鍛冶屋のつれづれ書きへ

湯の山街道不断坂                     山本芳博

           
          横山林三さんの描いた昭和10年代の不断坂
 
私の家は三木から有馬温泉へ続く湯ノ山街道の、芝町から大塚町へ上がる坂の途中にあります。
 この坂の名が不断坂だという事を知ったのはるか以前に芝町の集会で、区長を永く務められた
 魚住明正さんが大塚へ上がる坂を、「あれは不断坂というんや」と聞いたのが初めです。
  それでこの坂が不断坂だと思っていましたが、三木の観光協会では不断坂は平山町にある
 といっています。それは不断校が平山町にあったそれで近くの坂が不断坂だと。

 

今は小さな薬師堂が残るだけですが江戸時代の終わり頃、平山町に芝町との境に不断山浄念寺
 というお寺がありました。しかし明治2年に住職が亡くなった後、継ぐ人が無く寺院の大部分を
 加東郡池尻村に売ってしまったそうです。

 浄念寺はいわゆる平山町の不断坂から少し離れていて、坂の近くには白雲山本長寺があり浄念寺の
 山号から坂の名前になったとは考え難い。明治六年頃小学校が平山町にありその名前が不断校だった
 だろうといわれています。それは三樹小学校百年史に「古老の言によると平山町の今の高階医院の
 辺りに不断楼という料理屋があった。水商売に不向きな名前だから小学校の名を残したのだろう」。
 それで平山町の不断楼の近くに不断校があったのだろう。そしてその近く坂が不断坂と呼ばれて
 いたのだろうと。これが平山町不断坂の一つの理由の様です。

 

しかし不断楼に関しては三木史談3号「明治初年の三木町」によると、下滑原(しもなめら)
 の山茂の付近の小路に善導寺がありその門先に不断楼があった。ということは不断校が出来た頃
 には不断楼は下滑原にあった事になる。善導寺の山号が不断山なので不断楼の名はここからきた
 のかもしれない。すると不断楼が平山町あったから不断校が平山町にあったという根拠は無くなり、

不断校は何処にあったか分からない事になる。

 

  しかしその不断校という名はどこからきたのか。大塚町の極楽寺の山号は無量山不断院極楽寺といいます。

芝町から大塚町へ上がる坂が不断院へ上がる坂だから不断坂と呼んだのではないか。そして坂の下に
 ある芝町の心光寺には江戸時代から明治の初め頃に寺子屋がありました。

 教えていたのは住職の大河内還誉という人です。この寺子屋に不断坂の下で不断という名がついていた
 のではないか、これは推測です。そして寺子屋が統合されて小学校が出来る時、

同じ湯ノ山街道沿いでやはり平山町か芝町辺りに不断校として出来たのではないか。大河内還誉という人
 はその後不断校にも樹小学校にも教師として名が残っています。

   
 明治の初め頃平山町にあったのは片市という料理屋で明治30年頃まで営業していたらしい。これは郷土断片と
いう記事の中に
 片島三治さんの言葉として載っています。三治さんのおじいさんが江戸時代から片市という料理屋を
していたらしい。その後明治の終わり頃
 廃業しています。昭和7年の大水害で下滑原の不断楼は流されたのだろう、
その後不断楼は平山町に移転し昭和10年前後の地図に不断楼が
 平山町にあります。
  これが三樹小学校百年史の古老の言になったものだろう。昭和57年に大塚町が大塚という本を作った時、芝町
から大塚へ登る坂を不断坂だと
 いう人も居たそうです。しかしそんな事は知らないという人が多く記事にならなかった
そうです。今は芝町に住んでいませんが芝町で生まれ育った人
 であれが不断坂だと聞いた事があると言う人もいます。
芝町から大塚への坂が不断坂という事は少ないが近くの人々に伝承されていたのだと思う。

                 上から見た現在の不断坂

そして平成20年2月に発行された「播磨史小さな旅」の本でも芝町から大塚へ登る坂を不断坂と紹介しています。

その後新しく資料を見つけました。昭和4年に三樹小学校の教師達が書いた三木町郷土調査では、平山町から南へ
 今の県道を横切り上の丸へ上がる道を不断坂と載っています。しかし平山町から二位谷川を越えて上の丸へ通る道は
 明治以前から狭く、その頃上の丸にはあまり人が住んで居なくて、そんなに人の通る道ではなかったと思います。

そのため人々に不断坂と後の世まで呼ばれる様な道ではなかったと思います。

 

 この様に三木には不断と呼ぶ言葉が付いた所が数ヶ所あります。これは三木には浄土宗のお寺が多い事と関係がある
 かもしれません。それは浄土宗には不断念仏という絶え間なく念仏を唱える修行があるそうですが、その不断と付いた
 山号のお寺が三木に4寺あります。そのためお寺の近く不断という言葉が付くこともあるのだろう。

  すると浄土宗極楽寺と浄土宗心光寺の間にある坂が不断坂というのと、浄土宗心光寺にあった寺子屋に不断という名が
 あった事は想像できます。

 

 不断坂の途中芝町と大塚町の境には城の様な石垣があります。江戸時代の絵図にも載っている位古くからある様です。
 この様な石垣を作る事が出来るのはこの地を治めた領主だろうと思いますが、何のために作ったのか分かっていません。
 南側の石垣の上には薬師堂があり小さな薬師如来様が祀られていますが、ここには古い言い伝えが残っています。

 

昔この薬師堂に泥棒が入り薬師如来様を盗んで加古川の方へ歩いて行きました。別所の這田村辺りへ来ると突然お腹が
 痛くなってきました。泥棒は仏像を盗んだ罰だろうと怖くなり、仏像を返そうと道を引き返しました。するとお腹の痛みは
 無くなってきて、仏罰ではないのかとまた加古川の方へ歩き出しました。するとまたお腹が痛くなってきて、

これは仏罰だとこの薬師堂へ返しに来たそうです。

 

 北側の石垣の上には南無妙法蓮華経の大きな石塔が建っています、これは大塚町の相撲取り岩城戸久吉が建てたものです。
 岩城戸さんはある時大病に罹りましたが、医薬の効果なく苦しんでいました。その時日蓮宗本要寺で南無妙法蓮華経の真言を
 唱えて病気平癒を祈願したところ奇跡的に快復しました。その後お礼の意味だろう、南無妙法蓮華経の供養塔を文久元年に
 建てています。周りには協力者に名前も刻まれています。近所の人はこの石塔の事を宝塔と呼んでいます。

 

追記

 新しい資料を見つけました。昭和56・7年頃にコタニマサオさんが書かれて神戸新聞に週1回連載された「わが町今昔芝町」
 の中に心光寺のことが載っています。芝町から大塚へ上がる坂は不断坂という名前だったと、覚えている人はいたのだ。

そして心光寺にあった寺子屋は不断塾という名前だった、すると小学校の不断校が心光寺にあった可能性もある事になる。

 

参考資料

 三樹小学校百年史  大塚 三木史談3号  郷土断片 美嚢郡誌  三木町郷土調査  わが町今昔