鍛冶屋のつれづれ書きへ

播州鋸の由来

三木金物資料館にあった小さい冊子です。誰が書いたか分かりませんが三木の鋸組合として書いた文章の様です。

 

 播州三木町及び其の地方にて出来る鋸でも東京鋸、又は土佐鋸、伏見鋸と云う様に名称がつけられているのは其の地方地方で形態が違うためで
其の土地で出来ると云う意味ではありません。日本で鋸と云へば三木と云う事になってをります、製品の良、不良、値段の上下は用いる鋼と
鍛錬方法に起因してをることを御了承下さい。

 昭和十二年記

 

 天正年間三木城攻撃当時三木町住民は戦渦を蒙りて、四方に散りましたがその内に吉田屋利兵衛という人あり。此の人は山城国伏見町へ
避難したのであります。利兵衛以為我が故郷は山間なれば木炭豊かにして鍛冶の業を起こすに最も適当である、我若し機を得ば帰国して斯業に
従事し其の隆盛を圖らんと、即ち伏見の鋸鍛冶に師事して其の業を習得したということです。

 戦後三木町が復興するに當り利兵衛も亦帰国して三木町下町に職場を開き鋸の製造を開始致しましたが是が播州鋸製造の濫觴とあります。
                                             (鋸製造組合の記録、鋸鍛冶の沿革)

当組合の記録に依りますと久留美村大村の金剛寺に吉田屋利兵衛の位牌が保存されて居りました法号を「法譽浄春信士正徳五年(1715年
三月二十九日」とありますので、元祖の利兵衛は此の人以前の先代であろう云われ、一説には元祖利兵衛は旧農鍛冶で元文二年(1737年)
頃から鋸の製造を始めたとある。けれ共此の人が初代なりしや否や疑問であると書かれております。


 けれども三木町寳蔵文書に依りますと延享元年(1744年)の「諸色明細帳」の鍛冶屋十二軒の中には利兵衛の名が見えず、下町鍛冶伊兵衛
の名が其の筆頭に挙げられている所から見ると、
吉田屋は利兵衛を襲名せるに非ずして寧ろ後年に至りて吉田屋の屋号を用い利兵衛と称した人が
出たのかと思われます。

 何故なら其頃野道具鍛冶八軒の仲間から公儀へ差し出した訴訟の文書に依ると八軒は何れも世襲の鍛冶であったのみならず特に伊兵衛は文書の
筆頭に置かれた家柄でありますし、又それより七十一年後の文化十三年の黒田氏所蔵の「諸鍛冶連名控」には鋸鍛冶七十三名の筆頭に吉田屋利兵衛
の名を発見致しますので、当時家柄の格識を重んじた世相より推して利兵衛の祖先は伊兵衛なるべく利兵衛の名は必ずしも襲名しなかったと信ぜられるのであります。


 其の如く鋸鍛冶は延享元年の野道具鍛冶八軒より分業となり文化二年には五・六十名となり同十三年には七十三名に激増して居るのみならず生産地
は三木町を中心として久留美村別所村方面に跨り更に加東郡にまで及んでいるのであります。而も三木町は製品の集散地でありますから製品は殆ど此の
地に集まり金物問屋の手を経て大阪・神戸・名古屋・東京方面へ続々売り出されたのであります。

 

 次に鋸製造方法の変遷に就き其の大要を概説しますと、今より四十五・六年前までは和鉄和鋼が用いられ因伯地方から産するものが多かったけれ共
打刃物の生産が激増した旧幕の晩年に於いては或る部分は出羽産の鋼を用いました。弘化元年八月七日の黒田氏所蔵文書前挽鋸の値上げを江戸其の他へ
通知する文中に「七郎印は鋼出羽飛切八度たきて其の後練合申事」とありまして品払底のため石州出羽産の鋼を引いた事が判るのであります。

 元来玉鋼は夾雑物が相当多量に含まれておりますので、其塵埃を抜き併せて鋼に粘りを付ける為め幾度となく鍛えるのであります。玉鋼の計算は一束
一束数へ、一束の目方が約十貫目鋼塊にして約三十個位であります。之を鍛えますには先ず鋼塊を木炭炉中に投入して灼熱し、一つ一つ取り出して扁平
にし是を継ぎ合わせて適度の長さに鍛えあげます。それより後は長い鋼の中央から二つに折断しそれを重ね合わして鍛錬し此の作業を以前は十二・三回も
繰り返して鍛えたのであります。


