和六十三年に勝三が白内障になり片目だけを手術しました。あの頃は白内障の手術は一度に、両目ともす

る事は出来なかった。すると手術の後、目視による鉋の幅の感覚が悪くなってしまい、鍛接作業が出来なくな

ってしまった。それからは焼き入れ作業はしていましたが、地元の芝町老人会や三木市の老人大学などの高齢

者グループの活動に参加する事が多くなっていった。三木市老人大学の役員として書類作りにワープロを学び、

社交ダンスのクラブに入り楽しそうに参加していました。

 三木市老人大学を卒業した後、稲美町にあった兵庫県老人大学へ行こうとしたが抽選に入らず行く事が出来

なかった。以前から父は同年代の人と「火曜会」という会が一番楽しみで、休まずに参加していました。

 他にもいろんな付き合いをしていました。その頃には私一人で仕事をしていましたが、平成四年頃から父は

一・二年入退院を繰り返した後、平成六年に七十三歳で亡くなりました。母は五十五歳で亡くなっているので

両親共長生き出来なかった。残念です。

 金物まつりの事

 三木金物まつりは昭和二十七年に三木金物見本市として三樹小学校の講堂で開催されたのが始めです。その

後三木金物振興展と名を変え開催されていました。昭和四十八年に三樹小学校講堂前道路で三木金物びっくり

市が併設され、金物問屋が来場者に金物を販売する事業が始まりました。その後昭和五十五年に会場を三木市

民体育館に変わり、昭和五十九年には金物だけでなく農業団体などいろんな団体が参加する三木金物まつりと

なりました。この頃から金物まつり会場でも、鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の五業種が交代で古式鍛錬の実演する

イベントを行っています。


の昭和五十九年に三木金物まつりの事業として、全国の金物屋さんに三木の道具や工具の知識向上のため、

三木金物製造現場見学と、各道具の講義をする三木金物大学が始まりました。このテキストの鉋の部分を父勝

三が書き、三・四年続けて鉋の講師を務めています。私も二・三回講師をしています。この金物大学は毎年続

けられて、現在も三木金物まつりの時に開催されています。

 平成三年から三木金物まつりの中の金物フェアーとして金物メーカーが販売するコーナーが出来た。鉋鍛冶

も金物フェアーには鉋部会で出店していましたが、個人で出店する鉋鍛冶次々と出て来て、現在では鉋鍛冶

自で出店しています。道具を使う人達に鍛冶屋に道具の説明を聞いて、道具の事を知ってもらうのに良い

イベントです。


成五年からは新しくなった三木市役所前駐車場を中心にして金物祭りが開催されています。この年以

降他府県からも三木の金物を求めて来場者が多くなっていった。三木市としても最大のイベント行事です。

それにより三木市は金物産地として全国に知られる様になって行った。現在は国内だけでなく韓国や中華民国

からも道具を求めて来られます。

 18.三木の鉋が伝統的工芸品産地の指定を受ける

 平成五年頃より三木工業組合が三木金物を当時通産省指定の、伝統的工芸品産地の指定を受けようと調査を

始めた。工業組合として指定を受けるための申請書を作る作業を始めた。鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の五部会が各

業種の昔と現在の製造工程書を作る。他に指定の条件として、百年位続いて一業種十軒以上の鍛冶屋が居て、

産地を形成していた事を証明しなければなりません。何時頃から各業種が三木で産地になったのかを調べる。

 私は鉋部会の役員をしていて、明治の初め頃と現在の鉋の製造工程の原案を書き、定期的に開く鉋部会の

集会でそれを審議し、部会としての鉋の昔と今の製造工程書を作りました。次に私は三木の鉋の歴史と鉋鍛冶

の系図を調べました。江戸時代の金物に関しては黒田清右衛門商店の古文書を本にした「三木金物問屋資料」

を調べました。それによると、寛政八年には鉋鍛冶が居た事が分かりました。そして文政十一年には五軒の

鉋鍛冶が居ました。その後三木金物の発展と共に江戸時代終わりには、七軒から十軒程の鉋鍛冶が居ることが

分かりました。

 明治七年の明治政府による府県物産表によると,鉋の生産量は三木町の所属する飾磨県が日本で一番多かっ

た。それから鉋鍛冶の系図を調べると、明治三十六年には二十三軒の鉋鍛冶が居て明治・大正・昭和と現代

まで産地として多くの鉋鍛冶が居た事が分かりました。この調査により三木の鉋の生産量は、江戸時代の終わ

り頃から現代まで、日本で一番多かった事がわかりました。

 そして工業組合と組合員の努力が実り平成八年に三木金物の鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の五品目が播州三木打

