鍛冶屋のつれづれ書き   
                   伏見住鋸鍛冶

 伏見住谷吉源三郎と銘のある横挽き鋸が手に入りました。伏見の鋸鍛冶といえば谷口だろうと思いましたが、
銘切りは谷吉と読めます。玉鋼だと思いますが現代鋼のようにきれいな地肌に、黒い古色の出た素晴らしい鋸です。
よく切れた鋸だろう。

   

                     刃部の長さは一尺三寸.全長二尺七寸三分           

  京都の鋸鍛冶の始まりは室町時代までさかのぼると言われるほど古く、江戸時代は中屋や谷口などの鍛冶屋が
居て永く栄えています。明治大正の頃になると三木金物の発展により、伏見の鋸鍛冶の軒数は減ってゆきました。
私が京都の目立て屋さんに聞いた話ですが、伏見の鋸鍛冶は谷口清兵衛・清次郎・清三郎の谷口系統と森口系統が
多く大正・昭和の頃はかなりの軒数の鋸鍛冶が居たそうです。

                  私の持っている伏見の鋸
 
         
  谷口清兵衛    現代鋼製                         伏見住谷口清兵衛  現代鋼製
 刃部の長さ一尺五寸三分、全長三尺三寸三分           刃部の長さ一尺五寸二分
 
 平成16年に篠山の田中さんからもらった京都の鋸鍛冶に関するメールです。
 

「当時の文献から推察すると、鋸鍛冶の中屋家は大鋸など山林用鋸を得意とし、江戸時代の初頭にはすでに
鋸鍛冶の名門として名が通っていたようである。文献によれば延宝六年(1678年)当時には、京都市内
ならびに伏見の所々に鍛冶や金物店が多く存在し、特に人馬の往来の頻繁であった三条大橋から伏見に通ずる
伏見街道沿いには、鍛冶の集団が見られたということである。中でも、方広寺大仏殿前より東福寺前あたりには、
諸鍛冶が軒を並べ大工道具など生産されていた。この中には鋸専造鍛冶も多く、文献には「今から四百余年前、
東中屋某これを創め、次いで西中屋某、谷口家が着手し中屋家は関東方面、谷口家は関西地方に販路を有せり。
天明年間最も盛んにして製作戸数四十余戸に上がれり」とある。」
 

 江戸時代の京都の鋸鍛冶に関する文書はあるようです。三木は天明年間の後、寛政四年には三十九軒と伏見と
同じくらいの鋸鍛冶が居た。三木が生産量を伸ばし特に文化元年からの三木金物の江戸直接販売により、文化
十二年には三木の鋸鍛冶は七十三軒に増えている。この後中屋家は大鋸(おが)の鍛冶屋だったが、三木の三軒
の大鋸鍛冶に押され中屋家は衰退していった。
     

    谷口清右衛門    玉鋼製            伏見住谷しか読めません 現代鋼製
  刃部の長さ一尺 全長一尺八寸二分         刃部の長さ一尺五寸二分 全長二尺九寸一分

 
 松尾具屑さんの「木工具の楽しみ方」に伏見住の鋸鍛冶の名が載っています。谷口・谷原・谷重・谷定・谷川・

仲谷・仲尾・仲重・森口とかなりの数です。有名なのが谷口清兵衛で江戸時代から代々鍛冶屋名を襲名しているのだろう。
その弟子達が谷原・谷重・谷定という鍛冶屋だろう。谷吉源三郎も谷口系統の鋸鍛冶だろうと思います。森口銘の鋸も
多く残っているそうです、京都には森口鋸鍛冶の末裔が居られて、そこの記録から森口の始まりは伏見でそこから
弟子達が京都・大阪で鋸を作っていたそうです。かなりの軒数の森口鍛冶屋が居たのだろう。
 仲の付く仲谷・仲尾・仲重という鍛冶屋は私は知りませんし、他には出てきませんが仲の付く鋸は多く残っている
そうです。仲と付く伏見住鋸鍛冶では仲道久兵衛という名人が居たそうです。伏見には昭和の戦後にも
かなりの軒数の鋸鍛冶が居たと思われますが、どういう鍛冶屋が何軒居たのか記録は何も無いそうです。
 
 ただ昭和四年の伏見町誌には伏見鋸の昭和元年の生産量は四万二千四百枚、生産額は五万九千圓と載っています。
昭和四年の三木鋸の生産量は百十九万百四十枚、生産額は七十五万六千八百六十九圓です。鋸の産地としては
三木の方がかなり大きかった。
 京都伏見の鋸鍛冶は長い歴史があり、多くの鍛冶屋が居て昭和の時代まで続いていましたが、記録が少なく
あまり分かっていません。これは伏見の鋸鍛冶は京都・大阪の都会に近く、鋸を使う大工が近くに多く居て直接販売
する事が多かった。この様な場合鍛冶屋の腕の評価は大工に知れ渡り名前が通る人も多かっただろう。伏見の鋸鍛冶は
問屋・金物店を通して売る事が少なくより記録が少ないのかもしれない。そのため伏見の鋸鍛冶の事は口伝えでしか
残っていないらしい。大阪の鍛冶屋も同じ事が言えると思います。
三木の鍛冶屋の事も記録を残し歴史を残すべきだと思ってます。