鍛冶屋のつれづれ書き

難波の鞴師三木で死す

                                            小田慎次

 昭和63年に三木市立金物史料館の館長をされていた小田慎次さんが書いた文章です。三木史談に載っていました。この中に明治の初め頃

大阪には吹子町という町があったという文章があります。吹子を作る職人が集まった町だったのだろうか。写真の鞴は幸左衛門と墨書きがあり

金物資料館に展示してあります。ある三木の鋸鍛冶が仕事を止める時他の何点かの道具と一緒に資料館へ寄付をしたものです。

三木の鍛冶屋の使っていた鞴はまだ残っていますが銘の墨書きが残っているのは少ない。

 金物資料館にある幸左衛門の銘の鞴                    

 

 表題の鞴師とは亀井幸左衛門氏の事を指す。幸左衛門氏は本名を幸治郎氏といい、明治六年に大阪市南区谷町六丁目六番地に生まれている。

妻きくさん長女はるさん(明治三十六年生)を供ない、はるさん二十才の大正十三年に三木市福井二丁目六番二七号(旧三木町下町八五八番地)

転宅して来ている。転宅の直接の動機は明らかではないが、推察するに明治中期より大正年間にかけて異常なまでに三木金物ブームが起こり、

鞴師だった幸左衛門氏はそのニーズに答えて三木への転宅であっただろうと思われる。

 当時幸左衛門氏の作成していた鞴は凡ゆる「大阪づくり」と称して、鞴の底部に板ガラスが敷いてなく左側中央下に羽口(はぐち)の取り付け

穴があるのが特徴で、高さ六0センチ幅三七センチ奥行き一一五センチのものであった。言うなれば左手利きの鍛冶衆にあわしたもので右足で鞴を

漕ぐ、と言うユニークなものであったがやがて右手利きにも合わし左足で漕ぐと言った現形式に替えていった。

 只今三木市に現存する鞴の大部分は幸左衛門氏の手に成ると言われている。やがてはるさんは三木市福井一八五番地の井上清吉氏、妻みかさんの

長男安太郎氏と昭和四年十月一九日婚姻の運びとなる。そして昭和七年七月二日に長男進氏を出産する。進氏は現在三木東高校の教諭である。

 先般来進氏を通し幸左衛門氏の資料を御願いしていたところその資料が届いた。それによると進氏を通じて母はるさんの語るには「幸左衛門は

日本一の鞴師だ」と言う。その理由として鍛冶焼き入れの中でも鉋の焼入れが一番難しいとのことでである。つまり肉厚の地鉄に鋼を鍛接する合し刃

のそれを指していると思われるが、その鉋鍛冶の鞴を幸左衛門が特に心血を注いで作ったものだと言う。

 その焼入れの際に鉋鍛冶は足首のコビキ(とはるさんは言う)で風の送り具合がうまく行くようになっていたようだ。思うに焼き入れ前の鉋に瞬間

激しいい風を、火窪に送り込むにはかなり鞴を酷使しなければならなかったであろう。それらの要素に耐える鞴の構造式、なりわい、にはかなり高い

次元の要素がもとめられたものと思われる。

 為に他の鞴師の造った鞴が一台十円の時、幸左衛門氏のものは二十五円もらっていたと言う。その辺の様子をよく知っているのは当時秀れた鉋鍛冶の

今井の忠やんがよく知っている。もし存命であれば忠やんに聞いて欲しいとの返事であった。早速調べたところその今井忠治氏は昭和五十八年九月二十八日、

三木市末広三丁目(大開町)で八十七才で死去されており詳細が伺えず誠に残念であった。

 そして幸左衛門氏も昭和十五年に此の世を去っている。思うにひとりの浪速の鞴師が他国で鋭意精励し、此の道ひと筋に生き抜いて三木の地に骨を

埋めたのである。その霊また以って冥すべしである。

 先般私が亀井幸左衛門氏の稿を進めていることを、大塚町の筒井俊雄氏に告げたところ、次のような資料を後日何かの参考にと頂いた。それによると

明治初期頃大阪市北区天満吹子町に、菱の中に井印吹子製造所井上九兵衛なる職人がいて、古来より通名吹子屋甚右衛門を名乗っていた様子。

ただし井上九兵衛と亀井幸左衛門とが師系列であったかどうかは定かでない。 尚はるさんは今年八十三才でいまなお健在である。

鍛冶土間にともる赤飯鞴祭   慎次

S。63.4    三木市立金物資料館勤務