刃物として伝統的工芸品産地に認定されました。そして伝統工芸士の試験が行われ今井・宮本・山口・坂田・

神吉の五名が、鉋鍛冶とし合格して伝統工芸士として認定されました。この時私はまだ伝統工芸士にはなっ

ていません。

 19.私が北米工芸士大会に参加する

 平成十四年年六月には鉋鍛冶の神吉さん・内橋君と鋸鍛冶の光川さんと私の四人が、アメリカの鍛冶屋の

集まりである北米工芸家協会アバナの、四年ごとに行われる大会に招待され会場のあるウィンスコンシン大学

へ行って来ました。このアバナ行きには、アメリカで日本の道具を販売しているヒダツールさんに大変お世話

になり、社員の石丸さんを通訳として帯同させてもらいました。そして運転手もして貰い大変お世話になりま

した。


 次の日は準備だけで二日目に加熱炉や金床を設置しました。材料や道具は日本から送っていましたが、アメ

リカの送風機やレンガで加熱炉を作る時には調達に苦労しました。次の日から実演を行いました。鉋鍛冶の神

吉さんと私と内橋君は鉋の古式鍛錬を交代で実演し、鋸鍛冶の光川さんは鋸の首継ぎと鋸の鏟透きを実演しま

した。観客との受け答えは石丸さんがしてくれました、日本の道具に詳しく通訳には最適でした。 地元のテ

レビ局の取材もあり「三木の道具を宣伝しておきました」と言っていました。

 この時アメリカのバーナードさんという人が人が自分が作った鉋を見てくれと言われました。鉄と鋼を鍛接

して鉋刃を作り台に仕込んでいます。英単語と身振り手振りですが大体意味は分かりました。鉋鍛冶から見れ

ばまだまだですが、自宅に工房があり趣味で鍛冶屋をしていて、鉋刃を作り台に仕込むとはすごい事です。

この人は時々日本に来ていて、家の職場を見学に来た事もあります。




会場にはテントの実演場が数ケ所ありいろんな業種の作業をしています。アメリカの鍛冶屋は鉄を加工して

門扉などを作っている様です。たくましい女の鍛冶屋もいました。ある鍛冶屋は口元にマイクを付けて作業の

状況を説明しながら作業をしていました。スピーカーで聞きながらなので、見ている人は分かりやすいと思い

ました。私達が作業している炉の片側には、ベンチが階段状に設置されていて見学者はそこから見ています。

また手先の細かい作業ではテレビカメラで写しそれを見学者は大きなテレビで見ていました。 アメリカでは

見学者のため会場設営されていると思いました。この

 また同じジャパニーズパビリオンでは刀鍛冶も来ていたが、実演時間が同じで見る事が出来なかったことが

残念です。ここに来ていたアフリカジンバブエの人が、鉄と鋼を鍛接する時に使う接合剤に興味を持たれ、欲

しいというので少し差し上げました。国に持って帰って分析しますと。 

 三日間午前と午後二時間作業し、その後サンスランシスコへ帰り一日観光して帰って来ました。初めての

海外旅行でしたが楽しいイベントでした。

20。健介が鉋鍛冶の仕事に入る