 此の鍛錬には向鎚三人を使いますが、向鎚は別に専業とする職人がありまして、三人で組を造り鋸の製造場を巡り歩く制度になっておりました。然るに
明治十三年頃になりて我国へ始めて洋鉄洋鋼が輸入せられ三木地方へも入って来ましたので鋸の製造業者と云わず他の刃物製造業者は之を一見しますと
誠に都合よく出来ております。品質も良く玉鋼の如く不純分子を除き炭素量を増減する必要もなく又形に於いても平角丸に区別されて居て直ちに用途に
適し且つ値段も安値であるので之を用い始めたのであります。此の間板鋼と角鋼とを原料にして鋸を造る区別が生じまして自然に派となり、又板鋼派は
別に並鋸製造一派を生じて結局三派となりましたのであります。即ち鋼板を用いる派は板鋸・並鋸の製造に転じ角鋼を用いる派はスタル鋸の製造に移ったのであります。

                                    (スタルとは鋼の名称にして十二番糸引鋼をいう)

スタル鋸は角鋼を用いるので原料の鋼は高価であり製造方法も面倒であり多大の労力と時間を要するので自然売値も高価となり商店側との取引関係は
同一の行動許しませぬので分離独立するに至ったものであります。其の当時組合員は十五・六名でありましたけれ共其の後追々増加して今日では四十名
以上となって居るのであります。又原料和鋼を以って製造する五十蔵安兵衛・宮野平次郎の弐氏を便宜此のスタル鋸製造の組合に加入して居るのであります。

 次にスタル鋸製造の方法を累述致しますと原料4 角鋼は十二番糸引鋼の五・六分角を用いますが之は独逸の製品に限られて居ります。昔は樽積めに
されて一樽の目方十三・四貫入りでありましたが今日では函詰めにされて居ります。

 然るに欧州戦争後独逸より輸入が止まったのでやむを得ず米国のカーネギー鋼などを用いたる事もありましたが到底独逸の製品には及びません。
戦後には再び独逸品を用いて居りますが戦前よりは品質が劣って居ります。その故は戦争当時右の製鋼会社が一時敵国に占領されて設備を破壊せれらた
からだと云うことです。

 

此の十二番鋼を上等の松炭を以って炉中で高熱度に灼熱し向鎚三人で鍛錬を繰り返して平板とします。次に平板としたるものを四枚一と重ねとしまた鍛錬
致しますが之は火中から取り出したる鋼板を冷却せしめ又為でありまして次の鍛錬には内側の二枚を外側に出して入れ替えて鍛錬し大体鋸の形に造ります。

次には一枚一枚に就いて地金を締める鎚打ちをしますが以上は鋸の荒打ち作業であり、それより鐵の柄付きをなし周圍を切り落とし歯を目落し油の焼入れを
施し次に焼戻しをして切味に細心の注意を拂い剪にて鋤き各自の登録商標を刻み込み目立職に託して目立の作業に掛かるのであります。

 

 和鋼で製造するには原料の玉鋼を一つ一つ鍛錬して平にし、それを継ぎ合わして平鋼として鍛錬を繰り返すのでスタル以上に手数と労力を要し原料も
高価でありますから値段も高くなります。 以上述べましたましたようにスタル鋸と和鋼鋸とは多大の経費と労力を要すす結果賣価は高くなりて現今の
如き財界の不況の時は一層打撃を蒙るのであります。値段の點で商店側との取引も行き悩み勝ちとなりますので止むを得ず組合員は直接販賣の方針を採り、
各自が登録せる商標の信用を失わぬよう製品の優秀を競って居るのであります。


 萬一不良品を賣りて信用を失へば最早取り返しがつかぬものと観念して良品を安く賣る心掛けで懸命の努力を致して居ります。不景気の打撃を受けて居ります、

緊張して永遠の名譽を考え名を賣ることに全力を注いで居るのであります。此の精神は三木町鍛冶職の自己製品に對する自尊心の現われであります。