息子健介は以前から鍛冶屋になりたいと言っていましたが、もうこれから鉋鍛冶で一生生活して行くのは

無理だろうと思い他の仕事を薦めていました。平成十五・十六年頃まで不定期な仕事をしていたが、やはり鉋

鍛冶になりたいと家の仕事に入りました。私のする事を見ながら仕事を覚えて行きました。他に私の出来ない

銘切りや、裏出しや刃研ぎを自分で練習していました。

 その後炭焼入れをしたいと云って、勝三の使っていた古い鞴1職場の二階の物置から出し、焼き入

れ炭窪を一緒に作りました。焼き入れする時塗る砥ノ粉や炭の大きさなど、試行錯誤していましたが,健介

は今ではいい焼入れが出来ています。健介の鍛冶銘についても二人で話をしました。私は鉄心斎芳楽か

勝三郎か健介でもいいと言いましたが、本人は鍛冶銘は健介とする様です。

 昔から4寸・5寸の大鉋は時々注文があり作っていました。平成15年頃ある問屋さんから5寸・6寸・

8寸と注文が来ました。今まで5寸より大きな大鉋は作た事がなく、6寸・8寸の鉋は地鉄の寸法を

考えて地鉄を鍛造し大鉋を作りました。最後は一尺の大鉋の注文が来ましたが、これには困りました、地鉄

の幅が鍛造炉の口の幅より広いので炉に入らない。

 考えて一枚分の地鉄でシキを鍛造し、幅の狭い持ち鉄を溶接し、持ち鉄の反対側の地鉄から炉に入れ、

支え鉄で持ち鉄のない方を支えて加熱する事にしました。鍛造温度に加熱出来たら持ち鉄のない方の、頭の

部分を箸で掴みハンマーで鍛接鍛造する。鍛造するともう炉に入らなくて一回しか叩けません。後は持ち鉄

を切断し、コークス炉で半分づつ過熱してハンマーで鍛造成形して一尺鉋の形にします。

 その後一尺二寸の大鉋も作りました。作り方は材料の鋼と地鉄の縦横は一尺大鉋と同じで、厚みを3割増

しで作り、鍛接した後鍛造作業で幅を大きくして一尺二寸に作りました。


平成十六年頃今まである鉋鍛冶がしていた台湾向けの鉋の仕事をする事になった。鉋の幅は小鉋で鉋の丈

は普通の鉋と同じ、鉄は新鉄を使い鋼はヤスキの青鋼を使う。新鉄は鍛接性が悪いと知っていましたが、今

まで新鉄で鉋を作ったことが無く、錬鉄と同じ様に鍛接をするとやはりマサ(1)が多く出てしまった。鍛接温

度を上げて鍛接しても付きが悪い、他の鉋鍛冶に聞くと接合剤(20)の配合を変えた方がいいと。接合剤のホウ

砂の配合を多くすると少し良くなりましたが、やはりマサが多かった。

 マサ付け(21)をする鉋が多く手間がかかかりました。そこでもっと鍛接性のいい接合剤が出来ないかと考

えて、配合されている鉄分を違う物に変えた接合剤を使うと、鍛接性は良くなり今は錬鉄と同じ様に鍛接でき

ています。以前の接合剤では錬鉄で鍛接鍛造しても、マサもフクレ(22)も少し出ていましたが、現在は新鉄を

使った鍛接鍛造でもマサもフクレもほとんど出ません。

 鉋の古式鍛錬

 私は父の代わりに鉋部会の付き合いを始めた時から、鉋の古式鍛錬の練習に行っていました。先手(23)

は今まで使った事のない大鎚を、リズムよく使って鉋を鍛接鍛造するのは難しい。大槌の下の面が鉋に平らに

当たらなくて大槌の面の角が入る事が多かった。特に最後の工程の鉋の長さに切断する先払いが一番難しい。

 小さい落としタガネの頭に大鎚を面を水平にまっすぐに、力を込めて当てようとしても、大鎚の面が斜めに

当たったり、慎重に真っ直ぐに当てようとすると、落としタガネに十分力が加わらず、切断するのに2・3回

かかる事もあった。

 私はこの作業は最後まで満足する作業は出来なかったが、親の世代で学校を出てから鉋の仕事に就いた人は、

大槌作業は身についているので全て一回で切断します。親方の横座仕事は先手の二丁の大槌を受けて、自分も

鎚を入れる。この時先手の大鎚の打つ間隔少しでも永いと横座の鎚が打ち難い、これは先手の問題ですが。

横座仕事は家でする鍛接・鍛造と似ているので、しばらく練習をすると一応は出来るようになった。

 古式鍛錬の形で鉋を作って来た世代の人は、自分のやり方に自負を持っています。ある作業のやり方で今井

さんと片嶋さんが論争した事があった。そのため鉋部会として古式鍛錬の手順を決めようという事になり、

部会で話をして古式鍛錬の各工程をやり方を決めました。

 鉋の古式鍛錬の時横座と二人の先手の鎚のリズムがトン・テン・カンと三拍子ではいけません。先手二本の

鎚がトテンと、横座の鎚がカンと二拍子になるリズムにします。横座が鎚を打ちやすいからです。私が古式鍛

錬の練習を始めた頃、鉋の大先輩の今井さんが横座で、私が先手の主(おも)の後から打つ二番を打っていた

時、「二番はもっと早く打て」と言われ、より早く打とうとして私の落とす鎚と、主(おも)の振り上げる鎚

が当たったことがありました。

 金物神社の鞴祭りに御番鍛冶が、古式鍛錬を奉納する火入れ式はは昭和二十三年から始まりました。鋸は

毎年して他の鑿鉋などが順番に行っています。その後昭和六十年代から鋸・鑿・鉋・鏝・小刀の五業種が順番

で行います。鉋部会も五年に一回御番鍛冶が周ってきます。私は鉋部会に入ってから今井さん・宮本さん・

神吉さんと三回、金物神社の鉋の御番鍛冶の先手を務めた後、平成十八年には私が金物神社の鞴祭りの火入

れ式の鉋の御番鍛冶師を務めました。私が思っている様に完璧には出来ませんでしたが、責任を果たす事は

出来ました。 



そして私は平成二十二年に播州三木打刃物の、鉋の伝統工芸士の試験を受けて合格し伝統工芸士に認定され

ました。鉋の伝統工芸士は山口さんと坂田さんが辞めた後、今井さんと宮本さんもも高齢で神吉さんと私が、

鉋の伝統工芸士の仕事をしなければいけないと思ったからです。現在鉋の伝統工芸士は今井さんと宮本さんも

亡くなられて、神吉さんとその後継者である森田君と私の三人です。


 私は平成二十四年には兵庫県技能顕功章に三木市と工業組合から推薦され、私夫婦と鏝鍛冶の杉田さん夫婦

と一緒に、兵庫県公館へ授賞式に行って来ました。三木商工課の人にはお世話になりありがとうございました。

 平成二十八年には三木金物資料館で三木の鉋の特別展が開催された時、行事の一つとして「三木の鉋の歴史」

の講演を頼まれ、みき歴史資料館で講演を行いました。全て名誉な事です。

  21.仕事の内容が変わってきた

 この頃は家を建てる時大工さんが鉋を使う事が少なくなった。そして鉋の売れ行きが少なくなると、鉋の

付属品である押金を作る鍛冶屋も減って行って、三木の押金鍛冶はなくなってしまった。その後平成二十六

までは三条押金を購入していました。その三条の鍛冶屋も廃業し現在は鍛造品と利器材2の押金を

自分で作っています。小鉋から二寸鉋まで押金のサイズは多く、作るのに手間がかかります。

 刃付けも荒刃研ぎは研ぎ屋さんにしてもらった後刃付けは家でしています。裏出しをして裏をのせた後

刃付けをする。仕事のヒマな時か、時間の空いた時にしています。

 現在は仕事の状況も変わって来ています。以前は鉋の鋼も二・三種類位で鉋の大きさも、寸四・寸六・寸八

がほとんどで少品種多量生産だった。それでそれぞれの鉋の鍛造済の鉋の在庫もできましたが、今は鋼の種類

も多く錬鉄の種類や鉋の形のの指定もあり、注文が来る度に鍛接鍛造する状態になってしまった。小鉋から

大鉋まで種類が多くなり、その上それぞれの押金も作る、多品種少量生産の形になってしまった。これも時代

の流れと言うか時代の要請でこれに対応しなければならないと思う。

 小鉋の注文も多くなったが、キワ鉋や台直し鉋などの特殊台の台屋さんは、もう播州に居なくて三条の台屋

さんに頼みます。鉋の鋼も硬い鋼を要求される事が多くなった。しかし山本鉋には東郷零号鋼はもう無く、

特別刃物鋼の在庫も少なくなってきた。犬首鋼はもう少しかない、これからは硬い鋼は青紙スーパー鋼になる

だろう。

 今頃は新しい仕事として、今までそれぞれ地方の村や町にいろんな木工職人がて、そこの職人さんが使う

道具は地元の鍛冶屋さんが作っていた。その鍛冶さんが少なくなり、その鍛冶さんが作っていたいろんな

刃物を作ってくれと頼まれます。竹削り刃物や箸削り刃物に和傘のある部分を削る刃物など、見本や図面をみ

てどうして作ろうかと二人で考えて作りました。手間を考えるとあまりお金にはなりませんが、うまく仕上が

ると満足感があり面白い。

 この頃では他に、槍鉋や手斧や厚い作里鉋や玄能の様な鎚など、特別注文品も頼まれることが多くなった。

こんな注文はもう私は作れません。みんな健介が作っていますが、慣れない仕事ですから時間がかかります、

健介は作り方も人に聞きながら、また自分で考えて作っています。

 この頃包丁が有名ですが外国で日本の刃物の評価が高くなって来ています。鉋も薄削り大会の削ろう会にも

外国人の参加が多くなっているそうです。山本鉋もアメリカ・カナダ・中華民国からの仕事も来ていますが、

注文生産品が多く製作に時間がかかります。これからは外国向けの仕事が多くなりそうです。

 山本鉋創業時から特にお世話になった問屋さんや金物屋さんは、梶原朝登商店、今は(株)トダの戸田幸一

商店、京都の入江刃物店、納める問屋は何度も変わりましたが福岡県大川市志岐刃物店。台屋のヒシケンさん・

徳島県鴨島町の坂東金物店。佐世保市の曼陀羅屋さん。現在も取引のある事業所もありますが、山本鉋として、

それぞれの時期で大きく助けてもらいました。

 現在の山本鉋の製造工程

1.地鉄の鍛造 2。鍛接鍛造 3.焼鈍 4.鋼直し 5.裏皮むき 6.均し 6.側頭刃先甲の成形

7・生研ぎ 8.面取り・刻印打ち 9.泥塗り・焼き入れ 11。焼き戻し 12.歪み取り 

13.焼き研ぎ木砥当て 15.刃研ぎ 16台打ち

 地鉄の原料である錬鉄のジョストン2やチェンを鉋部会の地鉄鍛造場で鍛造して地鉄を作る。その地鉄

を家の鍛造場の重油炉で加熱した後スプリングハンマーでシキを作る。シキの上に接合剤を付けた鋼を置き重

油炉で加熱する、その時鋼の上には置き金という鉄片を置いて、鋼が先に加熱されるのをのを防ぐ。鍛接温度

になると炉から出し小鎚でノタ打ちをする。

 その後スプリングハンマーで鍛接鍛造して鉋の形を作りますが、高級鉋になるほど鋼の鍛造回数を多くして、

鋼の組織を微細にします。鉋の形にするとプレスで鉋の長さに型抜きをする。次に鉛浴炉で焼鈍をした後、研

磨機で刃先を削り鋼を見て研磨と鑢で厚みを揃える。その後研磨機で裏を削った後、バフで仕上げる。鉋の裏

上面に鎚目を入れた後、均し小型ハンマーで甲から叩いて裏を作る。

 その後、側・頭・刃先・甲を研磨で削り鉋の形を整える。バフで生研ぎをして面取りをした後刻印を打つ。

その後鉋の周りを泥塗りをした後。鉛浴炉で焼き入れ温度に加熱した後水焼き入れをする。注文により炭火窪

での焼き入れをします。荒歪みを取った後、磨く所は磨き仕上げをして焼き戻しをする。仕上げ歪み取りをし

た後、バフで焼き研ぎをする。次に木砥当てをして、錆止めすると仕上がりです。

あとは裏押屋さんで刃研ぎをしてもらい.、台屋さんで台打ちをし包装をすれば出来上がりですが、鉋刃だけ

納める所もまだまだあります。基本的には全て手作業で行っています。


山本鉋の鍛冶屋の神様

私の家の前栽の大きな松の木の根元に、鍛冶屋の守り神として、京都伏見稲荷大社の御劔社が祭られていま

す。三木の上の丸稲荷神社の本社として三木の鍛冶屋から尊崇されている神社です。伏見神社の御劔社には小

さい井戸があり「焼刃の水」と言われています。この水を鍛冶屋の焼き入れの焼き場水に入れると、良い焼き

入れが出来るといわれ、昔から三木の鍛冶屋はここへ参拝した後持って帰ったものです。


私の家の御劔社が何時から祭られていたのか、聞いていなかったので分かりません。今の祠は私が平成十年

頃に祭られていた祠が、雨風で壊れたので新しく買ってきました。古い祠は今より少し小さい木製の祠でした。

もう一つ今の祠の後ろに小さい瓦製の祠が崩れて残っています。一つの祠が三十年ほど持つとして、初めの祠

は約八十年から九十年前に喜市が、鉋鍛冶を始めて少し経った頃に祭られたものだろう。今の祠は植木に囲ま

れ樹齢百年ほどの松の木の下に鎮座しています。

令和元年現在で山本鉋は大正八年に喜市が鉋鍛冶を創業してからちょうどす。三木の鉋鍛冶の

系譜をたどれば健介は中屋九兵衛から代目になります。

注記

1.鏟 (せん)    円弧状の刃で金属の表面を削る道具。

2.火窪(ほくぼ )炭やコークスを使って加熱する炉。

3.木砥当て   上部が円弧状の木の表面に研磨剤を置き、鉋の裏の鋼の部分を押し引きして磨く事。

4.錬鉄     江戸時代を終わり頃から明治にかけて、主にイギリスで作られた。溶かさずに錬って作ら

         れた鉄で、鍛接性がよく、研ぎ易い鉄です。

5.スタル鋼   外国で作られた洋鋼の事。

6.ドンゴロス  麻袋を開いて風呂敷状にしたもの。

7.クモ     不完全焼き入れの部分の事。

8.角刃     鉋刃が台の溝に入る部分の刃先の角の刃の事

9.シキ     鉋を鍛接する時地鉄の先を薄く狭く。頭の部分は厚く広くする形の事。

10.ノタ打ち  鍛接をする前に小鎚で鋼を仮付けする事

11.ベト穴   鍛造している時冷えた酸化鉄で鉋の表面についた穴の事。

         ベトとは酸化鉄の事。

12.オチ    鉋刃の頭と刃先の厚みの差の事。

13.ヌケ    鉋の刃の測と真ん中の厚みの差の事。

14.バフ    布で円状に作った表面に研磨剤のエメリー粉を張り付けたもの。

         鉋の表面を削る時に使います。

15.スコ物   傷があり普通の価格で売れない鉋の事。

16.チェン   錬鉄製の船の錨を吊るクサリ。

17.シマ    錬鉄の中に残った鋼の部分。

18.鞴(ふいご) 火窪の炭を燃やすための送風装置。

19.マサ    刃先の部分で完全に鍛接できていない部分の事。

20.接合剤   鍛接する時鉄と鋼の間に置く粉。鍛接する表面をきれいにする。

21.マサ付け  マサの部分を加熱し、小鎚で叩いて接合する事。

22.フクレ   鍛接した鉋の鋼の部分の中で鍛接出来ていない部分の事。焼き入れをすると

         そこが膨れてくる。

23、先手    大槌を使って鍛接鍛造作業をする人。横座から見て左が主で右が二番という。

24、利器材   鉄と鋼を工場で鍛接し作った複合鋼材。

25、ジョストン 錬鉄でできた建築用i形鉄、英語でジョイストと呼ばれそこから

          ジョストンとなったのだろう。

 

後書き

 鍛冶屋の職人が本を書く事はほとんどありませんが、私の義理の伯父さんの田中正一郎さんは自分の半生を

綴った「終始一貫」という本を書いています。子供の頃に両親を亡くしおばあさんに育てられ、小学四年生で

住み込みで鉋鍛冶祖父喜市の弟子になり、苦労して鉋鍛冶として独立し鉋の会社を作っています。この本の中

に大正昭和の三木の鉋鍛冶の状況や作業の事が書いてあり、三木の鉋の歴史を調べるのに参考になりました。

 私の本も山本鉋の歴史だけでなく、三木の鉋鍛冶の事の載せて記録を残すことが大切だと思い、大正昭和

から鉋に関する事を載せています。

 西日本の道具産業は江戸時代から明治大正にかけて大坂・堺の大工道具や京都伏見の鋸は鍛冶屋も多く居て

大変栄えていた。しかし鍛冶屋が減って行き道具産業が無くなると、それまでの道具の歴史も消えてしまった

様です。三木の道具産業もこれからどうなるか分かりませんが、私は三木の道具の歴史が分る様に記録を残す

べきだと思い資料を集めています。